失踪した卓球選手
パリ五輪開幕まであと1ヶ月。日本卓球界に衝撃が走った。エース選手として知られる美波香が突如として姿を消したのだ。23歳の彼女は、実力派として期待を集めていたが、その失踪と同時に、ドーピング検査で陽性反応が出たという噂が広まり始めた。
真田は、美波香の親友で同じく日本代表選手の由紀子から突然の電話を受けた。由紀子の声は震えていた。
「真田さん、どうか助けてください。美波香が消えてしまったんです。警察にも相談しましたが、まだ行方不明として扱えないと言われて…」
真田は躊躇した。元警察官の彼にとって、スポーツ界の事件に首を突っ込むのは気が進まなかった。しかし、由紀子の必死の様子に心を動かされ、調査を引き受けることにした。
「分かりました。できる限りのことはしてみましょう」
翌日、真田は日本代表チームの練習場を訪れた。そこで彼を出迎えたのは、厳しい指導で知られる田中コーチだった。
「美波香のことですか。私たちも心配しています。彼女は真面目な選手でしたから、突然いなくなるなんて…」
田中コーチは表面上は協力的だったが、どこか警戒している様子が見て取れた。真田は違和感を覚えながらも、さらに質問を続けた。
「最近、彼女に何か変わったことはありませんでしたか?」
「特には…ただ、最近はプレッシャーを感じているようでしたね。オリンピックを前に、みんな緊張していますから」
真田は頷きながらも、田中コーチの言葉に何か引っかかるものを感じていた。
その後、真田は美波香の自宅を訪れ、彼女の部屋を調べることにした。整理された部屋の中で、一通の手紙が目に留まった。差出人は「黒川」というスポーツジャーナリストだった。
手紙の内容は明らかに脅迫めいていた。「八百長に加担しなければ、ドーピング疑惑を公表する」という趣旨のものだった。真田は眉をひそめた。
由紀子に電話をかけ、黒川について尋ねると、彼女は驚いた様子で答えた。
「ああ、黒川さんですか?最近チームに取材で来ていました。選手たちにもよくインタビューを求めていましたね」
真田は黒川の素性を調べ始めた。表向きはスポーツジャーナリストとして活動しているようだが、その経歴には不自然な空白期間があった。
「これは単なる失踪事件ではないかもしれない」
真田はそう直感した。美波香の失踪、ドーピング疑惑、そして黒川という謎の人物。これらの背後には、もっと大きな何かが潜んでいるのではないか。
真田は由紀子に連絡を取った。「由紀子さん、もう少し詳しく話を聞かせてください。美波香さんの最近の様子、チームの雰囲気、何でも構いません」
由紀子の声には不安と決意が混ざっていた。「分かりました。私にできることは何でもします。美波香を見つけ出すために」
真田は深く息を吐いた。この調査が、彼らを予想もしない闇へと導くことになるとは、まだ誰も知る由もなかった。
闇の追跡
真田と由紀子は、黒川の動向を追跡することにした。数日間の尾行の末、彼らは黒川が頻繁に出入りする古びたスポーツバーを発見した。
「ここで何かあるはずだ」真田は由紀子に目配せした。二人は慎重にバーに潜入し、片隅のテーブルに座った。
しばらくすると、黒川が現れた。彼は奥の個室へと消えていった。真田は耳を澄ませ、かすかに聞こえてくる会話に集中した。
「次の試合も頼むぞ。賭けの締め切りは明後日だ」 「分かってる。選手たちはもう掌握済みさ」
真田の目が見開かれた。これは明らかに八百長の話だった。由紀子の顔が青ざめる。
「まさか…」彼女は震える声で呟いた。
真田は冷静さを取り戻し、由紀子を促してバーを後にした。外に出ると、由紀子が泣き崩れた。
「信じられない…私たちのチームが…」
真田は彼女の肩に手を置いた。「まだ全容は分からない。でも、これが美波香さんの失踪に関係しているのは間違いないだろう」
翌日、二人は美波香が最後に目撃された場所を再調査した。そこで、清掃員の男性が声をかけてきた。
「あの日、変なことがあったんですよ」男性は周囲を警戒しながら話し始めた。「若い女性が黒い車に無理やり押し込まれるのを見たんです」
真田は身を乗り出した。「それは何時頃でしたか?」
「夜の9時過ぎです。私が仕事を終えて帰ろうとしていた時でした」
この証言で、美波香が誘拐された可能性が高まった。真田は眉間にしわを寄せた。
「組織の規模が想像以上かもしれない。チーム内にも協力者がいる可能性を考えないといけないな」
由紀子は信じられない様子だったが、真田は慎重に調査を進めることを提案した。
その夜、真田は田中コーチの過去を調べ始めた。すると、彼が多額の借金を抱えていることが判明した。
「これは…」真田は息を呑んだ。田中コーチが組織の協力者である可能性が急浮上したのだ。
真田は由紀子に電話をかけた。「明日、もう一度練習場に行こう。田中コーチの様子を観察する必要がある」
翌朝、二人が練習場に到着すると、異様な緊張感が漂っていた。選手たちの表情は硬く、田中コーチの目は落ち着きなく泳いでいた。
真田は確信した。この中に、美波香の失踪に関わった者がいる。そして、その真相はさらに深い闇へと続いているのだ。
真実の代償
真田と由紀子は、黒川の携帯電話を秘密裏に追跡し、美波香が囚われている場所を特定した。それは都心から離れた廃工場だった。二人は警察に通報せず、自ら救出作戦を決行することにした。
「危険すぎる」と真田は反対したが、由紀子の決意は固かった。「美波香のためなら、何だってする」
夜陰に紛れ、二人は廃工場に忍び込んだ。内部は迷路のように入り組んでおり、至る所に錆びた機械が放置されていた。慎重に進むうち、かすかな物音が聞こえてきた。
奥の一室で、彼らは縛られた美波香を発見した。由紀子が駆け寄ろうとした瞬間、黒川が姿を現した。
「よく来たな」黒川は冷笑を浮かべた。「お前たちの好奇心が、この子の命取りになるとはな」
真田は冷静さを保ちつつ、黒川に話しかけた。「もう終わりだ。お前たちの組織の正体は分かっている」
黒川は動じなかった。「そうか?だが、お前たちにはまだ分かっていないことがある」
その時、予想外の人物が現れた。田中コーチだった。
「コーチ!なぜここに…」由紀子は絶句した。
田中コーチは苦悩に満ちた表情で説明を始めた。彼は長年の借金に追われ、組織に取り込まれていたのだ。しかし、美波香の危険を知り、最後の良心から真田たちに場所を教えていたのだった。
「私は…もう、これ以上耐えられない」田中コーチは涙を流した。
この隙に、真田は素早く動いて黒川を取り押さえた。由紀子は美波香の縄を解き、三人で脱出に成功した。
数日後、事件の全容が明らかになった。組織の主要メンバーが次々と逮捕され、美波香のドーピング検査の陽性反応が捏造されたものだったことも判明した。
しかし、この事件は日本チームに大きな影を落とした。由紀子は苦悩の末、チームのために真実を公表することを決意した。
記者会見で、由紀子は震える声で語った。「私たちは、勝利のために不正を行ったのではありません。脅迫に屈した結果です。しかし、それは言い訳にはなりません。これからは、正々堂々とした戦いで、皆様の信頼を取り戻したいと思います」
この決断により、チームは一時的な混乱に陥ったが、最終的には団結を取り戻した。美波香は復帰を果たし、チームは逆境を乗り越えて五輪での金メダルを目指すことを誓った。
真田は、スポーツ界の闇と人間の複雑さを目の当たりにしながらも、真実を追求する勇気の大切さを再確認した。彼は由紀子たちを見送りながら、静かに呟いた。
「真実には時に大きな代償が伴う。しかし、それを恐れては何も変わらない」
この経験は、真田の人生観を大きく変えることとなった。彼は、これからも正義のために闘い続けることを心に誓ったのだった。