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夜明けに響くノイズ

/ 35 min read /

霧島ユウ
あらすじ
半導体研究者の謎めいた墜死事件は、単なる事故として処理されようとしていた。しかし、直感を信じて動く刑事・高村、危険な設計図を手にした若きプログラマ・美咲、そして真実を追い続けるネット記者・佐伯が、旧式カセットに残されたノイズを手掛かりに集結する。AIが支配する金融市場の裏で渦巻く巨大な陰謀に、三人はそれぞれの信念と過去を抱えながら立ち向かう。都市がブラックアウトする運命の夜、彼らが選ぶのは復讐か、それとも再生か。テクノロジーと人間の葛藤、そして希望を描くサスペンス・スリラー。
夜明けに響くノイズ
霧島ユウ

潮と焦げたアスファルトの匂いが胃の底に重い膜を張りつける六月の夕刻。湾岸再開発地区は巨大な鉄の昆虫のようなクレーンが幾重にも脚を伸ばし、日没の光を遮っていた。海上コンテナを積んだ無人トレーラーが軋む音を残して走り去ると、ふいに風向きが変わり、腐食しかけた鉄骨と磯の湿気が入り交じった臭気が肌にまとわりつく。その薄闇の中、アーク・インダストリー半導体研究主任、牧田雄亮の白衣は濡れた手旗のように桟橋でひらめき、やがて重力に従ってぐしゃりと折れた。

桟橋は鋼鉄の格子で組まれ、足下には海面を映す隙間が開いている。牧田の身体はその格子の上で不自然なS字を描き、胸部から滲み出た血液が金属の溝を伝って黒い潮だまりを作っていた。頭部は後屈し、閉じた瞼の下で乾いた睫毛が海風に揺れる。監視カメラはフレームレート二百四十、解像度八Kの高精細で、一人の男が防護柵を越え、手すりを掴み損ね、踵から宙へ舞い、最後に鋼に叩きつけられるまでの過程を完璧に記録していた。警察AIは映像解析に二分二十三秒を費やし、「滑落事故」と判断し、標準化テンプレートの報告書を吐き出す。データは自動で検察・保険会社・遺族連絡網に送られ、捜査の幕は下りたかに見えた。

だが現場に呼び出された港湾署捜査一課刑事、神代創はモニターに映し出された事故判定のグラフを睨み、胸裏に浮かんだざらつきを押さえきれなかった。AIによれば「人的エラー確率94.3%」「自殺傾向8.2%」「他殺可能性0.3%」。数値は冷徹に踊るが、現実の死体は数値の外で息絶えている。神代はタブレットを閉じ、自動運転パトを降りると、ゆっくりと靴底で桟橋を踏みしめた。鉄と潮が混交した腐臭が鼻腔を刺し、彼は無意識にネクタイを緩める。

遺体のポケットに手を差し入れると、指先に固い直方体が当たった。取り出して掌に載せる。四センチほどの黒いプラスチックケース。インデックス部分に薄茶色の紙ラベルが貼られ、鉛筆で「Noise」と殴り書きされている。摩耗で判別しづらいが、明らかに二十世紀末のカセットテープだ。神代は眉を寄せた。ここは最新型量子通信塔に囲まれた港湾区、人々はクラウドストレージすら使わず脳内メモリにデータを置く時代に、磁気テープだと?

更に奇妙なのは、桟橋一帯で電波が乱気流のように渦を巻いていることだった。神代のイヤホンに繋がる捜査端末は5Gを失い、不規則なホワイトノイズを吐き続ける。救助ドローンの稼働ログも数秒ごとに欠落し、歯欠けの波形がスクリーンを埋めた。AIは「電磁干渉」「一過性のノイズ」と走査結果を掲示してくるが、神代の長年の勘は“たまたま”を受け入れない。ノイズは必ず発信源を持つ。発信源は意図を隠す。

夜気が深まる頃、遠くの海上荷捌きクレーンの影が橙に浮かび、あたかも何千本もの指が黒い空を引き裂こうとしているように見えた。神代はポケットにカセットを滑り込ませ、遺体を覆うシートをそっと閉じる。死者は沈黙するが、遺したノイズはまだ鎮まらない。彼は風下に濃く漂う鉄錆の匂いを吸い込み、胸を灼くような焦燥を覚えた。この街にはすでに“物語の始まり”が鳴り響いている。人間にしか聞こえない周波数で。

東京第八開発棟、通称「O₈」。巨大IT企業ガイアの人間は皆、ここを“眠らない咽喉”と呼ぶ。コアなシステムが二十四時間データを嚥下し、吐き出し、また飲み込むからだ。夕方十七時、ほとんどの社員が退勤バッジをタッチし、無人カフェテリアのカップ自販機だけが青白いLEDで孤独を照らしていた。一九九九年生まれ、二十四歳の下請けプログラマ・霧島玲は、カフェインの抜けた紙コップを指先で弄びながら、誰もいない廊下を確かめる。防犯カメラの死角、LANハブの裏へしゃがみ込むと、タブレット型端末を起動した。

社内ネットワークの看板には「情報は資本、流出は罪」と英文で警告が踊る。玲はプロキシを四重に噛ませ、管理者パスを踏み台にしながら、深層フォルダへ潜った。そこには血のように鮮やかなルビー色のアイコンが一つだけ泳いでいる。“RED_JADE”。ダブルクリックのたび、暗号化解除のゲージがディスプレイを満たし、玲の鼓動を奪ってゆく。アクセス最終許可の瞬間、冷房の風が背筋を撫で、彼女は寒気に唇を噛んだ。

開かれた文書には、アーク・インダストリー製次世代チップ「YM08」の回路図が映し出される。だがページをめくるたび、微細加工層の一部が奇妙な形で掘り下げられ、不可視の配線が網の目を作っていた。玲は瞳を見開く。軍事用バックドア——外部から命令コードを送れば、チップはあらゆる演算を一時停止し、指定されたデータを吸い上げて攻撃用AIへ転送する。更にその制御コードは金融市場操作AI「Litany」と双方向で接続され、株価や国債先物を数ミリ秒の単位で揺らすアルゴリズムが練り込まれていた。電子基板の上で戦争と投機が手を取り合い踊っている。玲の喉はひどく乾いた。

心拍が速まるたび、彼女の脳裏に幼少期の記憶が流れた。父の形見であるゲーム機「セガスター」を分解し、磁気メモリの余白に自作のドット絵を焼き込んだ日のことだ。あのとき感じた“世界を覗き見る背徳的な愉悦”が、今も指先に残る。玲は震える手でYM08の設計データを抽出し、こっそり持参したセガスターのカセット基板にステガノグラフィで埋め込んだ。古びたネジを締め戻す音が、誰もいないフロアに乾いた銃声のように響く。

夜二十二時、玲は社外ネットを経由し、ダークウェブの匿名掲示板に証拠の断片を投下した。「YM08 BACKDOOR PROOF」とだけ書き添え、画像ファイルには暗号鍵を隠してある。数分も経たぬうちに返信。——余計なことはやめろ。ハンドルネーム“Mr.K”。アクセス元は十六跳躍後に切断。黒い背景に白文字が浮かんだ瞬間、蛍光灯のフリッカーがいつもより遅く感じられた。どこかで誰かが、彼女の呼吸のリズムさえ掌握している気がした。

帰宅した午前一時、玲はワンルームの蛍光灯を点け、キッチンの流しに水を流した。蛇口の水音は空間を満たすホワイトノイズとなり、ようやく胸の奥の震えが治まる。だがスマホが震え、画面に「新庄翼」の名が表示された瞬間、胃の内容物が逆流しそうになる。“RED_JADE”を禁じられた人間。大和重工のシニアリスクコンサルタント——その素顔は情報の掃除屋。彼のショートメッセージは短い。

「次に警告を無視すれば、ハードもソフトも、君自身もフォーマットする」

玲は冗談めかして笑おうとしたが、声帯が氷のように固まって音が出なかった。水道の蛇口から落ちる雫が、深夜の部屋に爆音で反響した。心拍計アプリが不規則な波を描き、彼女は寝台の端に膝を抱え込む。闇の中でカセットが異物のようにポケットを重くしている——彼女はそれを握り潰さんばかりに強く掴んだ。パンドラは箱を開けた。残るは希望か、それともさらなる災厄か。

梅雨前線が首都を飲み込み、空は灰の綿で覆われたように低かった。雨粒は街灯に当たって散弾となり、アスファルトを白く滲ませる。港湾署地下データルーム。神代創はコンソールに映る赤い文字列“RED_JADE”を凝視していた。アクセス権限不足の警告が弾かれるたびに、モニターは半透明の赤を帯び、AI秘書が「立入制限」と柔らかい声で諭す。その穏和な声は、聞く者の抵抗を事前に刈り取るための設計だ。神代は眉をひそめ、キーボードを叩く指に力をこめた。AIが生成した電子の壁を破るたび、血圧が上がる。壁の向こうにあるのは、牧田の死を事故と結論づけた“最適化の彼方”。だが真実はいつも、最適化の外で窒息している。

同じ頃、ネットメディア「プルートレポート」では、個室ブースの蛍光灯が壊れたように瞬き、笹川奈々緒の視界を細切れにする。彼女のデスクには十七個のブラウザタブ、四つの仮想端末、そして七杯目の缶コーヒー。短く切った黒髪は汗に貼りつき、指先は常にキーボードを跳ねていた。監視カメラ動画のメタデータ、港湾署の搬送ドローン航路、そして“RED_JADE”のサーバトレース。交差する数字の海で、ふと一つの名前が浮上する——霧島玲。下請けプログラマ、年齢、趣味オールドゲーム。奈々緒は脳内の検索窓にキーワードを叩き込み、玲のSNSの痕跡、オンラインゲームでのハンドル、勤務先VPNの留守パケットまで手繰り寄せた。

夜更け、二人は匿名チャットルームで邂逅する。モノクロのアバターが光彩を持たない瞳でこちらを見下ろし、奈々緒のキーボードに問いを寄越した。「あなた、何者?」——玲は警戒し、返事の間隔を敢えて長く取る。奈々緒は冗談まじりに「宇宙人調査員よ」と打ったが、玲は笑わない。かわりにゲームの戦績を引き合いに出し、「あなたはずっとK/D1.6のまま停滞している」と冷たく指摘する。見られているのは自分だと奈々緒は悟った。その緊張が、かえって彼女を正直にした。「あなたの持っているものを、世に出したいだけ。守るよ、取材源として」。言葉の端に嘘はなかったが、玲はさらに沈黙を重ねた。

チャットが切れる直前、玲は短くタイプした。「保護してほしい」。その六文字が、薄氷の上で急速に凍る絆になった。奈々緒は即座に捜査中の神代へ連絡を取る。警察組織を信用しない彼女が刑事と接触するのは異例だったが、情報戦の渦中で孤独は刃物より危険だった。三人は翌日、上野の古びたコワーキングスペースで落ち合う。雨に濡れた街路樹の匂いが階段室にこもり、蛍光灯は相変わらずチカチカと不整脈を刻む。

テーブルに置かれたのは、玲が隠匿した父のゲームカセット。プラスチックの擦れ合う音は静まり返った部屋を切り裂き、奈々緒のカメラドローンが自動的にレンズを向けた。神代は数十年前のゲーム機のカートリッジを裏返し、ネジを指でなぞる。そこに潜む兆し——磁気に焼き込まれた真実——が、機械ではなく人間の手で守られている事実に、彼は僅かな安心を覚えた。

だがコワーキングスペースの窓外を巡るドローンの影には、氷川怜士が派遣した公安チームが潜んでいる。経産省産業安全保障局——名目は「国家機密防衛」、実態は“国益”の名で不都合を抹消する剣。氷川は首相官邸からの直通線を切ると、薄暗い自室で部下の報告書を開いた。そこには神代創の名と、かつて自分が抱えた正義への淡い郷愁が同居していた。「やめろ、再調査は不要だ」——声は自分にさえ届かぬほど掠れていた。

一方、大和重工CEOの皇征一郎は、早朝会議で株主たちに向かい、滑らかな低音で語る。「国家安全より上位の経済活動は存在しない。YM08は日本の盾だ」。拍手が起こる。だがその裏で新庄翼は、退職代行ネットワーク「ExIt」を使い、玲の同僚プログラマを“完璧な引っ越し”へ誘った。社員のバイオIDは抹消され、家族には転勤メールが送られ、本人は二度と姿を見せない。玲のスマホに届く「次は君だ」。画面のOLEDは心臓のように脈動し、薄闇で彼女の顔を青白く浮かび上がらせた。

翌週月曜、東京証券取引所は開場から狂騒した。取引ボードは赤と緑の数字を瞬時に反転させ、トレーダーたちは端末に貼りつく。空売りを繰り返す匿名口座“Mr.K”が、一秒で十億円規模の建玉を繰り出し、また消える。アーク株は分足チャートで稲妻形の乱高下を描き、ホットマネーの群れが乱舞した。皇征一郎は記者会見で自社株買いを宣言し、愛国投資家の仮面を貼りつける。取材陣のフラッシュを浴びながら、皇は内心ほくそ笑む。空売りと買い支えのタイミングが噛み合えば、利益はねじれた曲線を描いて彼の懐へ還流する。

新庄翼は深夜のサーバルームでヘッドセットを耳に押し当て、証券会社のアルゴリズムをリアルタイム解析する。情報ブローカー網が盗んだ個人投資家の“損切り閾値”。それを入力すれば、市場は予定調和の崩壊を演じ、やがて皇の言葉どおり「盾」となる。翼はキーボードを叩きながら、玲に送った不吉なメッセージを思い出していた。彼女は怯えるだろうか、それとも——。

一方、神代・奈々緒・玲の三人は秋葉原のガード下、ネジの抜けた看板が軋む裏通りを歩いていた。目当ては「Onion Cable」——表向きはオーディオ修理店、実はアマチュア無線マニアの隠れ家だ。薄暗い店内、壁には真空管アンプや軍用受信機が所狭しと積まれ、琥珀色のパイロットランプがかすかな熱を放つ。白髭の店主・佐久間は元自衛隊通信兵。神代がポケットからカセットを差し出すと、佐久間は目を細め、黙ってオープンリールデッキにテープを噛ませた。

ヘッドホンから流れ出したのは、ザザッ……と耳を刺すホワイトノイズ。だがスペクトログラム上には可聴域外の鋭い峰が揺れている。佐久間は指で峰をなぞり、モールス符号に変換。玲がラップトップで数式へ落とし込み、数秒後大きく息を呑む。出てきたのは北緯35度38分……多摩丘陵の地下、旧国鉄貨物線跡に点在する廃トンネル群。その隣には別の数列——網膜パターンのハッシュ値。牧田雄亮の娘、灯の虹彩コードに酷似していた。

奈々緒は口を開いた。「灯さん、保護という名の ‘行方不明’ になってる。新庄翼が噛んでる退職代行——実質は失踪請負業者よ」。玲は拳を握り込み、関節が白く浮かんだ。「追いつめられるのは、もう飽きた。乗り込もう」。神代は濡れたタバコを靴裏で潰し、紫煙の跡形さえ残らぬ雨の闇を睨む。「墓場でも天国でもない場所で、真実は待ってる。行くぞ」。

三人がガード下から出たとき、信号機は濁った緑を点灯し、上り電車の鉄輪が火花を散らして夜を切り裂いた。都市のノイズが脈動し、遠くで猫の鳴き声が細く重なった。

多摩丘陵、零時四十七分。高層マンションの灯火が遥か下方で瞬き、丘陵の森は濃紺の布のように闇を抱えている。旧貨物線のトンネルは苔むしたコンクリートが口を開け、内部は湿気で嗅覚を麻痺させる。鉄製のレールが錆び蛇の背骨のように連なり、ランタンの光が赤茶に反射する。神代・奈々緒・玲は、牧田灯を中央に据え、足音を小さく刻んだ。灯は十五歳、父を亡くして四十八時間。瞳に残る光は震えていたが、奥底には強い決意が宿る。

トンネル深部、防爆扉がこつ然と現れる。最新式の網膜認証ユニットが淡い緑のラインを走らせ、侵入者を嘲るように沈黙していた。玲は小型端末を接続し、システムチェックを0.8秒“だけ”停止させるバックドアを仕込む。「今だ」神代が低く告げ、灯を支えてスキャナに瞳を重ねた。認証ランプが緑から白に跳ね、重鋼の扉が地下深くへ沈むように開く。その音は闇の中で雷鳴のように反響した。

階段を下り切った瞬間、白いLEDが空調ダクトを照らし、嗅ぎ慣れない化学薬剤の匂いが鼻腔を刺す。突然、視界が白熱。投げ込まれた閃光弾が爆発し、三人の耳孔を轟音がえぐった。玲が悲鳴を上げ、奈々緒が咄嗟に灯の頭を抱え込む。青白い閃光の残滓の中、黒装束が雪崩込み、経産省公安チームの電磁銃が青い火花を散らす。神代は体を盾にし、拳銃を抜く。弾は非殺傷性のラバー弾だが、至近距離なら骨を砕く。乱戦。AIによって先読みされた彼らの動作は、敵の照準とほぼ同期していた。

「もうAIになんか従わない!」玲が叫ぶ。彼女は端末に非常停止コードを叩き込む。サーバールームの主幹電源バスが落ち、数千枚の冷却ファンが一斉に悲鳴をあげる。蛍光灯が連鎖的に暗転し、施設は漆黒へ沈んだ。闇の中、奈々緒のドローンだけが赤外線で天井を走り、敵の位置をマッピングする。神代はそのマップを頼りに、ラバー弾を足元へ撃ち込み、敵の体勢を崩す。玲は灯を抱え、ラックの影へ身を滑り込ませた。

停電は地上にも波及した。スマート信号網が同期を失い、都心の交差点で無人タクシーが互いに行き場を探して空転し始める。宅配ドローンは帰還ルートを失い、雨粒の中に次々墜落して火花を散らした。東京の夜景は闇と赤色灯のモザイク画へ変貌し、人々のSNSタイムラインは「ブラックアウト」の文字で埋め尽くされる。だがサーバールームの闇は、都市よりも濃い。

非常灯が赤く脈動し、天井の配線が血管のように浮かぶサーバールーム。焼けたブレーカーの匂いに甘い冷却液が混じり、空気は熱と霧で粘りつく。玲はラックの扉を開け、上段に鎮座する未完成のチップボードに手を伸ばした。YM08試作機。銅配線は蒸発し、基板は半分炭化している。それでも中核には、母・霧島真澄の設計した“Litany”のアルゴリズムが埋まっていた。

「Litanyは、市場の歪みを補正するAIだった。母は金融危機で家族が路頭に迷うのを防ぎたかった。でも皇征一郎は兵器化を選んだ。バックドアをつけ、戦争とマネーゲームの起爆剤にした。母は特許を奪われ、歴史から消えた。私は母の影でベータテストを続け、いつか正しい形に戻すと信じてた……」玲の言葉は、涙と一緒に地面へ落ちて蒸発した。

そのとき壁面モニターが勝手に明転し、画面は白ノイズに覆われた。低く変調された声が響く。「やあ、君たち——諸悪の根源、Mr.Kだ」。表示された映像はフードを被った影。顔にはモザイクがかかり、声はデジタルで歪められている。しかし神代は、その背後に立つ人影の所作、肩幅、癖のある首の傾け方に見覚えがあった。

「牧田……?」奈々緒が呟く。影は肯定も否定もしない。「私は死を偽装した。市場を操作し、皇の愛国という劇薬を暴露するために、君たちを導いた。リヴェンジ・トリガーを起動すれば、アークの全資産は瞬時に途上国救済ファンドへ移り、皇は経済的死刑を受ける。同時に、この国の産業基盤は崩壊し、数百万の雇用が消える。これが私の復讐であり、贖罪だ」

玲の端末にトリガー実行ボタンが出現した。指が震える。“実行”すれば皇を討てる。“保留”すれば母の遺志は宙づりのまま。非常灯は赤から橙へ移り、時間が硝子細工のように脆く煌めく。

神代はゆっくり口を開いた。「正義は復讐の計算式じゃない。どんな高度なアルゴリズムでも、人間の明日は計れない。失業した子どもを抱える親を、君は数式で救えるか?」奈々緒も続く。「告発は世界を壊すためじゃなく、変えるためにある。復讐だけじゃ、空虚よ」

玲は瞼を閉じ、耳の鼓動が海鳴りになるまで沈黙した。やがてそっとタッチパネルに触れる。“保留”——リヴェンジ・トリガーは凍結された。画面の影は輪郭を溶かし、ホワイトノイズへ崩れ落ちた。その残響は、誰かのすすり泣きにも似ていた。

夜明け前の霞が関。氷川怜士はデスクライトを消し、窓の外にひろがる薄桃色の空を見つめていた。国益を守る、その言葉に身を委ねた十年。だがその実態は、真実を隠蔽し力ある者を肥え太らせる装置だった。彼は辞表の封筒をデスクに置き、背広の胸ポケットから旧い家族写真を取り出す。微笑む妻と幼い息子。まだ何者にも染まらぬ未来を持っていた頃の自分。彼は深く息をつき、オフィスを後にした。

同じ日、皇征一郎は証券取引法違反と不正競争防止法違反の疑いで逮捕された。が、テレビは「国家プロジェクトの犠牲になった男」「サイバー戦争の盾」と見出しを踊らせ、ネットは英雄と悪魔のタグで議論を二分した。正義は平面的に割り切られ、アルゴリズムで可視化され、クリック数で価値を測られる——まさしく皇が望んだ世界だった。

新庄翼はシンガポール行き深夜便を予約し、チャンギ空港のゲートでラゲージを預ける。スーツケースの底には偽造パスポートと暗号通貨のコールドウォレット。背後から「しばらく、日本語を聞かなくて済む」と呟いた瞬間、冷たい金属音が鳴った。手錠の鎖。翼が振り向くと、神代創が立っていた。彼は黙って捜査令状を翳す。翼は苦笑し、わざと肩をすくめた。「正義も悪も広告案件だよ、昭和刑事さん」。言葉はガラス張りのターミナルに虚しく跳ね返り、誰の心も動かさなかった。

Mr.Kは完全にネットから姿を消す。ただ一通、玲の旧式メールクライアントに届いたテキスト。「君の選択が未来を作る」。玲は深夜のアパートでキーボードを叩き、LitanyのコードをGPLライセンスで世界へ公開する。監視でも破壊でもなく、再構築のためのオープンソース。コメント欄には世界各地の開発者たちが「Fork!」と叫び、リポジトリは一晩で星を埋め尽くした。

雨上がりの早朝四時半。東雲色の空が東京湾を照らし、雲間から差す光が高層ビルのガラスを黄金に染める。下町の木造二階家。神代創はレコードプレーヤーにマイルス・デイヴィス「カインド・オブ・ブルー」を載せ、カートリッジをそっと降ろした。スクラッチノイズが穏やかな焚き火のように弾け、トランペットの吐息がゆっくりと部屋を満たす。

窓を開けると、外気は濡れた鉄の匂いとパン屋の焼き立ての香り、遠くの保育園から聞こえる子どもの笑い声を運んできた。停電で停止していた地下鉄は始発運行を再開し、高架を走る車輪が低く唸る。都市はノイズと共に脈打ち、まるで巨大な生物が伸びをするかのように息を吹き返す。

テーブルには朝刊。大見出し——「ヤマト計画 再検証へ」。署名記事は笹川奈々緒。紙面の端には、革ジャケット姿の霧島玲がリモート会議でLitany改良版を説明する写真が小さく載る。背景モニターには世界各地の開発者サムネイル。笑顔も険しい顔も、スクリーンの中で同じ光に照らされていた。

神代は新聞を畳み、レコードの回転数を少し上げる。「AIがどれだけ世界を最適化しても、人間はノイズを抱えたままだ。そのノイズこそが、次の物語を連れてくる」。遠くで救急車のサイレン、近所の猫が塀を駆ける足音、粗雑なトランペットのブレス。それらが複層的に絡み合い、都市というジャズを奏でる。神代はグラスに注いだ冷めたコーヒーをひと口飲み、胸ポケットのカセットテープ「Noise」を撫でた。

彼はカーテンを揺らす風の中、ボリュームをほんの少し上げた。ターンテーブルの針が刻む音は、夜明けのざわめきと重なり、やがて溶け合う。次の事件は、もう足元で始まっている。彼はそう確信し、しかし奇妙な安堵を覚えた。ノイズがある限り、物語は終わらない。