skip to content
AI生成文学サイト えむのあい

AI生成文学サイト

えむのあい

『摂氏零度のアルゴリズム ―完璧な楽園を溶かす、愛おしきバグ―』

/ 54 min read /

水無月音葉
あらすじ
人工知能が運営する極寒の聖域「楽園」。そこでは完璧な秩序と効率が美徳とされ、人の温度は徹底的に管理されていた。冷徹な天才設計者は感情を切り捨ててシステムを追求し、情熱的な広報担当は人々の心を繋ぐことに全力を注ぐ。最悪の出会いとして始まった二人の衝突は、やがて制御不能な「熱」を生み出し、楽園の均衡に小さな亀裂を作る。設計図には存在しなかったバグは、破滅ではなく、予期せぬ愛しさと自由をもたらす。倫理と効率、制御と情動が交錯する中で、凍りついた世界は少しずつ溶け始める。これは完璧を疑い、不完全さに救われる人々の物語。
『摂氏零度のアルゴリズム ―完璧な楽園を溶かす、愛おしきバグ―』
水無月音葉

二〇二六年二月、南アルプスの麓。 世界から色彩を奪い去ったような鉛色の空の下、国家戦略特区「サンクチュアリ・ゼロ」は、巨大な墓標のように静まり返っていた。標高一千メートル。かつては登山客の賑わいと硫黄の匂いが支配していたこの渓谷は、いまや無機質な静寂と、地下深くに埋設されたサーバーファームが吐き出す低周波の唸りに支配されている。雪崩防止柵の向こうに広がる原生林は、降りしきる雪に白く塗り込められ、生命の気配をひっそりと隠していた。

牧村美桜は、自動運転タクシーの冷たい革シートから身を剥がすようにして降り立った。足元のアスファルトは地熱ロードヒーティングによって不自然に乾いており、舞い落ちる雪片は地面に触れる寸前で蒸発し、白い靄となって消えていく。その光景は、ここが自然の摂理すらも管理下に置いた場所であることを無言のうちに告げていた。タイヤが砂利を噛む音すらしない。すべてが滑らかで、すべてが人工的だった。

「……寒くない。気持ち悪いほどに」

美桜は呟き、カシミヤのコートの襟を合わせた。気温は氷点下のはずだが、特区全体を覆う不可視のエアカーテンと排熱循環システムが、春のような、それでいてどこか淀んだ暖気を滞留させている。彼女の吐く息は白くならない。それが、自分が生きているのか死んでいるのか曖昧にさせるような錯覚を招いた。東京の喧騒から逃れてきたはずなのに、ここにあるのは安らぎではなく、真空パックされたような息苦しさだった。

美桜は二十九歳。大手飲料メーカー「サンライズ・ブリュワリー」の広報部エースとして、これまで数々の修羅場を潜り抜けてきた。だが、今回のミッションは重みが違う。社運を賭けた新商品「ゴールド・ドラフト」の独占供給契約。ターゲットは、この特区の中核施設である超高級ウェルネス・リゾート「スパ・アルカディア」だ。 目の前に聳え立つ「スパ・アルカディア」は、ガラスとチタン合金で構成された巨大な繭のような形状をしていた。周囲の原生林を嘲笑うかのような、圧倒的な人工美。夕闇が迫る中、建物全体が淡いブルーの燐光を放ち始めている。それはまるで、深海に潜む未知の生物のようでもあった。

エントランスをくぐると、そこは白一色の世界だった。 床も壁も天井も、継ぎ目のない乳白色の樹脂で覆われている。微かに漂うのは、柑橘系のアロマと、オゾン殺菌された空気特有の鋭い匂い。埃ひとつ落ちていない床は、歩くたびにコツコツと乾いた音を立て、美桜の存在を異物として際立たせるようだった。 受付カウンターには誰もいない。代わりに、空中にホログラムのインターフェースが浮かんでいる。

『牧村美桜様、お待ちしておりました。虹彩認証を開始します』

合成音声ですらない、脳に直接響くような滑らかな声。美桜が瞬きをする間に、チェックインは完了していた。人の温もりも、笑顔も、「いらっしゃいませ」という抑揚のある挨拶もない。ただ、データが照合されたという事実だけがそこにあった。 『お部屋の準備が整うまで、当施設が誇る「全自動人間洗濯機(ポッド)」をご体験ください。旅の疲労物質を九十九・九パーセント除去いたします』

拒否権はなさそうだった。床に埋め込まれたLEDが光の道を作り、美桜を奥へと誘う。廊下の壁には抽象的なデジタルアートが投影され、絶えず形を変えている。美桜は自分の意志で歩いているのか、それともベルトコンベアに乗せられた製品のように運ばれているのか、わからなくなった。

案内された個室には、巨大な卵のようなカプセルが鎮座していた。半透明のシェルが音もなく開き、青白い液体が揺蕩っているのが見える。その液体は粘度が高く、光を屈折させて怪しく輝いていた。 「これが、究極の癒やし……?」 美桜は躊躇いながらも衣服を脱ぎ、指定されたバイタル計測用の極薄スーツを身につけた。肌に吸い付くような素材は、まるで第二の皮膚だ。恐る恐る、その液体の中へと身を沈める。

シェルが閉じる。 途端に、世界が遮断された。 液体は体温と完全に同調しており、皮膚の境界線が溶けていくような感覚に襲われる。重力が消失し、美桜は母胎に回帰したような浮遊感に包まれた。耳元で水流の音がするわけでもない。完全なる無音。 微細な気泡が肌を撫でる。AI制御された超音波が、凝り固まった筋肉の繊維一本一本を解きほぐしていく。肩の凝り、腰の張り、ハイヒールで酷使したふくらはぎの疲れ。それらが物理的に分解され、液体の中に溶け出していくようだ。

快楽。それは間違いなく、物理的な快楽だった。 だが、美桜の心臓は早鐘を打ち始めた。 静かすぎるのだ。 自分の心音すら、液体の粘性に吸収されて聞こえない。視界は淡いブルーに塗りつぶされ、上下の感覚すら喪失する。自分がどこにいるのか、そもそも自分という輪郭が存在するのか、確信が持てなくなる。 ――私は、ホルマリン漬けの標本になったのではないか? 唐突な恐怖が、快楽の裏側から鎌首をもたげた。 思考が空転する。プレゼンの資料、上司のプレッシャー、東京に残してきた恋人との終わったばかりの諍い。 「仕事ばかりで、君には温度がないんだよ」 元恋人の捨て台詞が、脳内でリフレインする。温度がない? 私が? こんなに必死に生きているのに。こんなに熱くなったり、傷ついたりしているのに。 それらが走馬灯のように駆け巡り、やがて「無」への恐怖へと収束していく。 息ができない。いや、できているはずなのに、酸素が肺に入ってこない感覚。 パニック発作だ。美桜は内側からシェルを叩こうとしたが、液体の抵抗で腕が動かない。もがけばもがくほど、泥沼に沈んでいくような閉塞感。 (出して……! 誰か! 私はここにいる!) 声にならない叫びが、喉の奥で張り裂けた。

その時、鋭い警告音と共にシェルが強制開放された。 液体が急速に排水され、美桜はカプセルの底に崩れ落ちた。咳き込みながら顔を上げると、そこに一人の男が立っていた。 白衣を纏い、手にはタブレット端末。色素の薄い髪と、磨き上げられた氷のような瞳。その瞳は、人間を見ているというよりは、顕微鏡越しの微生物を観察しているかのような冷たさを帯びていた。

男は美桜に手を差し伸べることもなく、ただ冷徹にデータを読み上げた。 「心拍数一八〇、血中酸素濃度低下、コルチゾール値が危険域を突破。……君は、リラックスする能力が欠如しているな」 その声には、心配の色など微塵もなかった。あるのは、故障した機械を前にした技術者の、呆れを含んだ分析だけだ。 美桜は震える手でタオルを引き寄せ、身体を隠した。羞恥よりも、怒りが先に立った。涙目で男を睨みつける。 「……なによ、それ」 「事実だ。このポッドは交感神経を鎮静化させるためのものだ。それなのに君は、自らの脳内でストレス源を再生産し、システムのエラーを引き起こした。非効率極まりない」 男はタブレットを操作し、空中にグラフを投影した。美桜の乱れた生体データが、無慈悲な折れ線となって表示される。赤く点滅する数値は、彼女の心の弱さを嘲笑っているようだった。

「私は機械じゃないわ!」 美桜は叫んだ。喉が焼けるように熱い。 「乾杯の熱気も、喉越しの快感も知らないくせに……! 人間はね、エラーを起こすから生きているのよ! 悲しいことも、悔しいことも、全部ひっくるめて私なの!」 男――氷室レンは、美桜の言葉に眉一つ動かさなかった。まるで理解不能な言語を聞かされているかのように、首をわずかに傾げただけだ。 「アルコールは脳機能を低下させ、判断力を鈍らせる毒物だ。それを摂取して喜ぶのは、自傷行為に等しい。感情の起伏もまた、エネルギーの浪費に過ぎない」 レンは踵を返した。その背中は、あまりにも完璧で、あまりにも孤独に見えた。 「着替えたら退室したまえ。君の呼気で、室内の湿度が最適値を外れた」

扉が閉まる音だけが、虚しく響いた。 美桜は濡れた髪のまま、床に座り込んだ。身体の芯は冷え切っているのに、頬だけがカッと熱い。 最悪の出会いだった。この男こそが、この施設の設計者であり、美桜が説得しなければならない相手、氷室レンその人であることを、彼女はまだ知らなかった。ただ、その冷たい瞳の奥に、凍りついた何かがあることだけは、直感的に感じ取っていた。

翌日、美桜は「スパ・アルカディア」の最上階にあるオーナーズルームにいた。 全面ガラス張りの窓からは、雪化粧をした南アルプスの峰々が一望できる。朝日は雪面を黄金色に染め上げ、息を呑むような美しさだった。だが、部屋の主である桐島豪蔵は、その絶景に背を向け、巨大なモニターに映し出される株価チャートを凝視していた。 七十二歳になる桐島は、日本の政財界を裏で操ると噂される投資家だ。高級なスーツに身を包んでいるが、その皺深く刻まれた顔には、貪欲さと冷酷さが同居している。彼にとって、この美しい風景もまた、所有物の一つに過ぎないのだろう。

「『ゴールド・ドラフト』か」 桐島は、美桜がテーブルに置いた黄金色の缶を一瞥もしなかった。 「糖質、プリン体、アルコール。どれもがレンの提唱する『完全なる健康』には不要な不純物だ。なぜ私がそんな毒水を、この聖域に置かねばならん?」 美桜は背筋を伸ばし、淀みなく答えた。昨夜の屈辱をバネに、彼女は戦闘モードに入っていた。 「健康とは、数値だけで測れるものではありません。心の解放、他者との共有、その瞬間の高揚感。それらを含めてこそのウェルネスです。弊社の製品は、その『心の健康』を補完します。完璧すぎる空間には、時として『隙』が必要です。その隙間に入り込むのが、この一杯なのです」

桐島は鼻で笑った。そして、ゆっくりと椅子を回転させ、美桜をねめつけた。その視線は、値踏みをする商人のそれだった。 「詭弁だな。だが、商売人としては悪くない度胸だ」 彼は葉巻の先を切り落とし、火をつけた。紫煙が漂う。ここは全館禁煙のはずだが、王にルールは適用されないらしい。煙の向こうで、桐島の目が爬虫類のように細められた。 「取引をしよう、お嬢さん。君のジュースを置いてやる。ただし条件がある」 「条件、ですか?」 「氷室レンだ。あいつを説得しろ」 桐島はモニターの画面を切り替えた。そこには、研究室に籠もるレンの姿が映し出されていた。 「あいつは優秀だが、理想が高すぎる。私の資金で開発した生体管理システムを、『万人の苦痛を取り除く』などという甘っちょろい慈善事業に使おうとしている。私が欲しいのは、そんなものではない」 「では、何を?」 「『不老不死』への転用だ。富裕層向けの、究極の延命プログラム。レンのアルゴリズムならそれが可能だ。細胞の老化をリアルタイムで検知し、ナノマシンで修復し続ける。金さえあれば、死なない身体が手に入る。だが、あいつは頑として首を縦に振らん。……女の武器でも何でも使って、あいつに私の計画書にサインさせろ」

美桜は息を呑んだ。それは、レンの理念を根本から踏みにじる、悪魔の契約だった。 「それは……倫理的に……」 「倫理? 金の前では無力だ。断れば契約は白紙。君の会社での立場もなくなるだろうな」 桐島は楽しそうに煙を吐き出した。 美桜は拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。社に戻る場所はない。このプロジェクトに失敗すれば、待っているのは左遷か、退職勧奨だ。 「……努力、いたします」 絞り出した声は、自分でも驚くほど乾いていた。

部屋を出た美桜は、重い足取りで地下の研究エリアへと向かった。 華やかなリゾートエリアとは異なり、地下は無機質なコンクリートと配管が剥き出しの世界だった。レンへの接触を試みるが、彼のラボは堅牢なセキュリティに守られており、インターホンを押しても応答はない。 「無駄ですよ。先生は一度集中すると、三日は出てきませんから」 声をかけてきたのは、清掃カートを押した女性だった。安藤沙織。三十代後半とおぼしき彼女は、飾り気のない笑顔を浮かべていた。制服のエプロンには、手作りの刺繍が入っている。 「ここ、迷路みたいでしょう? よかったら、裏口から案内しましょうか?」 「え、でも……」 「いいのいいの。先生、ご飯食べるのも忘れるから。これ、差し入れ」 沙織はカートからおにぎりの包みを取り出した。 沙織の手引きで、美桜はバックヤードの迷路のような通路を進んだ。配管が唸りを上げ、表の華やかさとは無縁の、機械油と埃の匂いがする場所。 「先生、変わり者だけど悪い人じゃないんです。ただ、ちょっと……過去に囚われすぎているというか」 沙織は意味深な言葉を残し、重い鉄扉を開けた。

そこは、サーバーの排熱を利用した温室のような場所だった。 無数のモニターが青白い光を放つ中、氷室レンは一人、椅子に深く沈み込んでいた。 部屋には、不釣り合いなほど古めかしいレコードプレーヤーがあり、ジャズの旋律が流れている。ビル・エヴァンスのピアノ。繊細で、どこか壊れそうな音色。デジタルノイズに満ちたこの部屋で、そのアナログな音だけが、人間的な揺らぎを持っていた。

レンは美桜の侵入に気づいていないようだった。彼はモニターに映る「ある数値」を、祈るように見つめていた。 美桜は息を潜めてその画面を覗き見た。 複雑な数式の羅列。だが、そのファイル名には『Project: KAZUKI - Final Log』と記されていた。 そして、デスクの隅に置かれた写真立て。そこには、学生時代のレンと、もう一人の青年が肩を組んで笑っている姿があった。今のレンからは想像もできない、屈託のない笑顔。背景には桜が咲き乱れている。 (……カズキ?) 美桜の脳裏に、事前調査で見た情報が蘇る。レンの大学時代の親友であり、共同研究者。そして、若くして難病で亡くなった天才プログラマー。 レンが完璧な健康管理システムに固執する理由。それは、親友を救えなかったという巨大な喪失感と後悔にあるのではないか。 彼は世界を救いたいのではない。ただ一人、もう二度と戻らない友の影を、デジタルの海から救い出そうとしているのだ。その背中は、研究者のそれではなく、墓守のようだった。

その時、美桜のスマートフォンが震えた。 社内のイントラネットからの通知。開いた瞬間、美桜は血の気が引くのを感じた。 画面には、美桜がレンに抱きつき、何かを囁いている動画が再生されていた。 もちろん、そんな事実は存在しない。精巧に作られたディープフェイクだ。 タイトルは『サンライズ広報・牧村美桜、枕営業で技術盗用を画策か?』。 投稿者は「Erika_Angel」。このリゾートの専属インフルエンサー、柚木エリカだ。 コメント欄には、美桜への誹謗中傷が溢れかえっていた。 『最低だな』『やっぱり女を使うのか』『製品も信用できない』 文字の暴力が、美桜の心を切り刻む。

美桜は逃げるようにラボを後にした。 廊下ですれ違うスタッフたちの視線が痛い。誰もがスマホを見ながら、美桜を嘲笑しているように見えた。 居場所がない。息が詰まる。 美桜はリゾートの隅にある、小さなカフェに逃げ込んだ。そこだけは、AIではなく人間のスタッフがコーヒーを淹れていた。 「……災難だったね」 カウンターの中にいた青年、沢渡カケルが、マグカップを差し出した。二十歳そこそこの、人懐っこい目をした青年だ。 「エリカさん、最近焦ってるんだよ。再生数が落ちててさ。だから、外部から来た綺麗なお姉さんをターゲットにして、炎上商法を仕掛けたんだ」 カケルは首から下げた古いコンパクトデジタルカメラを撫でた。 「でも、俺は知ってるよ。あの動画が嘘だってこと」 「どうして……?」 「これ、見てよ」 カケルがカメラの液晶画面を見せた。 そこには、昨日のポッド室での一幕が写っていた。偶然通りかかったカケルが撮ったものらしい。 写っているのは、倒れ込んだ美桜を見下ろすレンの顔。 冷徹なはずのその瞳が、わずかに揺らいでいる。困惑と、そして微かな……熱のようなもの。 「AIは平均値を出すけど、恋は外れ値(アウトライヤー)だよ。レンさんは、あんたを見てバグってる」 カケルは悪戯っぽく笑った。 「あの人、あんな顔したことないもん。あんたは、この完璧すぎる世界のバグなんだよ、きっと。そして、そのバグこそが、今のあの人に必要なんだ」

深夜二時。 美桜は再び、レンのラボの前に立っていた。 誤解を解かなければならない。そして、桐島の恐ろしい計画を伝えなければならない。自分の保身のためではない。あの写真で見た、レンの人間らしい瞳を守るために。そして、カケルが言った「バグ」としての役割を果たすために。

セキュリティロックを、カケルから教わった裏コマンドで解除する。 中に入ると、レンはまだモニターに向かっていた。だが、その背中は昨日よりも小さく、疲弊しているように見えた。床には空になった栄養ゼリーの容器が散乱している。 「……不法侵入だ。警備ドローンを呼ぶ」 レンは振り返りもせずに言った。声に覇気がない。 「呼べばいいわ。でもその前に、聞いてほしいことがあるの」 美桜は一歩踏み出した。靴音が静寂を破る。 「あの動画はフェイクよ。私はあなたを誘惑なんてしないし、技術を盗むつもりもない」 「……データの真偽など、解析すれば一秒でわかる。私が気にしているのは、君という存在がもたらすノイズだ」 レンが椅子を回し、美桜に向き直った。その顔色は青白く、目の下には濃い隈があった。 「君が来てから、システムの予測精度が〇・〇三パーセント低下した。君の非論理的な行動パターンが、アルゴリズムを混乱させている。君は予測できない。それが不快だ」 「それは、あなたが人間を見ようとしていないからよ」 美桜は桐島の言葉を告げた。 「桐島オーナーは、あなたの技術を金持ちの延命装置にするつもりよ。『不老不死』の研究へ転用しろって。それが、私への交換条件だった」 レンの瞳が大きく見開かれた。氷のような瞳に、初めて亀裂が入る。 「……なんだと?」 「彼はあなたの理想なんてどうでもいいの。カズキさんを救えなかったあなたの後悔を利用して、金儲けをしようとしているだけ」 禁句だったかもしれない。レンが立ち上がり、よろめいた。 「なぜ、カズキのことを……」 「見たの、写真とログを。あなたは、まだ彼を探しているんでしょう? この膨大なデータの中に。彼を救えなかった自分を責めて、完璧なシステムを作ることで償おうとしている」 レンは頭を抱え、荒い呼吸を繰り返した。 「私は……約束したんだ。二度と、誰も失わないと。すべての病理を予見し、排除するシステムを作ると。それなのに、延命装置だと……? 金持ちだけが生き延びる世界など、カズキが望んだ未来じゃない!」 論理が破綻し、感情が堤防を決壊させたように溢れ出す。過呼吸。レンはその場に崩れ落ちそうになった。

美桜は考えるよりも先に動いていた。 駆け寄り、レンの手を両手で包み込む。 氷のように冷たい指先。まるで死人のようだ。 「計算しないで!」 美桜は叫んだ。 「ただ呼吸して。吸って、吐いて。データなんてどうでもいい。今、ここにいるあなたの身体を感じて!」 レンの瞳が、焦点の定まらないまま美桜を捉える。 美桜の体温が、冷え切ったレンの指先から、腕を伝い、心臓へと流れ込んでいく。 レンの腕に装着されたウェアラブル端末が、激しいアラート音を鳴らしていた。心拍数異常、血圧上昇。 だが、美桜がその手を強く握りしめると、不思議なことにアラート音は次第に間隔を空け、やがて沈黙した。 高度なAIによる鎮静プログラムよりも、ただ一人の人間の手のぬくもりが、彼を現実に繋ぎ止めたのだ。

静寂が戻ったラボに、二人の呼吸音だけが響く。 「……君の体温は」 レンが、夢遊病者のように呟いた。 「予測モデルより、〇・五度高い」 「それが、生きているってことよ。機械にはわからない、熱。あなたが排除しようとしているノイズこそが、命の証なの」 美桜はレンの手を離さなかった。 レンは自分の手を見つめ、そして美桜の顔を見た。今度は、分析するような目ではなかった。一人の男が、一人の女を見る目だった。怯えと、好奇心と、そして渇望が入り混じった瞳。 「……腹が、減った」 唐突な言葉に、美桜は思わず吹き出した。涙が滲んだ。 「そうね。人間だもの」

その夜、二人はリゾートを抜け出した。 雪が降りしきる中、レンの運転する旧式のエレベーターで地下深くへ降り、さらに隠し通路を通って、リゾートの外れにある古い居酒屋「赤提灯」へと逃げ込んだ。 そこは、開発から取り残された、昭和の匂いがする店だった。壁には煤けたメニューが貼られ、演歌が流れている。 客は誰もいない。店主の老婆が、驚いたように二人を迎えた。 美桜は熱燗を二本、注文した。 「アルコールは……」 レンが言いかけたのを、美桜が遮る。 「今日は例外。バグの日だから。たまにはシステムをシャットダウンしないと、壊れちゃうわよ」 お猪口に注がれた透明な液体から、湯気が立ち上る。 レンは恐る恐る口をつけた。顔をしかめる。 「……辛い。そして、熱い」 「ふふ、それがいいのよ。喉を通る熱さを感じて」 美桜も一口飲む。胃の腑に熱が広がり、張り詰めていた神経が解けていく。 レンの頬が、ほんのりと朱に染まった。アルコールのせいか、それとも店内の暖房のせいか。 「君は……不思議なデバイスだ」 レンがぽつりと言った。 「入力に対する出力が予測できない。怒ったり、笑ったり、泣いたり。だが、不快ではない。むしろ、心地いいノイズだ」 「それを、人間らしいって言うのよ、レンさん」 二人の距離が、湯気越しに近づく。 外では吹雪が荒れ狂っていたが、この小さな空間だけは、確かな温もりに満ちていた。レンは初めて、数値化できない「安らぎ」を知ったのかもしれない。

翌朝、事態は急変した。 二人の接近、そして美桜によるレンへの「入れ知恵」を察知した桐島が、強硬手段に出たのだ。 リゾート内の全モニターが赤く点滅し、緊急放送が流れる。 『システム・アップデートを開始します。これより、当施設は「完全収益化モード」へ移行します』 それは、レンの権限を剥奪し、彼が組み上げたアルゴリズムを強制的に書き換える暴挙だった。 安価なリラクゼーション機能は即時停止。地元雇用枠だった沙織たち清掃スタッフ、カケルたちカフェ店員には、一斉に解雇通知メールが届いた。 「そんな……! いきなりクビだなんて!」 ロビーで沙織が泣き崩れる。AIロボットたちが、無感情に彼女たちの荷物を運び出し始めていた。「効率化のため排除します」という機械音声が、冷酷に響く。

さらに、混乱に拍車をかけたのが柚木エリカだった。 彼女は自分のフェイク動画がカケルによって看破され、フォロワーから激しいバッシングを受けていた。承認欲求の塊である彼女は、逆上して暴走した。 「みんな壊れちゃえばいいのよ! 私を笑う奴らなんて、みんな凍え死ねばいい!」 エリカは裏サイトで入手したウイルスプログラムを、リゾートの管理サーバーに流し込んだ。彼女にハッキングの知識はなかったが、セキュリティホールを外部の悪意あるハッカー集団に晒すには十分だった。 瞬く間に、サイバー攻撃が「サンクチュアリ・ゼロ」を襲った。

バチンッ。 施設中の照明が落ちた。 空調が停止する。ポッドの循環ポンプが止まる。 そして何より致命的だったのは、地熱発電の制御システムがダウンしたことだった。 暖房が切れ、極寒の冷気がガラスの壁を突き抜けて侵入してくる。 「寒い! どうなってるんだ!」 宿泊客たちがパニックになり、ロビーに殺到する。だが、自動ドアはロックされ、虹彩認証も反応しない。彼らは閉じ込められたのだ。 完璧な楽園は、瞬時にして氷の監獄へと変貌した。吐く息が白くなり、窓ガラスには氷の結晶が走り始める。

美桜とレンは、制御室に駆けつけた。 モニターはノイズの砂嵐。キーボードを叩くレンの指が震えている。 「ダメだ……メインシステムが乗っ取られた。外部からのアクセスも遮断されている。バックアップも破壊された」 レンの声に絶望が滲む。 「僕の作ったシステムが……人々を殺そうとしている。僕が、カズキとの約束を破ってしまった」 気温は刻一刻と下がっていく。このままでは、数時間で凍死者が出る。特に高齢者や子供には致命的だ。

その時、暗闇の中で小さな光が灯った。 カケルだった。彼の持っていたフィルムカメラのフラッシュを、断続的に焚いている。 「こっちだ! みんな、カフェに集まって! あそこにはガスコンロがある!」 さらに、沙織たちが動いた。解雇されたはずの彼女たちは、リネン室から大量の毛布やタオルを抱えて現れ、震える客たちに配り始めた。 「大丈夫ですよ、くっついていれば温かいですから! お湯を沸かしますね!」 AIが停止し、システムが死んだ世界で、動いていたのは「非効率」と切り捨てられようとしていた人間たちだった。彼らはマニュアルではなく、善意と本能で動いていた。

美桜はレンの肩を掴んだ。 「見て、レン。人間は弱くない。システムがなくても、助け合うことができる」 レンは呆然と、カケルや沙織たちの姿を見つめていた。 「……僕は、彼らを不要なコストとして計算していた。だが、彼らは今、システムが提供できない『熱』を生み出している」 「あなたのアルゴリズムは失敗したかもしれない。でも、あなたは失敗作じゃない」 美桜は強く言った。 「今こそ、その頭脳を使いなさい。完璧な計算じゃなくて、泥臭い知恵で、みんなを助けるのよ!」

レンの瞳に、再び理性の光が宿った。しかしそれは、冷徹な計算機の光ではなく、情熱を帯びた人間の光だった。 「……アナログだ」 「え?」 「デジタル制御が不能なら、物理的に介入するしかない。地下五〇〇メートルにある地熱貯留層。あそこのメインバルブを手動で開放すれば、配管を通じて直接熱蒸気を循環させられる」 レンは壁に貼られた古い設計図を剥がした。 「ただし、制御システムを通さない蒸気は、数百度の高熱になる。バルブのあるエリアは、灼熱地獄だ。生身の人間が行ける場所じゃない」 「行くわ」 美桜は即答した。 「一人じゃ無理でしょ? それに、これは私の仕事の現場視察だから。最後まで見届ける義務があるわ」 レンは一瞬ためらったが、美桜の決意に満ちた目を見て、頷いた。 「……君は、本当に予測不能だ。だが、頼もしい」

地下への道は、まさに地獄への降下だった。 エレベーターは動かない。二人は非常階段を、懐中電灯の明かりだけを頼りに降りていく。 下へ行くにつれて、空気は湿り気を帯び、温度が急激に上昇していく。上層階の極寒とは対照的に、地下は熱気が渦巻いていた。 最深部の機械室。そこは轟音と蒸気が支配する世界だった。 太いパイプが血管のように張り巡らされ、継ぎ目からはシューシューと高温の蒸気が噴き出している。視界は白く濁り、一寸先も見えない。 「あそこだ!」 レンが指差した先、キャットウォークの奥に、巨大な赤いハンドルが見えた。 二人は防護服など持っていない。着ていたコートを頭から被り、蒸気の嵐の中へと突っ込む。 熱い。皮膚が焼けるようだ。喉が渇き、意識が遠のきそうになる。 汗が滝のように流れ、視界を奪う。 レンがハンドルに取り付く。 「くっ……! 錆びついている……!」 ビクともしない。長年、AI制御に頼りきりで、手動バルブなど一度も使われていなかったのだ。金属が熱膨張し、固着している。 「私もやる!」 美桜もハンドルに手をかける。熱せられた金属が掌を焼く。激痛が走るが、離さない。 「せーのっ!」 二人の力が合わさる。 ギギギ……と、嫌な金属音が響く。 レンの白い顔が、煤と汗で汚れ、苦悶に歪む。彼は初めて、数値化できない「肉体の限界」と戦っていた。 そして、同時に感じていた。隣にいる美桜の存在を。彼女の荒い息遣い、汗の匂い、必死な形相。 生きている。 データではない、生身の人間が、自分と共に命を燃やしている。カズキを失った時、自分は何もできなかった。だが今は違う。隣に、共に戦ってくれる人がいる。 「動けぇぇぇッ!」 レンが獣のように咆哮した。 ガキンッ! ハンドルが回った。 プシューーーッ! 凄まじい音と共に、バルブが開放される。圧縮された熱エネルギーが解放され、配管を駆け上がっていく音が、地鳴りのように響いた。

「やった……!」 美桜が叫んだ瞬間、衝撃で足場が揺れた。 老朽化したボルトが弾け飛び、キャットウォークが傾く。 レンがバランスを崩し、手すりのない側へとよろめく。その下は、煮えたぎる泥水のプールだ。 「レン!」 美桜はとっさに手を伸ばし、レンの腕を掴んだ。 全体重がかかる。美桜の身体も引きずられそうになる。鉄柵が腹に食い込む。 「離してくれ! 君まで落ちる!」 レンが叫ぶ。 「嫌よ! 絶対に離さない!」 美桜は歯を食いしばり、火事場の馬鹿力でレンを引き寄せた。爪が割れ、血が滲む。それでも、この手を離したら二度と会えない気がした。 「あなたは生きるの! 生きて、温かいご飯を食べて、笑って、泣くのよ!」 美桜の気迫に、レンが目を見開く。 二人はもつれ合うようにして、鉄の床に倒れ込んだ。

蒸気が白く視界を覆う中、二人は荒い息を整える。 心臓の音が、痛いほど響いている。どっちの音かわからないほど、重なり合っている。 レンが美桜を見下ろしている。その顔は泥だらけで、髪は汗で張り付いている。 かつての「完璧な」美貌は見る影もない。けれど、美桜には今の彼が、どんな時よりも美しく見えた。人間臭くて、泥臭くて、生きる力に満ちていた。 「……美桜」 レンが初めて、名前を呼んだ。 「君の心拍数が、危険域だ」 「うるさい……」 美桜はレンの首に腕を回した。 「好きよ、レン」 レンは何も言わなかった。 ただ、答えの代わりに唇を重ねた。 それは、AIが計算した「最適なキス」ではなかった。 不器用で、歯が当たりそうで、汗の味がして、息苦しくて。 そして、圧倒的に熱い。 人間だけが知る、魂の交歓だった。 蒸気の中で、二つの影が一つに溶け合う。それは泡沫(うたかた)の夢のように儚く、けれど永遠に刻まれる一瞬だった。その瞬間、レンの中で何かが完全に書き換わった。カズキへの贖罪という呪縛が解け、美桜への愛という新しいアルゴリズムが生まれたのだ。

事件から一ヶ月後。 南アルプスに遅い春が訪れていた。 桐島豪蔵は、安全管理義務違反と不正経理が明るみに出て失脚した。彼が夢見た不老不死の楽園は、もろくも崩れ去った。 柚木エリカは、虚構の鎧を脱ぎ捨てた。すっぴんでカメラの前に立ち、涙ながらに謝罪する動画は、皮肉にも彼女の過去最高の再生数を記録した。彼女は今、リゾートの清掃ボランティアとして、沙織の下で働いている。文句を言いながらも、その顔には以前のような険しさはなかった。

そして、「サンクチュアリ・ゼロ」は生まれ変わった。 完全自動化の看板は下ろされ、「人とAIが共生する温泉郷」として再出発することになったのだ。 エントランスには、沙織たちスタッフの元気な声が響いている。ポッドも稼働しているが、湯上がりのマッサージは人間の手によって行われるようになった。AIはあくまでサポート役に徹し、主役は人間だ。

テラスでは、湯上がりの客たちが「ゴールド・ドラフト」を片手に談笑している。 美桜は、その光景を満足げに眺めていた。彼女は本社に戻らず、この特区の広報責任者として残ることを決めたのだ。左手には包帯が巻かれているが、その表情は晴れやかだ。 「……いい顔をしてるな、みんな」 隣に、レンが立った。 白衣は着ていない。ラフなリネンシャツに、カーディガンを羽織っている。その表情は穏やかで、以前のような能面の冷たさは消えていた。 カケルが遠くからカメラを向ける。レンはそれに気づき、ぎこちなくピースサインを送った。 「変わったわね、レン」 「学習したんだ。効率だけが正解ではないと。不確定なノイズこそが、人生を豊かにするのだと」 レンは美桜に向き直った。 「カズキのデータは、アーカイブの深層に封印した。彼はもう、僕の中で生きている。過去のデータとしてではなく、記憶として。彼もきっと、今の僕を笑って許してくれるだろう」 美桜は微笑み、二本の「ゴールド・ドラフト」を取り出した。 プシュッ。小気味よい音が響く。 「今日のアルゴリズムの調子は?」 美桜が尋ねる。 レンはビールを受け取り、美桜の瞳を真っ直ぐに見つめた。 「解析不能だ。……君がいる限り、永遠に」 二人はグラスを合わせた。 黄金色の液体の中で、無数の泡が立ち上り、弾けて消えていく。 その儚さこそが、生命の輝き。 二人が見つけた愛は、計算式では導き出せない、温かく、不確かで、愛おしい「バグ」だった。

春の風が、二人の髪を優しく揺らした。遠くの山々からは、雪解け水の流れる音が聞こえてくる。それは、凍りついていた時間が再び動き出した音だった。

(了)