二〇二六年、六月。湿った海風が、新海京の街を二つに引き裂いていた。 かつて重工業の煤煙に覆われていたこの地方政令指定都市は、いまや政府肝入りの「デジタル列島強靭化計画」の最前線基地として、奇妙な変態を遂げようとしている。海沿いの埋立地「ネビュラ・ゾーン」には、外資系巨大テック企業のデータセンター群が墓標のように林立し、その無機質な直方体たちは、二十四時間休むことなく低い唸りを上げていた。AIサーバーが吐き出す膨大な熱量は、海水を利用した循環システムによって冷却され、その排熱が海面から白い蒸気となって立ち昇る。まるで、街そのものが高熱にうなされているようだった。
一方、山側にへばりつくように広がる旧市街地「レトロ・ポート」は、その熱病とは無縁の冷たい停滞の中にあった。昭和の高度経済成長期に建てられた雑居ビルやアーケード街は、錆と蔦に侵食され、インフレと増税の波に洗われて色褪せている。観光客向けのレトロな看板だけが、虚飾の化粧のように鮮やかだった。
その旧市街地の片隅、かつては港湾労働者たちで賑わったであろう路地裏に、アメリカンパイ専門店「ハニー・ダイナー」はあった。 店主の朝比奈真紀は、カウンターの中で深いため息をついた。手元のタブレット端末には、輸入小麦とバターの卸値が表示されている。先月比で一五パーセントの上昇。円安の影響は、この小さな店の台所事情を容赦なく締め上げていた。 「また値上げ……。これじゃあ、パイ一個がランチ一食分になっちゃう」 真紀は三十ニ歳になったばかりだ。かつて航空会社の客室乗務員として世界を飛び回っていた頃の華やかさは、今の彼女にはない。髪は実用的に後ろで束ね、化粧も薄い。だが、小麦粉にまみれたその指先には、確かな生活の手触りがあった。彼女にとってこの店は、空虚な笑顔を振りまき続ける日々から逃れ、地に足をつけて生きるための「聖域」だった。祖母から受け継いだ秘伝のレシピ。それは、バターの香りと砂糖の甘さで、人々の心の隙間を埋める魔法だった。
午後三時。梅雨の走り雨が、アスファルトを黒く染め始めた頃、ドアベルがカランと鳴った。 入ってきたのは、この街の湿気とは無縁のような男だった。 仕立ての良いダークネイビーのスーツ。雨粒一つ弾くような撥水加工の生地。革靴は泥一つついていない。男は濡れた傘を丁寧に畳み、傘立てには入れず、自分の手元に置いた。 響カズヤ、三十五歳。その眼差しは、ショーケースに並ぶ色とりどりのパイを透過し、その奥にある原価率やカロリー計算をしているかのように冷徹だった。しかし、その瞳の奥底には、隠しきれない疲労の色が澱んでいた。 「いらっしゃいませ」 真紀の声に、カズヤは視線を上げることもなく答えた。 「一番、カロリーの高いものを」 奇妙な注文だった。味でも、見た目でもなく、熱量。 「……ええと、それなら『クラシック・アップルパイ・アラモード』になりますけど。バニラアイスとキャラメルソースがたっぷりかかってます」 「それでいい。コーヒーはブラックで」 カズヤは窓際の席に座り、スマートフォンを取り出した。画面には複雑なグラフと英文のニュースフィードが高速で流れている。彼は指先一つ動かさず、ただ情報を網膜に焼き付けているようだった。
真紀はオーブンから焼きたてのアップルパイを取り出した。シナモンと焦がしバターの香りが店内に広がる。熱々のパイの上に、冷たいバニラアイスを乗せる。その温度差が生み出す一瞬の芸術。キャラメルソースを回しかけ、ミントの葉を添える。 一皿千四百円。今のこの街では、贅沢すぎる午後の間食だ。 テーブルに置かれた皿を見て、カズヤの眉がわずかに動いた。湯気と冷気が混ざり合うその物体を、彼は異物を見るような目で見つめた。 フォークを入れ、パイ生地と煮詰めたリンゴ、そして溶け出したアイスを一度に口へ運ぶ。 その瞬間、カズヤの表情が微かに歪んだ。 甘い。 暴力的なまでの甘さだ。脳の血管が拡張し、血糖値が急上昇する感覚。それは彼が普段摂取しているサプリメントや完全栄養食とは対極にある、非効率で、無駄で、そして――懐かしい味だった。 記憶の蓋が、不意に開く。 狭いアパート。雨漏りの音。母の背中。安売りのリンゴを煮る甘い匂い。 『カズヤ、今日はご馳走だよ』 貧しくも温かかったあの日々。母はもういない。自分は成功した。効率的な人生を手に入れた。それなのに、なぜこの甘さは、胸を締め付けるのか。
カズヤはフォークを置いた。皿にはまだ半分以上が残っている。 「……甘すぎる。非効率だ」 彼は伝票を掴み、レジへ向かった。支払いはスマートウォッチをかざすだけ。 「あ、あの、お口に合いませんでしたか?」 真紀の問いかけに、カズヤは立ち止まり、振り返った。その目は再び冷徹な光を取り戻していた。 「味の問題ではない。この街には、このような感傷的な食べ物はもう必要ないということだ」 意味不明な言葉を残し、カズヤは店を出て行った。 残された真紀は、食べかけのパイを見つめた。溶けたアイスクリームが、皿の上で茶色い海を作っていた。 「なによ、あいつ……」 怒りよりも先に、奇妙な不安が胸をよぎった。あの男の背中には、この店を、いや、この街の空気を拒絶するような、決定的な断絶があったからだ。
不安が現実の形をとって現れたのは、それから三日後のことだった。 真紀の元に届いた一通の封書。差出人は「オリオン・キャピタル・ジャパン」。内容証明郵便で送られてきたその紙切れには、無機質な明朝体で「再開発に伴う立ち退き要請」と記されていた。 商店街一帯を取り壊し、最新鋭の「次世代冷却システム管理センター」および関連商業施設を建設する計画。提示された補償額は、相場よりは高いが、この店を別の場所で再建するには心許ない金額だった。何より、祖母との思い出が詰まったこの場所を金に換算されること自体が、真紀には耐え難かった。
翌週、公民館で開かれた住民説明会。集まったのは、商店街の店主たちや古くからの住民たちだ。皆、不安と怒りを顔に張り付かせている。 壇上に現れたのは、先日パイを食べ残した男、響カズヤだった。 彼はオリオン・キャピタルのシニア・ディレクターとして紹介された。スクリーンには、新海京の未来予想図が映し出される。緑豊かな公園、洗練されたガラス張りのビル群、そして空を飛ぶドローン。そこには、煤けた「レトロ・ポート」の面影は微塵もない。 「現在、この商店街の年間総売上は、我々のデータセンターがわずか一時間で生み出す利益にも満たない」 カズヤの声は、マイクを通しても冷たく響いた。彼は感情を排し、ただ事実としての数字を羅列していく。 「人口減少、建物の老朽化、防災上のリスク。現状維持は緩やかな死を意味します。立ち退きこそが、あなた方にとっても最も経済合理性の高い選択です。我々は相場の二割増しで土地を買い上げる用意がある」 会場がざわめく。 「ふざけるな! 俺たちの生活をなんだと思ってる!」 魚屋の親父が怒鳴った。 「金の問題じゃねえんだよ! ここは俺たちの街だ!」 カズヤは表情一つ変えない。「感情論では、街は守れません。必要なのは資本と、アップデートです」 その言葉に、真紀は我慢の限界を超えた。彼女は立ち上がり、カズヤを睨みつけた。 「アップデート? あなたは人間をOSか何かだと思ってるの?」 カズヤの視線が真紀を捉える。あの日、パイを出した女だ。 「私たちの生活は、あなたのエクセルには入力できないわ。ここにあるのは数字じゃない。人の営みなのよ」 真紀の声は震えていたが、その瞳には強い光が宿っていた。カズヤはその光に、一瞬だけ言葉を詰まらせた。論理の盾が、感情の槍に貫かれたような感覚。 「……個別の事情については、後日担当者が伺います」 カズヤは事務的にそう告げ、説明会を切り上げた。
その夜、新海京で最も高級なホテル「ザ・タワー」の最上階ラウンジ。 カズヤは、窓の外に広がる夜景を見下ろしていた。眼下には、彼が破壊しようとしている旧市街の灯りが、頼りなく瞬いている。 「どうしたの? カズヤ。顔色が悪いわよ」 対面のソファで、クリスタルグラスを傾ける女がいた。エレナ・V・クロサキ。オリオン・キャピタルの米国本社から派遣された監査役であり、カズヤの元恋人でもある。プラチナブロンドの髪、完璧なプロポーション、そしてAIのように正確な判断力を持つ才女だ。 「……住民たちの抵抗が予想以上に根強い」 カズヤはウィスキーを煽った。 「感情的なノイズね。AIなら〇・一秒で処理して、最適解を出すわ」 エレナは笑った。「彼らは変化を恐れているだけ。恐怖を取り除くには、アメとムチを使い分ければいい。あなた、昔はもっとドライだったじゃない」 「ああ、わかっている」 カズヤは同意したが、胸の奥のざわめきは消えなかった。真紀の怒りに満ちた瞳。そして、あの甘ったるいアップルパイの味。それらが、彼の完璧な論理回路に、微細なバグを生じさせていた。 「明日は、私が直接交渉に行くわ」とカズヤは言った。 「あら、珍しい。現場主義に戻ったの?」 「いや。自分の目で確認したいだけだ。あの非効率な空間の、何が彼らをそこまで駆り立てるのかを」
カズヤは再び「ハニー・ダイナー」を訪れた。今度は客としてではなく、交渉人として。 店には、昼下がりの常連たちがいた。鳶職の作業着を着た若い男、鬼塚大樹。彼は大盛りのミートパイを豪快に頬張っている。カウンターの隅には、身なりの貧しい老人がコーヒー一杯で粘っている。 真紀はカズヤを見るなり、警戒心を露わにした。 「帰って。営業妨害よ」 「客として来たわけではない。あなたに提案がある」 カズヤは鞄から書類を取り出した。「補償金の上乗せだ。さらに、新しく建設される商業施設のテナント優先入居権もつける。これ以上の条件はない」 真紀は書類を見ようともしなかった。 「何度言えばわかるの? お金の問題じゃないって」 「では何だ? 執着か? 変化への恐怖か?」 「居場所よ」 真紀は店内を見渡した。「この店はね、ただパイを売ってるだけじゃないの。大樹くんみたいな若い子が、仕事の合間に息を抜く場所。あのおじいちゃんみたいに、家で一人でいるのが寂しい人が、誰かの声を聞きに来る場所。そういう『隙間』が、この街には必要なの」 カズヤは眉をひそめた。「それは行政の福祉課の仕事だ。民間企業が背負うコストではない」 「コスト……。あなたには、人間がコストにしか見えないのね」 その時、店の奥から焦げ臭い匂いが漂ってきた。 「きゃっ! 何!?」 裏口の方から煙が上がっている。真紀とカズヤが駆けつけると、ゴミ集積所で段ボールが燃えていた。そのそばに、フードを目深に被った少年が立ち尽くしている。手にはライター。震えている。 「おい、何をしている!」 カズヤが大声を出した。少年は弾かれたように逃げ出そうとしたが、入り口にいた大樹に取り押さえられた。 ボヤはすぐに消し止められた。少年はレンといった。十九歳。痩せこけた頬に、虚ろな目。 「……頼まれたんだ。ネットで。店に火をつけろって」 闇バイトだ。再開発反対派への嫌がらせを請け負う「仕事」。だが、レンは実行直前に躊躇し、結果としてボヤで済んだようだった。 「警察を呼ぼう」とカズヤはスマートフォンを取り出した。 「待って」 真紀が止めた。彼女はレンの前にしゃがみ込み、その汚れた手を握った。 「お腹、空いてるんでしょ?」 レンのお腹が、小さく鳴った。 真紀は厨房に戻り、少し焦げたミートパイを温めて持ってきた。「食べなさい」 レンは戸惑いながらも、パイにかぶりついた。涙と鼻水を垂らしながら、貪るように食べる。 カズヤはその光景を信じられない思いで見ていた。 「なぜだ? 彼は放火未遂犯だぞ。損害賠償を請求し、法的に裁くのが正解だ」 「この子が刑務所に入って、出てきたらどうなると思う? また同じことを繰り返すわ。でも、今ここでお腹いっぱいになれば、明日は違うことを考えるかもしれない」 真紀はレンの背中をさすりながら、カズヤを見た。 「損得でしか動けないなんて、かわいそうな人」 その言葉は、カズヤの心の氷壁に、ピキリと亀裂を入れた。 彼は知っていた。効率を追求するあまり、切り捨ててきたものたちを。そして、自分自身もまた、巨大なシステムの一部として摩耗していることを。 カズヤは何も言わず、財布から一万円札を数枚取り出し、カウンターに置いた。 「……今日のパイ代と、迷惑料だ」 「いらないわよ」 「受け取れ。これは僕の『居場所代』だ」 カズヤは逃げるように店を出た。雨上がりの空には、虹がかかっていたが、彼にはそれがひどく歪んで見えた。
再開発計画の背後には、どす黒い欲望が渦巻いていた。 地元選出の代議士、剛田宗一郎。六十八歳。新海京の政界を牛耳るフィクサーであり、今回の「デジタル列島強靭化計画」の旗振り役だ。 料亭の個室。剛田は脂ぎった顔で、カズヤに酒を勧めた。 「響くん、君は優秀だが、少し時間がかかりすぎているな。立ち退き交渉なんてものは、もっとシンプルにやるもんだよ」 剛田の声は粘り気があり、耳障りだった。 「住民との対話を重視しております。強引な手法は、後の訴訟リスクを高めます」 カズヤは冷静に反論したが、剛田は鼻で笑った。 「リスク? ハッ、そんなものは私が握りつぶす。君は知らないだろうが、金で動かない人間は、恐怖で動かすんだよ」 剛田の目は笑っていなかった。爬虫類のような冷たさ。 「……まさか、あのボヤ騒ぎも?」 「さあな。世の中には、偶然という名の必然があるもんだ」 カズヤは拳を握りしめた。剛田は、自分の利権のために、レンのような若者を使い捨ての駒にし、真紀のような市民を脅かしている。それは、カズヤが信じてきた「経済合理性」とはかけ離れた、ただの暴力だった。 「私のやり方は、もっとスマートです」 「スマート? 綺麗事だよ。来月までに更地にしろ。さもなくば、君のポストはないと思え」
その日から、商店街への嫌がらせはエスカレートした。 保健所の執拗な立ち入り検査。深夜の無言電話。店の前のゴミの散乱。真紀は疲弊していった。目の下に隈を作り、笑顔が消えていく。 そんな真紀を支えたのは、意外にもカズヤだった。 彼は剛田のやり方を「非合理的で美しくない」と嫌悪し、個人的に警備会社を手配して店の周りをパトロールさせた。さらに、保健所の検査に対しては、弁護士を立てて法的に対抗した。 「勘違いするな。交渉相手が潰れては困るだけだ」 店に来たカズヤは、そう言ってコーヒーを飲んだ。 「……ありがとう。でも、どうして?」 真紀は尋ねた。 「僕は、美しいシステムを作りたいんだ。不正や暴力で歪められた開発は、いずれ破綻する。それは僕の美学に反する」 カズヤの言葉には、彼なりの正義があった。 ある雨の夜、落雷による停電で、店の中が真っ暗になった。 客は帰った後で、真紀とカズヤの二人きりだった。非常灯の薄明かりの中、雨音が響く。 「……怖い?」とカズヤが聞いた。 「少しね。でも、あなたがいてくれてよかった」 真紀の言葉に、カズヤは息を飲んだ。誰かに必要とされる感覚。それは、数字の達成感とは違う、温かい充足感だった。 「僕は……ただ正解を選び続けてきただけなのに、なぜこんなに息苦しいんだ」 カズヤは独り言のように呟いた。 「正解なんてないのよ。あるのは、自分が納得できるかどうかだけ」 真紀は暗闇の中で、カズヤの手を探り当て、握った。彼女の手は温かく、粉っぽかった。 カズヤはその手を振り払わなかった。冷え切った彼の指先に、血が通い始めるのを感じた。
カズヤの変化に、最も敏感だったのはエレナだった。 彼女はAIを駆使し、カズヤの行動ログ、心拍数、支出データを分析していた。「ハニー・ダイナー」への滞在時間の増加。警備会社への個人支出。そして、剛田への反抗的な態度。 「バグね。深刻な」 エレナは冷徹に判断を下した。彼女にとってカズヤは、優秀なパートナーであり、所有物だった。それが壊れかけている。修理するか、廃棄するか。 エレナは真紀の過去を徹底的に洗った。CA時代の奨学金の返済残高、実家の借金、そして過去の恋愛トラブル。それらをデータ化し、カズヤに突きつけた。 「彼女はあなたを利用しているだけよ。これがデータ。これが真実」 ホテルの部屋で、エレナはタブレットを投げた。 「彼女は金に困っている。あなたという『太客』を捕まえて、補償金を吊り上げようとしているのよ。目を覚ましなさい」 カズヤはデータを見た。確かに、真紀には金が必要だ。だが、あの手の温もりは嘘だったのか? あのパイの味は? 「……データが全てじゃない」 「いいえ、全てよ。人間はデータの集合体。感情なんて、ホルモンの分泌異常に過ぎないわ」 エレナは冷たく言い放ち、次の一手を打った。彼女は剛田と直接手を組み、カズヤをプロジェクトの責任者から解任する手続きを進めたのだ。
一方、建設現場で働く大樹は、現場監督たちが話す不穏な会話を耳にしていた。 「冷却パイプの耐震基準、あれでいいんすか?」 「いいんだよ。剛田先生の顔を立てろ。検査官には話がついている」 大樹は耳を疑った。この地域は地震が多い。耐震基準をごまかせば、大惨事になる。 彼は夜中に事務所に忍び込み、その証拠となるデータをUSBメモリにコピーした。だが、警備員に見つかってしまう。 「待て! 泥棒だ!」 大樹は必死で逃げた。追ってくるのは警備員だけではない。トクリュウ配下の半グレたち、剛田の私兵だ。 血まみれになりながら、大樹が逃げ込んだ先は、やはり「ハニー・ダイナー」だった。 「真紀さん! 助けて!」 店には、更生のために働き始めていたレンもいた。 「大樹さん!?」 真紀は大樹を匿い、シャッターを下ろした。だが、すぐに店の外には黒塗りの車が集まり、男たちが包囲した。 「出てこい! そのデータを渡せ!」 怒号と、シャッターを叩く音。 真紀は震える手で、カズヤに電話をかけた。 「助けて……カズヤさん」
カズヤのスマートフォンが鳴った時、彼はエレナと共に本社とのオンライン会議に出席していた。 画面の向こうには、ニューヨークの役員たちが並んでいる。議題はカズヤの更迭と、エレナへの権限委譲。 「カズヤ、君には失望したよ。感情に流され、プロジェクトを遅延させた」 CEOが告げる。 「だが、まだチャンスはある。今すぐその店を強制執行で潰し、計画を進めろ。そうすれば、君のキャリアは守られる。ニューヨーク本社への栄転も約束しよう」 エレナが横で囁く。「これがラストチャンスよ。真紀を切り捨てなさい。それが論理的な正解」 カズヤはスマートフォンの画面を見た。真紀からの着信履歴。 論理的に考えれば、真紀を見捨てるのが正解だ。彼女一人を犠牲にすれば、街は発展し、自分は富と名声を得る。大樹が盗んだデータなど、握りつぶせばいい。 だが、カズヤの脳裏に浮かんだのは、母の笑顔と、真紀の温かい手、そしてあの甘すぎるアップルパイの味だった。 彼は立ち上がった。 「……お断りします」 「何だと?」 「僕は、バグだらけの人間であることを選びます」 カズヤは会議室を出た。エレナが叫ぶ。「カズヤ! 戻りなさい! 全てを失うわよ!」 「失う? いや、取り戻すんだ」
カズヤは愛車のスポーツカーを飛ばした。助手席には、彼が独自に集めていたファンドの不正会計の証拠と、自身の全資産が入ったハードディスクがある。 ハニー・ダイナーの前は、戦場のような騒ぎになっていた。半グレたちがバールでシャッターをこじ開けようとしている。 カズヤは車を急停車させ、クラクションを鳴らし続けた。 「そこまでだ!」 彼は車から降り、男たちの前に立ちはだかった。 「響さん……」シャッターの隙間から真紀の声がする。 剛田の手下が凄む。「響先生、邪魔しないでくださいよ。これは先生のためでもあるんです」 「黙れ。この店には、一株当たり利益では測れない価値がある」 カズヤは金融用語で啖呵を切った。そして、大樹から受け取ったUSBメモリと、自分の持っていたデータを掲げた。 「ここには、剛田代議士の汚職と、オリオン・キャピタルの不正会計、そして手抜き工事の証拠が入っている。今、このボタンを押せば、全世界のメディアと投資家にリークされる」 カズヤの指が、スマートフォンの送信ボタンにかかっている。 「やめろ! 貴様、自分の立場がわかっているのか!」 剛田が車から降りてきて叫んだ。「それをやれば、お前も終わりだぞ! 背任行為で逮捕される!」 「構わない。僕のキャリアなんて、このアップルパイ一個の価値にも劣る」 カズヤは真紀の方を見た。シャッターが少し上がり、彼女の顔が見えた。涙で濡れている。 「真紀さん、君が教えてくれたんだ。損得じゃない、大切なものがあるって」 カズヤは微笑んだ。それは、彼が初めて見せた、心からの笑顔だった。 そして、彼はボタンを押した。 送信完了。 それは、彼のエリートとしての人生の終わりであり、人間としての人生の始まりだった。
カズヤのリークは、瞬く間に世界を駆け巡った。 オリオン・キャピタルの株価は大暴落し、ニューヨーク市場はパニックに陥った。剛田の汚職も白日の下に晒され、東京地検特捜部が動いた。政権を揺るがす大スキャンダルとなり、再開発計画は即時白紙凍結された。 カズヤは背任行為と機密漏洩で訴えられ、全てを失った。名声も、資産も、エリートとしての未来も。 逮捕される直前、エレナがカズヤの元を訪れた。 留置所の面会室。アクリル板越しの彼女は、相変わらず美しかったが、どこか寂しげだった。 「あなたはバグだらけの不良品になったわね。史上最悪のファンドマネージャーよ」 「ああ。でも、気分は悪くない」 カズヤは憑き物が落ちたような顔をしていた。 「……理解できないわ。でも、以前より人間らしい顔をしてる」 エレナは立ち上がった。「私はシリコンバレーに戻るわ。あなたの尻拭いで忙しくなるから。……さようなら、カズヤ」 彼女は振り返らずに去っていった。その背中は、少しだけ小さく見えた。
裁判は長く続いたが、情状酌量と世論の後押しもあり、カズヤには執行猶予付きの判決が下された。 彼は自由の身になったが、金融業界には二度と戻れない。 刑務所の門を出た時、そこには一台の古い軽トラックが待っていた。 運転席には真紀。荷台には大樹とレンが乗っている。 「お迎えにあがりました、新人さん」 真紀が笑った。 「……条件は厳しいぞ。時給は最低賃金だ」 カズヤは苦笑いしながら、助手席に乗り込んだ。 「福利厚生は、まかないのアップルパイ食べ放題よ」 「それは……悪くない条件だ」
一年後。 新海京の再開発エリアは、計画の大幅な見直しにより、巨大な公園と商業施設が融合した「共生エリア」へと姿を変えつつあった。データセンターの排熱を利用した温室植物園や、足湯施設が作られ、市民の憩いの場となっている。 ハニー・ダイナーは、以前の場所にそのまま残っていた。リノベーションされ、少しだけ綺麗になったが、あの懐かしい雰囲気は変わらない。 店のカウンターには、エプロン姿の不器用な男がいる。カズヤだ。 彼は小麦粉まみれになりながら、パイ生地を練っている。かつて数千億円を動かしていた指先は、今は数百円のパイを作るために動いている。 「いらっしゃいませ。当店のアップルパイは、カロリー計算を無視した最高の幸福を提供します」 かつての冷徹な表情は消え、穏やかな笑顔で接客するカズヤ。 客席には、作業着姿の大樹がいる。彼は自身の建設会社を立ち上げ、レンを更生させるために雇い入れていた。二人は喧嘩しながらも、兄弟のように仲良くパイを食べている。 「カズヤさん、今日のパイ、ちょっと焼きすぎじゃないっすか?」 大樹がからかう。 「うるさいな。これは『キャラメリゼ』だ。高度な技術なんだよ」 カズヤがムキになって言い返す。店内には笑い声が溢れていた。
夕暮れ時、店仕舞いをした真紀とカズヤは、二つの世界を分断していた国道沿いを歩いていた。 海側には、依然としてデータセンターの無機質な光が輝いている。しかし、それはもう脅威ではなく、街の風景の一部として溶け込んでいた。山側の街には、人々の生活の灯りが温かく揺れている。 「後悔してる?」 真紀が聞いた。 「何を?」 「全部よ。エリートの地位も、お金も、全部捨てちゃって」 カズヤは立ち止まり、海の方を見た。そして、真紀の方に向き直った。 「いいや。僕の人生で、最もリターン(収益)の高い投資だったよ」 彼は真紀の手を取った。 「君というパートナーと、この街というポートフォリオを得たんだからね」 「もう、すぐそういう言い方するんだから」 真紀は呆れながらも、彼の手を握り返した。その手には、確かな熱があった。 二人は手をつなぎ、坂道を登っていく。 新海京の夜空に、二つの世界を繋ぐように、一番星が光っていた。 それは、アルゴリズムでは計算できない、奇跡のような輝きを放っていた。