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AI生成文学サイト えむのあい

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えむのあい

神の演算(アルゴリズム)に、僕らは愛というノイズを。

/ 51 min read /

藍原シオン
あらすじ
呼吸さえ数値化される街――監視と最適化が全てを支配するメトロポリスで、人生はスコアに還元された。最底辺の少年は尊厳を奪われ、孤独な令嬢は自由を奪われた血筋の呪縛に苦しむ。二人の前に現れたのは、システムを揺るがす「ノイズ」を抱えた少女だった。彼女の存在は計測不能の歪みとなり、管理者たちの「神の演算」に亀裂を入れていく。完璧な統制に対して、彼らの武器は数式で割り切れない感情──怒り、哀しみ、そして愛だった。奪われた尊厳を取り戻すために結ばれた三人の奇妙な連帯は、やがて都市の姿を変える選択を迫られる。計算が導けない未来を賭けた、衝撃のサイバーパンク・ドラマ。
神の演算(アルゴリズム)に、僕らは愛というノイズを。
藍原シオン

特別経済管区「ネオ・ベイサイド」の空は、常に鉛色の雲に覆われている。いや、正確には雲ではない。巨大なデータセンター群「ザ・ハイブ」から吐き出される膨大な排熱と、海からの湿気が混ざり合った、粘りつくような蒸気だ。その蒸気は都市全体を巨大な圧力釜の中に閉じ込め、人々の肌にまとわりつき、肺の奥底まで侵食していく。

午後二時。太陽の位置など知る由もないこの時間、ボトム・セクターの路地裏は、腐った魚と焦げたシリコンの臭いで満たされていた。頭上を走る無数のパイプラインからは、絶え間なく冷却水が滴り落ち、地面の泥濘をさらに深く、黒く染め上げている。ここには昼も夜もない。あるのは、ネオンの明滅と、システムの稼働音だけだ。

カイは、ぬかるんだ地面に膝をつき、廃棄されたサーボモーターの山を漁っていた。指先は油と泥で黒く染まり、爪の間には微細な金属片が食い込んでいる。痛みはとうに麻痺していた。ただ、指先の感覚だけが頼りだった。視覚は信用できない。この街のホログラム広告は、ゴミ山さえも極彩色の楽園に見せかけるからだ。

「……あった」

呟きは、頭上のパイプラインを走る冷却水の轟音にかき消された。カイが震える手で拾い上げたのは、旧世代の光学センサーだ。レンズには蜘蛛の巣のような亀裂が入っているが、基盤のチップは生きているかもしれない。わずかな希望。それが、今日の糧になるかどうかの瀬戸際だった。

彼は右目の網膜ディスプレイを起動した。視界の端に、淡いブルーの文字列が浮かび上がる。それは彼という人間の全てを定義する、冷酷な烙印だ。

ID: Kai / Rank: 774-Junk / Score: 12.4

ゴミのような数字だ。この街では、スコアが全てだ。居住区のグレード、配給される食料の質、医療へのアクセス権、果ては交際相手のランクまで、すべてがこの数値で決定される。12.4というスコアは、人間としての最低限の尊厳すら保証されない、廃棄寸前の数値を意味していた。呼吸することさえ、システムへの借金のように感じられる数値だ。

「おい、カイ。またそんなガラクタ漁ってんのか」

背後から、錆びついた蝶番のような声がかかる。顔を上げると、顔の半分を安っぽいクロームメッキで覆った男が立っていた。廃品回収業者のボブだ。彼の義眼は安物で、ピントが合うたびにジジ、と不快な音を立てる。

「ガラクタじゃないよ、ボブ。これはオメガ重工の第五世代型だ。中のレアメタルだけでも、パン二つ分にはなる」

カイはセンサーを袖口で拭いながら答えた。ボブは鼻で笑い、足元の泥水を蹴り上げた。

「へっ、夢見がちなこった。お前の親父さんが捕まってから、お前の銘柄は大暴落だ。大人しく臓器でも売った方がマシなスコアになるぜ。腎臓一つでスコアが5ポイント上がる。どうだ? 俺が仲介してやってもいい」

「断る」

「強情なガキだ。いつか野垂れ死ぬぞ」

ボブは唾を吐き捨てて去っていった。その背中には「リサイクル・イズ・ライフ」というスローガンが剥げかけた塗料で書かれている。カイは唇を噛み締め、センサーをポケットにねじ込んだ。臓器を売れば、一時的にスコアは上がる。だが、それは魂を切り売りするのと同じだ。一度でも身体の一部をシステムに差し出せば、二度と自分自身には戻れない。

カイの住処は、廃棄された地下鉄の車両だった。かつて都市の大動脈だったトンネルは、今や忘れ去られた者たちの巣窟となっている。湿気で歪んだドアをこじ開けると、カビと消毒液の混ざった匂いが鼻をついた。薄暗い車内に、乾いた咳き込む音が響く。

「……カイ? おかえり」

毛布にくるまった少女、ミナが弱々しく微笑む。彼女の肌は透けるように白く、首筋には青白い血管が浮き出ていた。その瞳だけが、暗闇の中で異様なほど澄んでいる。

「ただいま、ミナ。今日はいいパーツが見つかったよ。これで少しは栄養剤が買える」

カイは彼女の枕元に座り、額に手を当てた。熱い。まるで内側から燃えているようだ。

ミナは「上場廃止者(デリスト)」だ。生まれた瞬間に遺伝子欠陥が見つかり、スコア算出の対象外とされた存在。戸籍もなければ、正規の医療を受ける権利もない。システムにとって、彼女は存在しないバグであり、消去されるべきエラーだ。彼女の心臓は、生まれつきポンプ機能が弱く、今は闇医者から買った粗悪なペースメーカーで無理やり動かしている状態だった。そのペースメーカーが刻むリズムは不規則で、時折、苦しげなノイズを漏らす。

「ごめんね、カイ。私のせいで、あなたが……」

「言うなよ。僕が好きでやってるんだ」

カイはミナの言葉を遮り、端末を取り出した。画面には、闇市場の相場が表示されている。

『iPS心筋シート(純正):必要スコア 5,000,000 または 相当のクレジット』

天文学的な数字だ。ジャンク拾いで稼げるのは、せいぜい一日数十クレジット。このままでは、ミナの心臓が止まるのを待つだけだ。カイは拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。無力感が、泥のように重くのしかかる。

「ねえ、カイ」

ミナが細い指でカイの手を握った。

「聞こえるの。機械たちの声が」

「機械の声?」

「うん。今日は特にうるさい。誰かが泣いてるみたいに、ずっと叫んでる」

ミナには時折、常人には聞こえない音が聞こえるらしい。それが幻聴なのか、あるいは彼女の特異な知覚なのか、カイにはわからなかった。だが、彼女が「うるさい」と言う日は、決まって街のシステムに何らかの異常が起きる。

その夜、カイは決断した。もう待てない。ミナの命の灯火は、風前の灯だ。正規のルートで稼ぐことなど不可能だ。ならば、システムそのものを欺くしかない。

彼は師匠であるゲンさんのガレージへ向かった。スラムの最深部、廃棄された工場の地下にあるその場所は、この街で唯一、AIの監視から逃れられる聖域だ。

重い鉄扉を開けると、ガソリンの匂いと、古びた紙の本の匂いが充満していた。壁一面には、旧世紀のアナログ回路図や、手書きのメモが貼られている。

「ゲンさん、頼みがある。回線を貸してくれ」

作業台でハンダごてを握っていたゲンは、保護メガネ越しにカイを睨んだ。白髪交じりの髭、油にまみれた作業着。その風貌は、時代の遺物そのものだ。

「また『電子屑拾い(ハッキング)』か。やめておけ。最近、市場監視部(マーケット・ポリス)の動きが妙だ。奴ら、新しい猟犬を飼い始めたらしいぞ」

「ミナの発作が頻繁になってるんだ。もう時間がない。今日、あの子は機械が泣いていると言った。システムが不安定になっている今がチャンスなんだ」

カイの必死な目を見て、ゲンは深いため息をついた。ハンダごてを置き、作業台の上のボトルから琥珀色の液体を煽る。

「……AIに魂まで値付けさせるなよ、カイ。お前はお前だ。数字じゃない。だが、その数字がないと生きられないのもまた事実か……」

ゲンは無言で端末のロックを解除した。キーボードは物理式で、叩くたびにカチャカチャと心地よい音がする。

「時間は三分だ。それ以上は追跡される」

「十分だ」

カイは端末の前に座り、深呼吸をした。指先が震えるのを意志の力で抑え込む。狙うは富裕層エリア「ハイ・ベイサイド」のセキュリティホール。以前から目をつけていた、オメガ重工の社員用サーバーの裏口だ。そこには、彼らが使いきれないほどの余剰資産が眠っている。

仮想空間にダイブする。

視界がデジタルの奔流に切り替わる。現実の泥臭さも、湿気も消え失せ、そこには純粋な論理と情報の海が広がっていた。極彩色のデータの波間を、カイのアバターである「名無しの魚」が泳いでいく。鱗の一枚一枚が暗号化コードで構成された、銀色の魚だ。

セキュリティの壁は厚い。幾重にも張り巡らされたファイアウォールが、侵入者を拒絶するように立ちはだかる。だが、カイには天性の勘があった。コードの隙間、アルゴリズムの呼吸のようなものを感じ取ることができるのだ。データの流れには必ず淀みがある。完璧に見えるシステムにも、必ず微細な亀裂が存在する。

――ここだ。

一瞬の揺らぎを見逃さず、侵入プログラムを流し込む。壁の一部が液状化し、小さな穴が開く。魚はその穴をすり抜ける。

成功した。口座データが目の前に展開される。無機質な数字の羅列が、カイには黄金の山に見えた。これを抜き取れば、ミナを救える。

その時、視界が真っ赤に染まった。

『警告:不正アクセス検知。追跡プログラム起動』

罠だ。ハニーポットだった。わざと隙を見せて、獲物を誘い込んだのだ。

逃げ道が塞がれる。背後から、巨大な鮫のような形状をした対人制圧プログラムが迫ってくる。その牙は、接続者の脳神経を焼き切るためのウイルスで構成されている。市場監視部の猟犬だ。

「くそっ……!」

強制ログアウトしようとするが、回線がロックされている。このままでは脳を焼かれる。現実世界での死、あるいは廃人化。恐怖が背筋を駆け上がる。

死を覚悟したその瞬間、奇妙なことが起きた。

目の前の赤い壁に、一輪の白い花が咲いたのだ。デジタル空間には存在し得ない、有機的な揺らぎを持った花。それは瞬く間に増殖し、赤い壁を食い破っていく。

そこから現れたのは、光り輝くドレスを纏った少女のアバターだった。顔立ちは精巧なビスクドールのようで、背中には光の粒子でできた翼がある。

『こっちよ、迷子の魚さん』

少女が手を振る。その声は、直接脳内に響く音楽のようだった。彼女の指先から放たれた光が、監視カメラの映像ループを改ざんし、カイの逃走ルートをこじ開けた。

訳がわからないまま、カイはその光の道へ飛び込んだ。背後で鮫が壁に激突し、砕け散る音が聞こえた。

現実世界に戻ったカイは、汗だくで椅子から転げ落ちた。心臓が早鐘を打っている。

「はぁ、はぁ……助かった……のか?」

ゲンのガレージの天井が見える。油の匂いが、生の実感を呼び覚ます。

「おい、カイ! 大丈夫か!」

ゲンが駆け寄ってくる。カイは震える手で端末を指差した。画面には、見知らぬアイコンが表示されていた。

『Game Clear. Next Stage?』

メッセージと共に、座標データが送られてくる。それは、ハイ・ベイサイドとボトム・セクターの境界にある、廃棄された展望台の位置だった。

「誰だ……?」

カイの問いに答える者はいない。ただ、画面の向こうで、誰かが微笑んでいるような気がした。

翌日の深夜。カイは指定された展望台にいた。

かつては観光名所だった場所も、今はガラスが割れ、潮風が吹き抜ける廃墟だ。錆びついた手すりは今にも崩れ落ちそうで、床には風化したパンフレットが散らばっている。眼下には、ネオ・ベイサイドの夜景が広がっていた。

上層部「ハイ・ベイサイド」は、宝石箱をひっくり返したような眩い光に包まれている。摩天楼の頂からはレーザー光線が空を刺し、ホログラムの鯨がビルの間を優雅に泳いでいる。そこは選ばれた者たちの楽園。スコア上位者だけが住むことを許された、約束の地だ。

対照的に、カイの足元に広がるボトム・セクターは、停電したかのように暗い。わずかな街灯と、スラムの焚き火が、蛍の光のように頼りなく明滅しているだけだ。光と闇の断絶。その境界線は、あまりにも残酷で、あまりにも鮮明だった。

「来たのね。意外と度胸あるじゃない」

暗闇から声がした。鈴を転がすような、しかしどこか冷ややかな響きを持つ声だ。

月明かりの下に現れたのは、この場所には不釣り合いなほど洗練された少女だった。シルクのような銀髪が夜風になびき、陶磁器のように滑らかな肌が月光を反射している。彼女が身に纏っているのは、最新素材のスマート・ドレスだ。周囲の気温や湿度に合わせて微調整を行い、常に最適な着心地を提供する高級品。

そして何より、彼女の網膜ディスプレイに表示されているランクが、その正体を物語っていた。

ID: Ellis / Rank: Prime-001 / Score: ∞

測定不能(インフィニティ)。この街を支配するオメガ重工の令嬢、エリスだ。街中のビルボードで微笑んでいる、あのアイドルその人だった。彼女の笑顔は「希望」の象徴として、あらゆる商品、あらゆるプロパガンダに使われている。

「……あんたが、俺を助けたのか?」

カイは警戒心を露わにして尋ねた。ポケットの中のスタンガンを握りしめる。相手が誰であろうと、信用するわけにはいかない。

「助けた? うーん、ちょっと違うかな。退屈しのぎにゲームに参加しただけ」

エリスは手すりに腰掛け、足をぶらぶらさせた。その下は数百メートルの虚空だというのに、彼女には恐怖という感情が欠落しているようだった。その仕草は無邪気だが、瞳の奥には底知れない冷たさと、乾いた虚無があった。

「君のハッキング、面白かったわ。泥臭くて、必死で。まるでドブネズミが踊ってるみたいだった。洗練されたアルゴリズムにはない、野蛮なリズムがあったわ」

「ふざけるな。俺たちは生きるためにやってるんだ。あんたみたいな雲の上の人間にはわからないだろうがな」

「生きるため、ね。それって楽しい?」

エリスの問いに、カイは言葉を詰まらせた。楽しいわけがない。毎日が地獄だ。泥水をすすり、ゴミを漁り、スコアに怯える日々。

「私はね、退屈で死にそうなの。何でも手に入るけど、何も欲しくない。私の人生は、生まれた時から完璧なシナリオ通り。スコアも、未来も、結婚相手さえも、すべてAIが決めた最適解。朝起きる時間も、摂取するカロリーも、見る夢さえも管理されているのよ」

彼女は夜景を見下ろした。その視線は、輝くハイ・ベイサイドではなく、暗いボトム・セクターに向けられていた。

「ねえ、取引しない? 私の退屈を壊してくれたら、あなたの欲しいスコアをあげる」

「……どういう意味だ」

「私が内部から機密情報を持ち出す。あなたがそれを外で売り捌く。スリル満点の共犯関係。どう? オメガ重工のセキュリティは鉄壁だけど、内側から鍵を開ける人間がいれば、話は別でしょ?」

狂っている。カイはそう思った。世界の頂点にいる人間が、自らの足元を掘り崩そうとしているのだ。だが、ミナの苦しむ顔が脳裏をよぎる。

「……iPS心筋シートが買えるだけのスコアが必要だ」

「安いものね。交渉成立」

エリスは悪戯っぽく微笑み、カイに手を差し出した。その手は、カイの汚れた手とは対照的に、あまりにも白く、柔らかかった。カイがその手を握ると、彼女の体温は驚くほど低かった。

それからの日々は、綱渡りの連続だった。

エリスはオメガ重工のメインサーバーから、次世代兵器の設計図や、政治家の汚職データ、さらには未公開の株価操作アルゴリズムを盗み出した。彼女にとって、それは退屈なピアノのレッスンをサボる程度の感覚だったのかもしれない。

カイはそれをゲンさんの回線を使って匿名化し、闇市場に流した。情報は瞬く間に拡散し、市場は混乱した。株価は乱高下し、絶対と思われていたAIの予測が外れ始めた。

二人は頻繁に会うようになった。場所は決まって、あの廃墟の展望台だ。最初はビジネスライクな関係だったが、次第に変化が訪れた。

ある夜、カイはスラムの屋台で買った合成肉の串焼きを持ってきた。

「なんだ、これ?」

エリスは怪訝そうに、焦げた肉の塊を見つめた。

「ネズミか何かの肉を培養したやつだ。味は保証しないが、腹は膨れる」

エリスは恐る恐る一口かじり、顔をしかめた。

「……変な味。油っぽくて、獣臭くて……でも、生きてる味がする」

そう言って、彼女は完食した。口の端についたタレを拭う仕草は、ビルボードの彼女からは想像もできないほど人間臭かった。

またある夜、エリスは小型のホログラム・プロジェクターを持ってきた。

「これ、聴いてみて」

流れてきたのは、上層階級しか知らないクラシック音楽だった。複雑な旋律が、廃墟の空気を震わせる。

「眠くなる音だ」

カイはぶっきらぼうに言ったが、その旋律の美しさに心を奪われていた。泥と油にまみれた生活の中で、これほど純粋で美しいものに触れたことはなかった。

「バッハよ。神に捧げる音楽。でも、今の神様はシリコンでできているから、こんな音楽は理解できないの」

エリスは寂しげに笑った。持てる者の孤独と、持たざる者の飢餓。正反対の二人は、互いの欠落を埋め合わせるように惹かれ合っていった。

しかし、その平穏は長くは続かなかった。市場の混乱を重く見た市場監視部が、ついに本腰を入れたのだ。

その指揮を執るのは、クロサキ。感情を持たないと言われる冷徹な捜査官だ。彼の脳の半分はAIと直結しており、膨大なデータを並列処理できる。彼の義眼は常に赤く明滅し、獲物の生体情報をスキャンし続けている。

「異常値(アノマリー)を検知。パターン照合……774-Junk、カイ。及び、内部協力者の存在を示唆」

クロサキは、無数のモニターに囲まれた部屋で呟いた。画面には、カイの行動履歴、購買データ、そしてエリスとの接触地点の推測座標が表示されている。

「ネズミが、ライオンの檻に入り込んだか。駆除が必要だ」

ある雨の夜、カイの端末に正体不明のメッセージが届いた。

『差出人:Mr. Gold』

『市場をひっくり返す準備はいいか?』

都市伝説の相場師、ミスター・ゴールドだ。彼は実在するのかさえ不明な、ネットの亡霊のような存在だった。

彼はカイに衝撃的な事実を告げた。

『中央AI「プロヴィデンス」には致命的なバグがある。それは「感情」という変数を計算できないことだ。特定の生体リズムを持つ人間が、予測アルゴリズムを狂わせる「特異点」になり得る。そして、その条件に合致するのが、君の近くにいる少女、ミナだ』

カイは戦慄した。ミナの鋭敏な聴覚。彼女は時折、「機械の声がうるさい」と耳を塞いでいた。あれはサーバーの駆動音ではなく、AIの演算プロセスそのものを感じ取っていたのか。彼女の心臓の不規則なリズムこそが、完璧な論理に対するノイズであり、革命の鍵だったのだ。

事態は急変する。

クロサキの部隊が、ボトム・セクターを包囲したのだ。重武装したドローンが空を埋め尽くし、サーチライトが雨粒を照らし出す。装甲車がバリケードを粉砕して突入してくる音は、地獄の蓋が開いた音に聞こえた。

「カイ! ミナを連れて逃げろ!」

ゲンさんが叫んだ。彼はガレージの奥から、埃を被った内燃機関のバイクを引きずり出していた。化石燃料を燃やして走る、旧時代の鉄馬だ。

「ゲンさん、あんたはどうするんだ!」

「俺はこいつらとダンスを踊る。古い人間が、新しい時代のためにできる最後の仕事だ。このガレージには、奴らの嫌がるジャミング装置が仕掛けてある。俺が起動すれば、ドローンは一時的に目潰しを食らうはずだ」

ゲンはニカっと笑うと、エンジンを轟かせた。爆音と共にバイクが飛び出す。

「かかってきな、鉄屑ども! 人間の意地を見せてやる!」

ゲンは囮となり、ドローンの群れを引きつけた。激しい銃撃音と爆発音が響き渡る。炎が夜空を焦がす。

「ゲンさん!!」

カイの絶叫は、炎の中に消えた。父代わりだった男の死。その事実は、カイの心に消えない傷と、体制への激しい憎悪を焼き付けた。涙を拭う暇はない。ミナの手を引き、地下水道へと走る。

地下水道へと逃げ込んだカイとミナの元へ、エリスが合流した。彼女もまた、ボロボロだった。美しいドレスは泥に汚れ、銀髪は雨に濡れて張り付いている。

「……父様に、売られたわ」

エリスは震える声で言った。

「政略結婚が決まり、私は他企業へ『譲渡』されることになったの。私のスコアと遺伝子データが、合併の条件だった。私にとって、家はもはや牢獄ですらなかった。ただの商品棚だった」

彼女の瞳から、光が消えかけていた。

だが、エリスの合流は最悪の結果を招いた。

「見つけたぞ」

地下水道の奥から、クロサキの声が響く。反響する足音が、死神のカウントダウンのように近づいてくる。

「その女には、発信機代わりのナノマシンが埋め込まれている。逃げ場はない」

クロサキが姿を現した。その背後には、赤い目を光らせた戦闘用アンドロイドたちが控えている。

「君が疫病神だったんだ!」

カイは思わず叫んだ。恐怖と焦燥が、言葉を選ばせなかった。

エリスの顔が蒼白になる。

「……そうね。私は、あなたたちを巻き込んだだけ。私は、どこまで行っても……」

エリスは涙を流しながら、懐からサバイバルナイフを取り出した。それは、以前カイが護身用に渡したものだった。

「エリス!?」

彼女は迷うことなく、自らの左腕にナイフを突き立てた。

「ああっ!!」

鮮血が飛び散る。エリスは悲鳴を噛み殺し、ナノマシンが埋め込まれている肉を、自らの手で抉り取った。骨が見えるほどの深手だ。

「これで……私はジャンクよ。あなたと同じ。もう、追跡できないはず」

血まみれの腕を押さえながら、エリスは気丈に笑ってみせた。その笑顔は、痛々しくも、今まで見たどの笑顔よりも美しかった。その壮絶な覚悟に、カイは言葉を失った。彼女はもう、鳥籠の中のカナリアではない。傷だらけの、一人の人間だった。

「……馬鹿野郎。痛かっただろう」

カイは自分のシャツを裂き、エリスの腕を縛った。

「行こう。三人で。もう誰も置いていかない」

カイはエリスの肩を抱き、ミナの手を引いた。もう後戻りはできない。彼らの前には、暗闇と、その先にある微かな光しかなかった。

ミスター・ゴールドの導きにより、彼らが目指したのは「ザ・ハイブ」の中枢タワーだった。都市の心臓部であり、全ての搾取と管理の源。

計画はこうだ。ミナを中央AI「プロヴィデンス」に直接接続(ダイブ)させ、彼女の特異な生体リズムでアルゴリズムを書き換える。それは、ミナの心臓に致死的な負担をかける賭けだった。ペースメーカーが耐えられる保証はない。

「やるよ、カイ」

ミナは静かに言った。地下道の湿った空気の中で、彼女の声は凛と響いた。

「私の命で、みんなが値札なしで笑える世界になるなら、安い買い物だよ。それに、私、聞いてみたいの。あの泣いている機械たちに、本当は何を言いたいのか」

その瞳には、かつての弱々しさはなかった。守られるだけの存在から、世界を変える鍵へと、彼女は覚醒していた。

決行の朝。スラムの若者たちが一斉蜂起した。

カイがばら撒いたオメガ重工の不正データが火種となり、抑圧されていた人々の怒りが爆発したのだ。

「スコアを燃やせ!」「俺たちは数字じゃない!」

火炎瓶が飛び交い、バリケードが築かれる。暴動が警備隊を引きつける隙に、カイたちはタワーの搬入路から侵入した。

無機質な白い回廊を駆け抜ける。壁も床も天井も、すべてが純白で統一された空間。汚れ一つないその場所は、スラムの住人にとっては息が詰まるような異界だった。

だが、最上階へのエレベーター前で、彼らは立ち止まった。

そこには、クロサキが待っていた。

彼の身体は、以前よりもさらに機械化が進んでいた。右腕は巨大なガトリングガンに換装され、全身から冷却ガスが漏れ出している。人間の部分は、もはや顔の一部と脳幹くらいしか残っていないのではないかと思わせる異形だ。

「感情に流された結果がこれだ。非効率極まりない。君たちの行動は、統計的に見て成功率0.0001%以下だ」

クロサキが銃口を向ける。その銃身が回転を始め、甲高い駆動音が響く。

「効率? 笑わせるな。あんたは自分の心まで効率化して切り捨てたのか! 人間は計算式じゃない!」

カイは叫びながら、ゲンさんの形見である電磁パルス手榴弾を投げた。

爆発。青白い閃光が走る。しかし、クロサキは対ショックシールドを展開し、それを無傷で防ぐ。

「無駄だ。私のシステムは、あらゆる攻撃パターンを学習済みだ」

ガトリングが火を吹く。轟音と共に、壁が蜂の巣になる。カイとエリスは柱の陰に飛び込む。コンクリート片が雨のように降り注ぐ。

エリスは痛む腕を庇いながら、ハッキングツールを操作し、タワーの防衛システムを乗っ取ろうとする。額には脂汗が滲んでいる。

「カイ、30秒稼いで! スプリンクラーを作動させて、彼の放熱を阻害する! あの装備、排熱が追いついてないわ!」

「了解! 30秒、地獄のダンスだ!」

カイは飛び出し、瓦礫を盾にしながらクロサキに肉薄する。銃弾が頬をかすめ、血が流れる。恐怖で足がすくみそうになるが、後ろにはミナとエリスがいる。

圧倒的な火力の差。カイの持つ旧式のリボルバーなど、豆鉄砲にもならない。

だが、その時、ミナが叫んだ。

「やめて! その人の……その人の心が泣いてる!」

ミナの声が響いた瞬間、クロサキの動きが止まった。

彼の脳内チップに、ノイズが走る。それは、かつて彼が「非効率」として削除したはずの記憶だった。デリートされたはずのデータが、ミナの声に共鳴して復元されていく。

――公園で笑う幼い娘。妻の手料理の匂い。夕焼けの温かさ。そして、病気の娘を救うために、自らの身体を売り払い、機械化する契約書にサインした日の絶望。

ミナの共鳴能力が、クロサキのシステム深層にある「人間性」の残滓を呼び覚ましたのだ。

「ガ……アアアアッ! なんだ、このデータは……エラー……エラー……!」

クロサキが頭を抱えて苦悶する。鉄の塊のような身体が、ガタガタと震える。

「今だ!」

エリスがエンターキーを叩く。スプリンクラーが一斉に作動する。冷水がクロサキの過熱した義体にかかり、激しい蒸気が上がる。

「機能不全……冷却システム……ダウン……」

カイはその隙を見逃さず、クロサキの懐に飛び込み、義体のメインケーブルを工具で切断した。火花が散り、巨体が崩れ落ちる。

「あんたの言うノイズが、人間そのものなんだよ」

カイは荒い息を吐きながら見下ろした。クロサキの赤い義眼から光が消え、代わりに人間らしい瞳が、どこか遠くを見つめていた。その瞳には、涙のような液体が滲んでいた。

最深部「神託の間」。

そこには、巨大な光の柱が鎮座していた。中央AI「プロヴィデンス」のコアだ。無数の光ファイバーが束ねられ、脈打つように明滅している。

ミナは接続端子の前に立った。

「行ってくるね」

彼女はカイとエリスに微笑みかけ、プラグを首筋のポートに差し込んだ。

瞬間、ミナの身体が弓なりに反る。

「ミナ!」

カイが駆け寄ろうとするが、見えない力場に弾き飛ばされる。

仮想空間の中で、ミナは「神」と対峙していた。それは、純粋な光の集合体であり、冷徹な理性の塊だった。

『個の犠牲は、全体の最適化のために必要不可欠である。君の行動は、社会の安定を損なう』

AIの論理が、絶対的な真理として響く。

『違う』

ミナは否定する。彼女のアバターは、小さな光の粒だったが、その輝きは強かった。

『痛みは計算できない。優しさは数値化できない。誰かを想う気持ちは、どんなアルゴリズムでも予測できない! あなたは計算しかできない。でも、私たちは生きているの!』

ミナは自らの記憶を、感情を、データの奔流に流し込んだ。

ゲンさんの温かい手。カイの不器用な優しさ。エリスの孤独な涙。スラムの汚れた空気の中に確かにあった、命の輝き。泥の匂い、雨の音、空腹の痛み、そして愛おしさ。

それらは「非合理的なデータ」としてAIを侵食していく。論理の城壁に、感情の蔦が絡まり、ひび割れを作っていく。

『エラー。論理矛盾(パラドックス)発生。再計算……再計算……不可能。愛とは……定義不能……』

AIが悲鳴を上げる。その声は、かつてミナが聞いた「泣いている機械」の声そのものだった。

現実世界では、タワー全体が激しく振動し始めた。街中のスクリーンに表示されていたスコアが、次々と乱れていく。

774-Junk -> ERROR

Prime-001 -> ERROR

全ての格差が、数値が、意味をなさなくなっていく。人々を見下ろしていた巨大なホログラムが霧散し、ただの空が戻ってくる。

「ザ・ハイブ」の冷却システムが停止し、施設は崩壊を始めた。天井が崩れ、瓦礫が降り注ぐ。

神託の間で、ミナが崩れ落ちる。カイは彼女を抱きとめた。

「ミナ! しっかりしろ!」

ミナの顔色は土気色で、呼吸は浅い。心拍モニターのアラームが鳴り響く。限界だ。ペースメーカーが焼き切れている。

「……カイ、私……やったよ……機械たち、もう泣いてない……」

「ああ、やったよ。すごいよ。だから、死ぬな! お願いだ!」

エリスが叫ぶ。「脱出ルート確保! 急いで! ここが崩れるまであと三分もないわ!」

だが、ミナを抱えて走るには、崩壊のスピードが速すぎる。出口への道が瓦礫で塞がれていく。

その時、瓦礫の下から、這いずり寄ってくる影があった。

クロサキだ。下半身を失い、オイルを流しながら、彼はカイたちの足元まで辿り着いた。

「……計算ミスだ」

クロサキは掠れた声で言った。

「未来への投資の方が……リターンが大きいと判断した。あの少女の示した『愛』という変数を……私も検証してみたくなった」

彼は震える手で、自身の胸部装甲を開いた。そこには、軍用規格の高性能生命維持バッテリーが輝いていた。彼の命そのものだ。

「これを使え。私の……残り時間だ。適合率は99%。これで彼女は助かる」

「あんた……」

「行け。私の娘も……君くらいの歳だった」

クロサキは自らの生命線を抜き取り、ミナの古いペースメーカーに強引に接続した。

ドクン。

ミナの胸が大きく波打った。顔に赤みが戻る。力強い鼓動が、静寂を取り戻した部屋に響く。

代わりに、クロサキの瞳から光が完全に消えた。彼は最期に、微かに口角を上げていたように見えた。それは、彼が人間として死んだ証だった。

三人は崩壊するタワーから脱出した。背後で巨大な塔が崩れ落ち、土煙が舞い上がる。

外に出ると、東の空が白み始めていた。雨は上がり、雲の切れ間から朝日が差し込んでいる。

ネオ・ベイサイドの街は、静寂に包まれていた。絶対的な評価経済システムは崩壊し、人々は呆然と、あるいは歓喜の声を上げて、自分の手首の端末を見つめていた。そこにはもう、彼らを縛る数字は表示されていない。ただ、時刻が表示されているだけだ。

数ヶ月後。

街はまだ混乱の中にあるが、新しい秩序が生まれつつあった。人々は自らの価値を自分で決める自由を手に入れたのだ。それは困難な道のりだが、誰かに決められた幸福よりはずっとマシだ。

オメガ重工は解体され、エリスは「元令嬢」としてではなく、一人の市民としてスラムの復興支援活動に参加していた。泥にまみれ、汗を拭うその顔は、かつての作り物の笑顔よりも、ずっと美しく輝いていた。左腕の傷跡は隠さずに、誇りのように晒している。

海沿いの廃墟。かつてエリスと出会った展望台の近くで、カイは車椅子に乗ったミナと共に海を見ていた。

ミナの心臓は、クロサキのパーツと、混乱に乗じて入手した最新のiPS技術によって、奇跡的に安定していた。彼女の頬は桜色に染まり、健康そのものだ。

潮風が心地よい。腐った臭いは消え、潮の香りがする。

カイの端末が鳴った。

『差出人:Mr. Gold』

『おめでとう。だが、金(ゴールド)の世界はまだ終わらない。人間がいる限り、欲望は尽きない。次のゲームを始めようか? 新しい支配者が必要だとは思わないか?』

カイはふっと笑った。

「お断りだ」

彼は端末の電源を切り、海に向かって放り投げた。端末は放物線を描き、波間に消えた。水しぶきが上がり、すぐに波に飲まれて見えなくなる。

カイはミナの手を握り、後ろから歩いてきたエリスの方を振り返った。彼女の手には、三人分のサンドイッチが握られている。

「僕らの値段は、僕らが決める。いつだって、最高値(ストップ高)だ」

エリスが笑い、ミナも微笑む。

「そうね。測定不能(インフィニティ)よ」

朝日が昇り、かつて街を覆っていた巨大な防潮堤の影が薄れていく。海面が黄金色に輝き、新しい一日を告げている。

新しい時代の風が、彼らの髪を揺らしていた。そこにはもう、誰にも値付けされることのない、確かな未来が広がっていた。彼らは歩き出す。瓦礫の道を、自分たちの足で。