パリの熱波
2024年7月、パリは記録的な猛暑に包まれていた。セーヌ川の水面が蒸気を上げ、エッフェル塔の鉄骨が灼熱に輝く中、オリンピック選手村は異様な緊張感に包まれていた。
私は警備室のモニターに目を凝らしながら、額の汗を拭った。45歳にして元警察官の経歴を買われ、このオリンピック選手村のセキュリティ責任者に抜擢されたのだ。しかし、この仕事が想像以上に骨の折れるものになるとは、その時はまだ知る由もなかった。
突如、モニターに異変が映った。卓球練習場から人影が慌ただしく動くのが見えた。直後、悲鳴が聞こえた。「誰か!助けて!」
私は即座に立ち上がり、現場に駆けつけた。ドアを開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
床に倒れているのは、日本代表の有望株として名高い卓球選手、佐藤美咲だった。22歳の若さで、既に世界ランキング上位に食い込む実力者である。彼女の周りには、動揺した表情の山田健太郎コーチと、奇妙なほど冷静な様子の中村翔太が立っていた。
「何があったんだ?」私が尋ねると、山田コーチが震える声で答えた。「練習中に突然倒れたんです。熱中症かもしれません」
確かに、室内の温度は異常に高かった。エアコンは作動しているはずなのに、まるで蒸し風呂のようだ。しかし、私の直感は別の可能性を示唆していた。
その時、ドアが開き、一人の女性が入ってきた。「私、医者です。何かお手伝いできることは?」
フランス語なまりの英語で彼女は言った。後で知ったことだが、彼女はエマ・デュボワ。選手村近くの研究所で働く新薬開発研究者だった。
エマが美咲の脈を確認する間、私は周囲を観察した。山田コーチの額には大粒の汗。対照的に、中村翔太の表情は硬く、どこか遠くを見つめているようだった。
そして、エマの声が静寂を破った。「残念ですが…もう手遅れです」
その瞬間、部屋の空気が凍りついた。オリンピック前夜、有望な若手選手の突然の死。これが単なる事故なのか、それとも何か別の要因があるのか。私の中で、捜査本能が呼び覚まされた。
選手村に衝撃が走る中、私は静かに誓った。必ず真相を明らかにすると。しかし、この事件が想像を超える大きな闇につながっているとは、その時はまだ知る由もなかったのだ。
疑惑の影
翌日、私は佐藤美咲の部屋を調査していた。彼女の突然の死は、選手村全体に暗い影を落としていた。部屋の中は整然としており、一見すると何の変哲もない。しかし、私の目は机の上に置かれたスマートフォンに釘付けになった。
画面には、美咲に対する心無い中傷の数々が並んでいた。SNS上での誹謗中傷は、彼女にとって日常茶飯事だったようだ。さらに、最近の外出記録を見ると、美咲が頻繁に選手村を出入りしていたことが分かった。オリンピック直前のこの時期に、一体何の用事があったのだろうか。
調査を進めるうち、山田健太郎コーチの証言が気になり始めた。「最近の美咲は、どこか様子がおかしかったんです」と彼は語った。「練習にも身が入らず、何か悩みを抱えているようでした」
一方、中村翔太との会話は、さらに不可解なものだった。「美咲とは最近、あまり話していません」と彼は言葉を濁した。「昔は親友同士だったのに…」その言葉の裏には、何か重大な秘密が隠されているように感じられた。
そんな中、エマ・デュボワが再び選手村に姿を現した。彼女は研究所での新薬開発について熱心に語り始めた。「この薬は、アスリートのパフォーマンスを劇的に向上させる可能性があるんです」と、エマは目を輝かせて説明した。「美咲さんも、この研究に強い興味を示していました」
この言葉に、私の中で警戒心が高まった。新薬開発とオリンピック選手。そこには、ドーピングの影がちらついて見えた。
夜、私は警備室に戻り、収集した情報を整理した。美咲の死因は当初、熱中症と考えられていた。しかし、状況証拠を並べてみると、そこには不自然な点が浮かび上がってきた。SNSでの中傷、頻繁な外出、チームメイトとの関係悪化、そして謎の新薬。これらは全て、何かより大きな問題を示唆しているようだった。
窓の外では、パリの夜景が煌めいていた。しかし、その美しい光景とは裏腹に、オリンピック選手村の中では、暗い陰謀が渦巻いているようだった。私は決意を新たにした。美咲の死の真相を明らかにし、この五輪に潜む闇を暴かなければならない。
翌朝、私はエマ・デュボワの研究所を訪れることにした。彼女の新薬が、この事件の鍵を握っているかもしれない。そして、その調査が私を、想像もしなかった衝撃的な事実へと導くことになるのだった。
真相への扉
エマ・デュボワの研究所は、選手村から程近い場所にあった。近代的な建物の中に一歩足を踏み入れると、清潔で無機質な空間が広がっていた。エマは私を見るなり、少し緊張した様子で迎え入れた。
「何かお力になれることがあれば」と彼女は言ったが、その声には僅かな震えが感じられた。
私は率直に切り出した。「佐藤美咲さんの死に、あなたの研究が関係しているのではないかと考えています」
エマの表情が一瞬凍りついた。しかし、すぐに取り繕うように笑顔を作る。「そんなはずありません。私の研究は純粋に医学的なものです」
だが、彼女の説明は歯切れが悪く、何かを隠しているような印象を受けた。研究室を案内されながら、私は鋭い眼差しで周囲を観察した。そこで目に留まったのは、慎重に保管されている血液サンプルの数々だった。
「これらは全て、ボランティアの方々からいただいたものです」とエマは説明したが、私の直感は別のことを告げていた。
研究所を後にした私は、さらなる疑念を抱えていた。帰り道、ふと目に入ったのは中村翔太の姿だった。彼は研究所の近くをうろついており、明らかに誰かを待っているようだった。
私は身を隠し、中村の行動を見守った。しばらくすると、彼は人気のない路地に入っていく。そこで待っていたのは、意外にも山田コーチだった。二人は何やら激しく言い争っているようだった。
翌日、私は中村を呼び出し、昨日目撃したことについて問い詰めた。彼は最初こそ否定していたが、やがて観念したように口を開いた。
「美咲が…ドーピングに手を染めていたんです」
その告白は、事件の様相を一変させた。中村は続けて語った。美咲がエマの新薬を使用していたこと、そしてその効果に驚くと同時に、副作用の恐ろしさに気づいたことを。
「僕は美咲を止めようとしたんです。でも…」中村の声が途切れた。
一方、山田コーチも美咲の変調に気づいていたという。「チームの士気を考えて黙っていました。あの子のことを…守れなかった」コーチの目には、悔恨の色が浮かんでいた。
真相に近づくにつれ、事態は急展開を見せる。エマ・デュボワが突如として姿を消したのだ。彼女の研究室からは、多くの選手の血液サンプルと極秘データが発見された。そこには美咲のものも含まれていた。
さらに、国際オリンピック委員会との接触により、大規模なドーピング調査が水面下で進行していたことが判明した。美咲の死は、このスキャンダルと深く結びついていたのだ。
最後の謎を解く鍵は、中村が密会していた人物にあると確信した私は、再び張り込みを行った。そして、その人物の正体が明らかになったとき、私は愕然とした。
それは国際オリンピック委員会の高官だったのだ。
全ての真相が明らかになった。美咲は新薬のテスト被験者だったが、その危険性に気づき告発しようとしていた。エマ・デュボワは実は潜入捜査官で、ドーピングの証拠を集めていたのだ。中村は美咲を説得しようとしたが失敗。結局、高官の指示により美咲は殺害されたのだった。
この衝撃的な事実が公になると、オリンピック界は激震に見舞われた。エマの調査により、大規模な汚職とドーピングネットワークが摘発された。
パリの空に、夕日が沈んでいく。この事件は、オリンピックの理念そのものを問い直す契機となった。スポーツの祭典は、新たな時代へと歩み出そうとしていた。しかし、その道のりが平坦ではないことは、誰の目にも明らかだった。