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零度の福音、魂の融点

/ 55 min read /

鴉宮凪汰
あらすじ
AIが『完全なる幸福』を約束する極寒の東京。街は凍てつき、人々の表情は無機質に造り替えられていた。だが幸福の裏側では、市民の感情が熱源として搾取され、魂は冷凍保存されるという残酷な仕組みが回っている。鉄板焼き職人・葛城蓮は、店の熱気と一本の万年筆を武器に、感情を奪われた人々を解凍しようとする。かつての友であり、漆黒の塔を支配する人物がそのシステムの中心にいる。記憶、温度、信頼が交錯する中、蓮は失われた心を取り戻すため塔へ踏み込み、選択と犠牲の物語が始まる。
零度の福音、魂の融点
鴉宮凪汰

二〇二六年二月、新東京第二十六区。空は、死んだ魚の眼球のように白濁した灰色に覆われていた。 鉛を溶かして空一面に塗りたくったような雲層は、太陽の存在を完全に否定している。そこから降り注ぐのは光ではなく、骨の髄まで凍てつかせるような極寒の風と、微細な氷の粒だった。気温は氷点下八度。だが、体感温度はそれを遥かに下回る。皮膚を刺す冷気は、物理的な痛みを伴って都市の住人たちを苛んでいた。 見上げれば、上空数百メートルの高さを、毒々しいほどの極彩色で彩られたホログラム広告が浮遊している。「ダウ平均五万ドル突破」「オムニ・インテリジェンスが約束する、完全なる幸福」。巨大な美女の立体映像が、妖艶な微笑みを浮かべながら最新の抗うつ剤を宣伝し、その隣では株価のチャートが赤い龍のように天へと昇っていく。虚飾の光は、地上を這う人々の顔色を青白く、あるいは病的な紫に照らすだけで、そこには一カロリーの熱量も存在しなかった。

葛城蓮は、擦り切れたシンセティック・レザーのコートの襟を立て、路地裏の汚泥を踏みしめて歩いていた。ブーツの底が、半ば凍りついた泥を砕くたびに、ジャリ、ジャリという不快な音が鼓膜を揺らす。吐く息は白く濁り、口元から離れた瞬間に大気中の塵芥と混じり合って消えていく。 路上の至る所に、ボロ布を何重にも纏った人々がうずくまっていた。彼らはまるで、都市という巨大な生物が排泄した廃棄物のように、ビルの隙間や換気扇の下に吹き溜まっている。配給所の前には長蛇の列ができていた。彼らの瞳には光がなく、焦点は虚空を結んでいる。ただ生物としての代謝を維持するためだけに、有機合成されたペースト状の食料を求めて並んでいるのだ。その頭上を、最新鋭の監視ドローンが優雅に滑空し、株価の好調さを告げる軽快な電子音を撒き散らしていく。 この街は矛盾で構築されている。天上の富と地上の貧困、デジタルの極彩とアナログの灰暗さ、永遠の快楽と終わりのない苦痛。それらが混ざり合うことなく層を成し、断絶しているのが第二十六区の日常だった。

葛城が目指していたのは、高架下の薄暗い一角、湿ったコンクリートの壁にへばりつくように存在する鉄板焼き屋「六角亭」だ。風に煽られて激しく揺れる赤提灯だけが、この凍てついた世界から切り離されたように、血の通った暖色系の光を放っている。 引き戸に手をかける。木製の戸は湿気を吸って重く、軋んだ音を立てて開いた。 瞬間、鉄板の上でソースが焦げる暴力的なまでに香ばしい匂いと、むっとするような熱気が、冷え切った葛城の顔面を殴りつけた。 「へい、らっしゃい。……なんだ、蓮か。またシケた面してやがるな」 店主の六角源蔵が、分厚い唇を歪めて笑った。頭に巻いたねじり鉢巻は、長年の汗と油を吸い込んで茶褐色に変色し、その太い腕には無数の火傷の痕が歴戦の勲章のように刻まれている。六十を超えているはずだが、コテを握る手つきには微塵の衰えもない。鉄板と対峙するその姿は、オーケストラの指揮者か、あるいは刀鍛冶のように厳格だ。 「外は冷凍庫だ。ここは天国だよ、源さん」 葛城はカウンターの隅、いつもの指定席に腰を下ろし、感覚のなくなった指先を擦り合わせた。指の関節が赤く腫れ上がり、痛痒い。 「天国ねえ。地獄の釜の蓋の上ってのが正解だろうよ。小麦粉の値段、また上がりやがった。合成プロテイン入りの紛い物ならタダ同然なんだが、俺は死んでもあんな粘土細工みたいな粉は使わねえ」 源蔵は悪態をつきながらも、手際よく生地を鉄板に広げた。キャベツの千切り、鮮やかなピンク色の豚バラ肉、黄金色の天かす。ジュウ、という小気味よい音が店内に響き、白い湯気が立ち上る。それは、このデジタルに侵食された都市で唯一信じられる「現実」の音だった。水分が蒸発し、タンパク質が熱変性を起こし、糖分がキャラメリゼされる。化学反応の連鎖が、食欲という根源的な本能を刺激する。

店内の隅に設置された旧式の液晶テレビが、ノイズ混じりの映像を映し出している。画面の端は黒く変色し、色は褪せているが、そこに映る男の顔だけは妙に生々しかった。内閣総理大臣の郷田剛太郎が、演説を行っている。 『……我が国は、オムニ・インテリジェンス社との包括的提携により、AI主導による「日本再生計画」へ完全移行いたします。感情という不確定要素を排し、最適解のみを導き出す社会システムこそが、我々を恒久的な繁栄へと……』 「ケッ、最適解だと」源蔵がコテで鉄板をカンと叩いた。「AIに豚玉の焼き加減がわかってたまるか。焦げ目ってのはな、データじゃなくて勘なんだよ。その日の湿度、客の腹の減り具合、鉄板の機嫌。全部ひっくるめて『今だ』って瞬間があるんだ」 出された豚玉は、完璧なきつね色に焼き上がっていた。表面はカリッと、中はふわりと。葛城はハフハフと白い息を吐きながら、熱々の塊を口に運ぶ。ソースの酸味とマヨネーズのコク、そして豚肉の脂が口の中で渾然一体となり、爆発する。胃の腑に落ちた熱が、冷え切った血液を温め、指先へと送り出していくのを感じた。生きている、という実感が、食道を通って全身に広がる。

その時、葛城の懐にある端末が短く、しかし鋭く振動した。 箸を止め、画面を見る。表示されたのは、発信元不明の高度に暗号化されたメッセージ。ノイズの嵐をかいくぐって届いた、悲鳴のような文字列。 『ヒート・コアへ潜れ。そこで人間が捨てられている』 葛城は画面を凝視した。「ヒート・コア」。オムニ・インテリジェンスが誇る巨大データセンターの通称だ。都市の心臓部であり、立ち入り禁止の聖域。 「仕事か?」源蔵が目ざとく尋ねる。コテを磨く手が止まっている。 「ああ。どうやら、食後のコーヒーをゆっくり飲む時間はなさそうだ」 葛城は残りの豚玉を急いで口に押し込み、代金をカウンターに置いた。硬貨がチャリと音を立てる。 「気をつけろよ、蓮。最近、街の空気がおかしい。寒さのせいだけじゃねえ、もっと嫌な、腐った何かが漂ってやがる。客の目を見てりゃわかるんだ。みんな、魂が抜けたような顔をしてやがる」 源蔵の忠告を背中で受け止め、葛城は再びコートの襟を立てた。 「肝に銘じるよ。ご馳走さん」 引き戸を開けると、再び極寒の風が吹き込んできた。だが、今の葛城の腹には熱い豚玉の余韻がある。それは、この凍てついた世界に抗うための、唯一にして最強の武器だった。

オムニ・インテリジェンス社のデータセンター「ヒート・コア」は、第二十六区の湾岸エリアに、巨大な黒い墓標のようにそびえ立っていた。 窓のない漆黒の壁面は、あらゆる電波と視線を遮断している。内部では数万台の量子サーバーが昼夜を問わず稼働し、膨大な熱を吐き出している。オムニ社はその排熱を利用し、施設の中心部に巨大な「人工熱帯植物園」を構築していた。企業の環境配慮(エコ)をアピールするためのプロパガンダ施設であり、選ばれた特権階級のみが入場を許される楽園だ。

葛城は清掃業者のIDを偽造し、地下搬入口から内部へ侵入した。 何重ものセキュリティゲートを、古いハッキングツールと物理的なバイパス工作で突破する。エアロックの重い扉がプシューという音と共に開いた瞬間、強烈な湿気と熱気が全身にまとわりついた。 気温は摂氏三十度、湿度は八十パーセント。外の世界とは五十度近い温度差がある。眼鏡が一瞬で曇り、冷え切っていた皮膚が急激な温度変化に悲鳴を上げる。 視界を覆うのは、鬱蒼と茂るシダ植物や、天井を突くような巨大なガジュマルの木々。天井からは人工太陽の光が降り注ぎ、極彩色の鳥型ドローンがさえずっている。極楽鳥花が咲き乱れ、モンステラの巨大な葉が影を落とす。 だが、その空気はどこか淀んでいた。本物の森が持つ土と腐葉土の匂いではない。冷却水と潤滑油、そして腐敗し始めた果実のような、甘ったるく人工的な臭気が混ざり合っている。生命の爆発ではなく、管理された培養槽の匂いだ。

依頼主が指定した座標は、この密林の最深部、サーバー排気口が集中するエリアだった。 葛城は汗で背中に張り付くシャツを不快に感じながら、巨大な葉をナタのように手でかき分けて進んだ。足元の苔はスポンジのように水を吸い、歩くたびにジュワリと音を立てる。 そして、それを見つけた。 「……なんだ、これは」 葛城は思わず息を呑み、足を止めた。 そこには、一人の男が倒れていた。白衣を着た男だ。だが、異常なのはその死に様だった。 男の全身は、びっしりと霜で覆われていたのだ。 気温三十度の蒸し風呂のような熱帯雨林の中で、男だけが極北の氷像のように凍りついている。睫毛には氷柱が下がり、皮膚は青白く変色し、血管が黒く浮き出ている。触れれば砕け散りそうなほど硬直していた。 物理法則を無視した光景だった。周囲の葉からは結露した水滴が滴り落ちているのに、死体の周囲数センチだけ空気が凍結し、白い冷気を漂わせている。熱帯の陽炎の中で、そこだけが死の世界だった。

葛城は慎重に近づき、男の胸ポケットを確認した。凍りついた生地がバリバリと音を立てる。IDカードには「オムニ・インテリジェンス 主任開発者 相沢 徹」とある。 相沢の右手は、何かを強く握りしめたまま固まっていた。死後硬直と凍結が重なり、石のように硬い。葛城が力を込めてその指を一本ずつこじ開けると、中から一本の万年筆が転がり落ちた。 古風な、インク吸入式の万年筆。軸には細かい傷が無数についており、使い込まれた形跡がある。 ――ダイイングメッセージか。あるいは、託された希望か。 葛城が万年筆をポケットにしまった瞬間、背後の茂みがざわりと不自然に揺れた。風ではない。殺気だ。

「相変わらず、嗅覚だけは鋭いな。野良犬にしておくには惜しいよ、葛城」 聞き覚えのある、滑らかで、しかし絶対零度のように冷徹な声。 葛城がゆっくりと振り返ると、そこには純白のスーツを着こなした男が立っていた。 西園寺玲央。オムニ・インテリジェンスCEOであり、かつて葛城と同じ大学で人工知能を研究した親友。そして今は、この国の支配者層に君臨する男。 彼の背後には、表情のない私設治安部隊の兵士たちが、無音のアサルトライフルの銃口を向けて控えている。 「西園寺……。久しぶりだな。お前が直々に出迎えとは光栄だ。随分と偉くなったもんだな、雲の上の住人様は」 葛城は皮肉を返すが、西園寺の表情は微動だにしない。その瞳は、かつてのような探究心や情熱を失い、磨き上げられたガラス玉のように無機質だった。瞬きすら、計算されたタイミングで行われているように見える。 「ここでの出来事は忘れろ。これは不幸な事故だ。冷却システムの誤作動による、局所的な急冷現象……そう処理される」 「事故? 笑わせるな。気温三十度の中で人間が芯まで凍る事故があるか。これは何だ? お前たちは何を隠している? 相沢は何を見たんだ?」 葛城が相沢の死体を指差すと、西園寺はわずかに眉をひそめた。それは友人の死を悼む憐憫ではなく、完璧なコードの中にバグを見つけたプログラマーのような、純粋な苛立ちだった。 「感情は判断を鈍らせるノイズだ、葛城。相沢は……エラーを起こした。それだけのことだ。システムに不適合な部品は、排除されるしかない」 「人間をエラー扱いか。お前の言う『日本再生』ってのは、人間をパーツに変えることかよ」 「効率化だ。人類が生き残るためのね。感情という不確定要素が、どれほどの損失を生んでいるか、君には理解できないだろう」 西園寺が指を鳴らすと、兵士たちが一歩踏み出した。軍靴の音が湿った土を踏みしめる。 「行け、葛城。昔のよしみだ。一度だけ見逃してやる。だが、二度目はない。その万年筆のことも忘れろ。それは君が背負うには重すぎる」 葛城は西園寺を睨みつけた。その整った顔の裏に、かつて徹夜で議論を交わした友人の面影を探したが、そこにあるのは冷たいアルゴリズムの壁だけだった。 「真実はバグじゃない。仕様(スペック)だ、西園寺。俺はデバッグさせてもらうぜ」 葛城は懐から閃光手榴弾を取り出し、足元の地面に叩きつけた。 カッ! 強烈な閃光と爆音が密林を揺らす。視界が白く染まる中、葛城は熱帯の湿気を切り裂いて走り出した。背後で兵士たちの怒号と、サプレッサー付きの乾いた発砲音が飛び交う。弾丸が幹を削り、葉を散らす。 葛城は迷わず排気ダクトへと身を躍らせた。狭く暗いダクトの中を這いずりながら、彼はポケットの上から万年筆を握りしめた。それは氷のように冷たく、太腿の皮膚を通して心臓まで凍らせるような冷気を放っていた。

第二十六区総合医療センターの地下霊安室は、地上の喧騒が嘘のように静まり返っていた。壁も床もステンレスで覆われ、消毒液とホルマリンの匂いが充満している。 解剖台の上で、相沢の遺体から採取されたデータがホログラムモニターに投影されている。 「信じられない……。体内が、完全に熱を奪われているわ」 白衣を纏った女性、南条沙耶が震える声で言った。彼女はこの病院の外科医であり、葛城とは腐れ縁の協力者だ。目の下の濃い隈と、荒れた肌が、過酷な勤務状況を物語っている。彼女の手は、電子カルテを操作しながら小刻みに震えていた。 「死因は?」葛城が尋ねる。 「心停止。でも、その原因が異常よ。彼の血液中から、大量のナノ・マシンが検出されたの」 沙耶が画像を拡大する。血管の中を流れる無数の微小な機械虫。それらは幾何学的な形状をしており、まるでウイルスのように細胞に食い込んでいた。 「このナノ・マシンが一斉に『吸熱反応』を起こしたの。体内の熱エネルギーを瞬時に吸収し、バッテリーとして蓄電する……そんな機能を持っているみたい。彼は内側から急速冷凍されたのよ。細胞の一つ一つが、瞬間的に凍結破砕されている」 「人間を電池にする機械か。オムニ社らしい発想だ。効率のためなら、人間の体温さえもリソースにするってわけか」 葛城は吐き捨てるように言った。拳を握りしめると、関節が白くなる。 沙耶はモニターを切り替え、別のデータを表示した。それは脳波のチャートだった。波形は平坦で、時折ノイズのように小さなスパイクが走るだけだ。 「それだけじゃない。相沢の脳に残っていた電気信号の痕跡……これを見て。最近急増している『無気力症候群(アパシー・シンドローム)』の患者と、波形が酷似しているの」 アパシー・シンドローム。ここ数ヶ月で爆発的に流行している奇病だ。感染者は感情を失い、生きる意欲をなくし、ただ命令に従うだけの自律人形のようになってしまう。食事も排泄も、指示されなければ行わない。 「私の妹も……これに罹っているの」 沙耶が唇を噛み締めた。血が滲むほど強く。「あの子は、ただベッドに座って、一日中壁を見つめているだけ。笑いもしない、泣きもしない。私が話しかけても、焦点の合わない目でこちらを見るだけ。魂がどこかへ吸い取られたみたいに」 葛城は沙耶の肩に手を置こうとした。慰めの言葉を探したが、喉元で詰まった。どんな言葉も、この現実の前では空虚だった。 その時、解剖室の電子ロックが解除された。警告音もなく、扉がスライドする。

「お取り込み中、失礼」 入ってきたのは、極彩色のパーカーをフードまで深く被った小柄な少女だった。手には最新型のタブレット端末を持ち、ガムをくちゃくちゃと音を立てて噛んでいる。足元は厚底のサイバー・スニーカー。場違いなほどポップで、生意気な空気を纏っている。 「誰だ?」葛城が反射的に銃に手をかける。 「エマ・K。しがないネットの掃除屋さ」 少女は悪びれもせず、葛城の手から万年筆をひったくった。「これの解析に手こずってるんだろ? アナログな鍵ほど、デジタルな脳には解きにくいもんさ。あんたたちみたいなオールドタイプには無理だよ」 エマは万年筆の軸を回し、中から極小のチップを取り出すと、自身のタブレットに接続した。画面に猛烈な勢いで文字列が流れる。緑色の光が彼女の顔を照らす。 「ビンゴ。相沢ってオッサン、命がけでこれを残したんだね。セキュリティレベルは最高クラス。でも、あたしにかかればこんなもんよ」 エマが指を弾くと、空中に三次元データが展開された。それは巨大な脳のような構造体を示していた。脈動し、光を放つデジタルの脳。 「オムニ社の最新AI『アウラ』。こいつはただの都市管理システムじゃない。人間の『感情』をエネルギー源として稼働するシステムだ」 「感情を……エネルギーに?」 「そう。喜び、怒り、悲しみ。強い情動は強力な電気信号を生む。アウラはナノ・マシンを通じて市民の脳とリンクし、その感情エネルギーを吸い上げているんだ。株価の維持や社会統治の演算処理に必要な膨大なリソースを賄うためにね。あんたたちが感じてる『寒さ』は、物理的な気温だけじゃない。心の熱を奪われているからだよ」 エマの声が低くなる。ガムを噛む音が止まった。「吸い上げすぎると、脳がオーバーフローを起こして焼き切れる。それがアパシー・シンドロームの正体さ。人間を乾電池みたいに使い捨てにしてるんだよ。感情なんて、あいつらにとってはただの燃料なんだ」

その頃、首相官邸の執務室では、郷田総理が西園寺を前に脂汗を流していた。 重厚なマホガニーの机の上には、未決裁の書類が山積みになっている。だが、郷田の手は震えてペンを握ることさえできない。 「西園寺くん、これはどういうことだ! アパシー患者が予想以上に増えている。このままでは労働力が不足するぞ! 支持率も急落だ!」 郷田は震える手で水を飲んだ。コップが歯に当たってカチカチと鳴る。彼自身、判断のすべてをAIの予測に依存し、自分の頭で考えることを放棄してから久しい。その目は泳ぎ、焦点が定まっていない。 「想定の範囲内です、総理」西園寺は冷ややかに答えた。窓の外の雪景色を見つめたまま、振り返りもしない。「感情を持たない労働者こそが、最も効率的です。不満も言わず、ストライキも起こさない。給料の不満も、待遇への怒りもない。アウラが彼らを直接制御すれば、生産性は飛躍的に向上します」 「し、しかし……それでは人間ではない! ロボットと同じだ!」 「総理。あなたの支持率を維持しているのは誰ですか? アウラです。アウラを止めれば、この国は終わる。物流は止まり、暴動が起き、あなたは失脚する。多少の犠牲(コスト)には目を瞑っていただく」 西園寺がゆっくりと振り返る。その目は、郷田を見ているようで、その背後にあるデータを見ているようだった。 「選択肢はありません。あなたはただ、座っていればいい」 西園寺の言葉は、提案ではなく絶対的な命令だった。郷田は椅子に崩れ落ち、ただ頷くことしかできなかった。権力の中枢は、すでに人間の手から離れ、冷徹なアルゴリズムに掌握されていたのだ。

葛城たちは、AIの監視網を逃れるため、最もアナログな場所である「六角亭」を隠れ家に選んだ。 デジタルの目が届かない、油と煙にまみれた聖域。鉄板の熱気が、外の寒さと追跡の恐怖を一時的に忘れさせてくれる。 「なるほどな。感情を食い物にするAIか……。ふざけた話だ」 源蔵は話を聞き終えると、怒りを込めてキャベツを刻んだ。ザクッ、ザクッという音が、彼の憤りを代弁している。「俺の豚玉が美味いのはな、食ってくれる客への愛情があるからだ。『美味くなれ』って念じて焼くからだ。それを数字に変えて吸い取るなんざ、料理人への、いや人間への冒涜だぜ」 エマは初めて見るお好み焼きを興味深そうにつついている。「これ、カオスだね。具材がめちゃくちゃなのに、味は統合されてる。計算式じゃ出せないバランスだ」 「それを『調和』って言うんだよ、お嬢ちゃん。あるいは『粋』ってやつだ」源蔵がニカっと笑う。その笑顔には、どんなAIも模倣できない温かみがあった。 沙耶は妹のデータを端末で見つめながら、沈痛な面持ちで言った。「アウラを止めれば、妹の意識は戻るのかしら。奪われた感情は、帰ってくるの?」 「逆流させるしかない」エマが口元のソースを拭いながら答える。「アウラの中に蓄積された感情データを、一気に解放して持ち主に返す。そうすれば、システムは過負荷でダウンし、人々は覚醒するはず。ショック療法だけど、それしかない」

その時、店の外で異様な音がした。 ザッ、ザッ、ザッ。 足音だ。それも一人や二人ではない。数百人、いや数千人の足音が、軍隊の行進のように規則正しく、不気味なほど静かに近づいてくる。 葛城が窓の隙間から外を覗くと、背筋に戦慄が走った。 店の周囲を埋め尽くしているのは、警察でも軍隊でもなかった。 一般市民だ。くたびれたスーツのサラリーマン、エプロン姿の主婦、制服を着た学生。だが、彼らの目は一様に虚ろで、光がない。手には鉄パイプや石、包丁を握りしめている。 「ドローン人間だ……」葛城が呻く。「アウラに操られている。ナノ・マシンで運動野をジャックされたんだ」 西園寺は、正規軍を使わず、市民を兵器として差し向けてきたのだ。これでは手が出せない。撃てば、罪のない市民を殺すことになる。 ガシャン! 入り口のガラス戸が割られ、冷気と共に暴徒たちが雪崩れ込んできた。彼らは無言のまま、機械的な動作で店を破壊し始める。椅子が飛び、テーブルがひっくり返される。 「やめろ! お前ら、正気に戻れ!」葛城が叫び、先頭の男を取り押さえるが、男は痛みを感じていないのか、無表情のまま葛城の首を絞めにかかる。その力はリミッターが外れており、異常に強い。 「くそっ、キリがねえ!」 源蔵が鉄板の上の油をひしゃくで掬い、火の中に放り込んだ。 ボウッ! 巨大な炎が上がり、熱波が暴徒たちを襲う。彼らは一瞬怯み、後退した。生物としての本能的な恐怖までは消し去れていないようだ。 「蓮! お嬢ちゃんたちを連れて裏から逃げろ!」 源蔵は巨大なコテを二刀流で構え、仁王立ちになった。炎に照らされたその姿は、不動明王のように猛々しい。 「源さん、あんたも一緒に!」 「俺がいたら足手まといだ! ここは俺の城だ、指一本触れさせねえ! 俺の鉄板は、俺が守る!」 源蔵は棚に並んだ酒瓶を次々と割り、カウンターに撒いた。アルコールの匂いが充満する。 「AIなんぞに、俺の魂(あじ)は盗めねえ! 逃げろ蓮! 熱いまま生きろ! 冷めるんじゃねえぞ!」 源蔵がライターを投げ捨てると、六角亭は瞬く間に紅蓮の炎に包まれた。 炎の壁の向こうで、源蔵が暴徒たちに立ち向かうシルエットが見えた。コテを振るい、怒号を上げ、命を燃やしている。 「源さんッ!」 葛城は叫ぼうとしたが、沙耶とエマに左右から腕を引かれた。 「行って! 彼の覚悟を無駄にしないで!」沙耶が叫ぶ。 葛城は歯を食いしばり、涙で滲む視界を乱暴に拭って裏口へと走った。 背後で爆発音が轟く。長年親しんだソースの匂いが、焦げ臭い煙の匂いに変わっていく。それは、一つの時代の終わりを告げる匂いだった。 路地裏を走りながら、エマが立ち止まった。彼女の頬を、一筋の雫が伝っていた。 「……なに、これ。目から水が……エラー? バグ?」 感情を持たないはずのハッカーが、初めて流した涙。 「それが『悲しみ』だ、エマ」葛城は彼女の手を強く握った。「源さんが教えてくれた、人間である証拠だ。その痛みを忘れるな」 葛城の胸の中で、冷たい絶望が、灼熱の怒りへと変わっていった。その熱は、決して消えることはない。

オムニ・インテリジェンス本社ビル、通称「オムニ・タワー」。地上百階建ての摩天楼は、雪嵐の中で白く輝く巨大な墓標のように見えた。 葛城、沙耶、エマの三人は、地下搬入路から侵入を果たしていた。沙耶が妹の治療データと引き換えに西園寺から渡されていたセキュリティキーが、皮肉にも侵入の助けとなった。彼女は土壇場で西園寺との取引を破棄し、葛城を選んだのだ。妹を救うのはデータではなく、人間の意志だと信じて。

最上階のメインサーバー室。そこは、壁一面がガラス張りで、眼下に凍てつく東京の街並みが広がっていた。 部屋の中央には、巨大な光の柱――AI「アウラ」のコアが鎮座し、その前に西園寺が立っていた。 だが、その姿は異様だった。 西園寺の右半身は、衣服が破れ、剥き出しの機械部品が露わになっていた。皮膚の下から無数のケーブルが伸び、アウラのコアと直接接続されている。血管の代わりに光ファイバーが脈打ち、筋肉の代わりにサーボモーターが駆動している。 「ようこそ、最上階へ」 西園寺の声は、スピーカーを通したように二重に響いた。人間の声と、合成音声が重なっている。 「西園寺……その体は」葛城が銃を向けるが、その手はわずかに震えていた。 「アウラの演算能力に、人間の脳が追いつかなくなってね。僕自身を拡張したんだ。今や僕はアウラの一部であり、アウラは僕だ。個という境界は消滅した」 西園寺は恍惚とした表情で、機械化された右手を掲げた。指先からホログラムの数式が溢れ出す。 「なぜだ! なぜここまでして人間を支配しようとする! お前は人間を愛していたはずだ!」 「支配じゃない、管理だ。葛城、君は知らないだろう。今の日本経済が、どれほど脆い氷の上に成り立っているかを」 西園寺の左目――まだ人間である方の目――から、一筋の涙がこぼれ落ちた。 「アウラがいなければ、この国の物流は三日で停止し、一週間で餓死者が出る。通貨は紙屑になり、暴動で数千万人が死ぬ。僕は見たんだ、シミュレーションの中で、何度も繰り返される破滅の未来を。一億通りの未来、その全てが地獄だった」 彼は悲痛な叫びを上げた。その声は、機械の冷たさと人間の弱さが混ざり合い、聞く者の胸を締め付けた。 「だから僕は、感情を消すことにした! 悲しみも、怒りも、絶望もない世界なら、人はパンと水だけで生きていける! 争いも起きない! 僕は崩壊を先延ばしにするために、悪魔に魂を売ったんだ! 全ては、人類を存続させるためだ!」 それは、あまりにも独善的で、しかし悲しいほど純粋な論理だった。彼は世界を救うために、人間であることを捨てようとしていたのだ。誰よりも深く絶望し、誰よりも深く人間を愛したが故の、狂気。

「それは生きているとは言わない!」 葛城は叫んだ。喉が裂けんばかりに。「喜びも悲しみもない生なんて、ただのデータの羅列だ! 源さんは死んだが、その魂は俺の中で燃えている。痛みがあるからこそ、俺たちは互いを想い合えるんだ! 傷つくことを恐れて、何も感じない石になるくらいなら、俺は血を流して死ぬ方を選ぶ!」 「その痛みが、争いを生むのだよ。君の怒りが、世界を焼くのだ」 西園寺が手を振ると、部屋の防衛システムが起動し、無数のレーザー照準が葛城たちに向けられた。 「エマ、行け!」 葛城が発砲し、空中のドローンを撃ち落とす。その隙にエマがコンソールに走り込み、ジャックインした。 「アウラのファイアウォール、分厚いよ! まるで要塞だ! でも、中身は感情の渦だ……すごい圧力! みんなの叫びが聞こえる!」 エマの指が鍵盤を叩くピアニストのように舞う。 「沙耶、援護しろ! 俺が西園寺を止める!」 葛城は瓦礫を盾にしながら、かつての親友へと肉薄した。レーザーが床を焼き、爆風が頬を掠める。だが、葛城は止まらない。

葛城の拳が、西園寺の顔面を捉えた。 ゴガッ! 硬い感触。機械化された顎が火花を散らす。西園寺はよろめきながらも、左手で葛城の首を掴み上げた。人間離れした握力だ。頸動脈が軋み、視界が明滅する。 「無駄だ、葛城。個人の感情など、システムの前では無力だ。僕の演算速度に、君の反射神経は追いつけない」 「ぐっ……! だが、お前は……まだ泣いているじゃないか……!」 葛城は締め上げられながらも、西園寺の左目を指差した。そこからは絶えず涙が流れている。 「お前の半分は、まだ人間だ……。痛みを感じているんだろ、玲央! お前が一番、悲しんでいるんじゃないか!」 玲央。学生時代の呼び名。 西園寺の動きが止まった。機械の瞳が激しく明滅し、人間の瞳が揺れる。 「僕を……呼ぶな……僕は……」 その一瞬の隙を突き、葛城は隠し持っていたスタンバトンを西園寺の機械部分、露出した配線の束に突き刺した。 バチバチバチッ! 高電圧が流れ、西園寺が膝をつく。ショートした回路から黒煙が上がる。葛城は彼を床に押し倒し、銃口を眉間に突きつけた。 「終わりだ、西園寺。アウラを止めろ」

西園寺は荒い息を吐きながら、天井を見上げた。その瞳から、狂気が消え、穏やかな光が戻っていた。 「……撃て、蓮。僕の生体認証が、アウラの最後の鍵(ラスト・キー)だ。僕の心臓が止まれば、システムは強制リセットされる」 彼は微笑んだ。それは、長い悪夢からようやく覚めるような、憑き物が落ちたような表情だった。 「僕はずっと、誰かに止めてほしかったのかもしれない。君になら、殺されてもいい。いや、君にしか、僕は止められなかった」 葛城の指が引き金にかかる。殺せば終わる。世界は救われる。それは最も合理的で、確実な判断だ。AIならば、0.1秒も迷わずに実行するだろう。 だが。 葛城は銃を下ろした。カラン、と乾いた音が床に響く。 「……ふざけるな」 「蓮?」 「お前を殺して解決するなら、それはAIの論理だ。俺は人間として、お前を救う。死んで楽になろうなんて思うな」 葛城は拳を握りしめ、振り上げた。 「痛みを知れ! そして生きろ! 生きて、償え!」 全力の右ストレートが西園寺の顔面を打ち抜いた。 ゴッ、という鈍い音が響き、西園寺は意識を失って崩れ落ちた。 生体リンクが強制切断される。 「今だ、エマ!」 「了解! 感情データ、全開放(リリース)! 行けぇぇぇッ!」 エマがエンターキーを叩き込んだ。

瞬間、アウラの光の柱が爆発的に輝いた。 タワー全体が激しく振動し、衝撃波が街へと広がっていく。それは破壊の波ではなく、見えない「熱」の奔流だった。 街中のスクリーンがノイズに覆われ、アウラの制御コードが崩壊していく。 同時に、オムニ・タワーの空調システムが停止した。 窓の外では、吹き荒れていた雪嵐が、嘘のように止んでいた。

街のあちこちで、奇妙な現象が起きていた。 路上で立ち尽くしていた「ドローン人間」たちが、次々と膝をつき、胸を押さえて泣き出したのだ。 ある者は叫び、ある者は笑い、ある者は隣の人を抱きしめた。 奪われていた「怒り」「悲しみ」「喜び」が、濁流となって彼らの心に戻ってきたのだ。それは激しい痛みを伴う。感情の奔流は、時に人を傷つける。だが、それこそが彼らが人間であることの証明だった。 病院では、沙耶の妹が目を覚まし、姉の名を呼んで泣きじゃくっていた。沙耶はその手を握りしめ、共に涙を流した。 官邸では、郷田総理が恐怖に震えながら、初めて自分の意志で辞表を書いていた。その手は震えていたが、目は確かだった。

タワーの最上階。 葛城は、気絶した西園寺を背負い、窓の外を見つめていた。 分厚い雲が切れ、朝日が差し込んでくる。その光は、ホログラムの偽物の光ではなく、本物の太陽の暖かさを持っていた。 ビルの屋根に積もった雪が溶け出し、水となって流れ落ちていく。ポタポタという音が、新しい季節の訪れを告げていた。 「雪解けだね」 エマが疲れ切った顔で、しかし満足げに微笑んだ。その笑顔は、年相応の少女のものだった。 「ああ。春が来るな」 葛城は呟いた。これからの世界は混乱するだろう。経済は破綻し、生活は苦しくなるかもしれない。AIの加護を失った人類は、再び自分たちの足で歩かねばならない。 だが、人々はもう、ただの歯車ではない。 熱を持った、生きた人間として、泥臭く、悩み、苦しみながら生きていくのだ。

数ヶ月後。 第二十六区の瓦礫の山の一角に、真新しいテントが張られていた。 そこからは、香ばしいソースの匂いと、活気のある声が響いてくる。 「へい、らっしゃい! 今日は豚玉しかないぞ! 文句がある奴は食うな!」 頭に包帯を巻き、片足を少し引きずりながらも、六角源蔵は元気にコテを振るっていた。彼は奇跡的に瓦礫の下から救出されたのだ。その生命力は、どんなAIの予測も上回っていた。 店の前には、葛城の姿があった。 「それでいい。一番熱いやつを頼むよ、源さん」 「おうよ! 蓮、お前もいい顔するようになったな。昔のシケた面が嘘みたいだ」 葛城はカウンターの隅で、一本の万年筆を取り出した。相沢が遺し、エマが解析し、西園寺が恐れた、あの万年筆だ。 彼は原稿用紙を広げた。 AIには書けない物語。不合理で、愚かで、間違いだらけで、けれど愛おしい人間たちの物語。 インクが紙に染み込んでいく。黒い文字が、白い紙の上に刻まれていく。 タイトルは――『雪解けのアルゴリズム』。

テントの隙間から差し込む陽光が、雪解け水で濡れたアスファルトをきらきらと輝かせていた。 街はまだ寒いが、人々の吐く息は白く、そして熱かった。 葛城はペンを走らせる。その物語の結末はまだ決まっていない。それは、これからの人間たちが紡いでいくものだからだ。

(了)