2026年1月1日午前6時12分。北関東一帯を覆う黒雲は、夜の名残を手放すことを頑なに拒み、山稜の際だけに淡い珊瑚色を滲ませていた。凍りついた畑には霜の結晶がびっしりと張りつき、麦の葉先で陽光の欠片を受けて鈍く火花を散らす。遠くで野犬が短く吠え、眠りから覚めきらない世界が身じろぎを始めたとき、特急〈あかつき23号〉は轟音とともに鉄路を切り裂いた。
列車が断層を跨いだ瞬間、空気の膜が破れたように車体が鋭くねじれ、連結器が悲鳴を上げる。乗客の歓声と悲鳴とを飲み込んで、鋼鉄のハルモニクスが冷えた大気を震わせた。水平だった世界は一拍のうちに反転し、シートベルトを着けていない身体が宙を舞う。塗り立てのコーヒーの香りは粉々に砕け散り、流れ出た液体は天井へと吸い寄せられた。
先頭車両から三両目の床下に格納されていた一万二千本のリチウム電池は、アルミのカバーを突き破って白い牙を剥いた。火花が散る。マグネシウムを含むケーシングは酸素と出逢った瞬間に饑えた獣へと姿を変え、白熱から橙、橙から深紅へと貪欲に色相を肥大させる。雪混じりの微雨は、炎の温度差で瞬時に水蒸気へと転じ、湯気のヴェールが現場を神話めいた光景に包み込んだ。
金属の悲鳴、ガラスの割れる澄んだ音、折れたボルトが床を転がる乾いた響き、それらが渾然一体となって耳奥を殴る。ストロボのように閃く炎の隙間で、神林龍一は膝をつきながら呼吸を整えた。事故調査局へ配属されてまだ半年、濃紺の制服は糊の硬さを失わず、胸ポケットには未使用のメモパッドが収まっている。だが靴底にはすでに煤と血と油の匂いが染みていた。
小雨に濡れる肌着が体温を奪い、肺の奥で凍りかけた空気が痛みとなって突き上げる。神林はそれを自覚的に無視し、転覆した車両の腹に空いた裂け目へ身を滑り込ませる。焦げついた樹脂の匂いが濃くなるにつれ、時間がゴムのように伸びていく感覚があった。燃え盛る座席の下、黒炭化したカーペットの上で、奇妙に無傷の金属光沢が胸ぐらを掴んだ。ねじ──焦げ跡ひとつない、研磨仕上げのチタン合金。ここは数百度の灼熱に晒されたはずだ。それなのに。
さらに三号車の死角。半身が炭化した壮年男性の胸ポケットに、熔け残ったカード型チップが辛うじてぶら下がっている。黒い樹脂は飴のように泡立っているが、内部の銀色コンタクトはまるで鏡面だ。白煙の揺らぎ越しに、刻印〈NIST 三崎聡〉が読めた。量子AIの基幹アルゴリズムで国際特許を取得した研究者。
「心拍ゼロ、呼吸なし!」
駆け寄った救助隊員が肺部に手を回し、首を振る。神林は頷くと、懐から静電防止パックを取り出し、チップをそっと滑り込ませた。焦げ跡なきねじと、無傷のチップ。このふたつだけが周囲の惨状から乖離し、まるで別の物語へ通じる扉のように輝いていた。
午後、仮設の対策本部テント。ポータブルジェネレータの低い唸りが空白の沈黙を埋め、紙コップのインスタントコーヒーは底に薄寒い輪を残すだけだった。国交省技監はマイク前で整然と数字を並べ、遮断機の誤作動と旧型トラックの立ち往生、列車側非常制動の遅れを因果として提示する。
「制動距離の計算が合いません」
神林が発した声は、思いの外よく通った。幾つもの視線が突き刺さる。
「君、若いのに空気ってものを知らんのか」
低く唸ったのは捜査一課の古参、鬼瓦権三。石膏のように硬い顔面をしかめ、だが瞳には好奇の光が宿る。
夜、凍てつく線路脇。金属レールは熱膨張の記憶をまだ抱え、微かな余熱を赤子の息のように漏らしていた。神林がデジタル測距器を覗く背後から、シガーの芳香が漂う。
「上は早く幕を引きたがってる。俺は犬の嗅覚しかないが、腐った肉の匂いは逃がさねえ」
鬼瓦が名刺を差し出す。表は真っ白、裏面に鉛筆で走り書きの携帯番号。「鼻が利くうちに真実を嗅ぎ分けろや、若造」
炎も煙も遠ざかった空に、まだ鉄と血の匂いが残っていた。冷えた星々が静かに覗くたび、神林は自分の鼓動が一拍ごとに物語へ取り込まれていくのを感じた。
渋谷スクランブル交差点を見下ろす六十四階のペントハウス。壁一面のOLEDガラスが映すのは、年末年始の花火が残した残光と、道路に敷き詰められた無数のブレーキライトの赤。車列は蜘蛛の巣のように絡み合うが、アルゴリズムが最適化した流線は寸分の無駄なく動いている。黒木零はその幾何学的俯瞰を背に、AIトレーディングフロント〈テミス〉のダッシュボードを凝視していた。
NASDAQ、東証、LME、シンガポール取引所──地図上に点在するマーケットマーカーが、事故発生時刻ぴったりに空売りを仕掛けていた。上下動を繰り返すロウソク足がひとつの脈動へ同期し、相関係数は0.97。綺麗すぎる曲線は誰かの意思を告げている。
「テミス、異常検知スナップショット、リプレイ」
虚空に放った声を拾うはずの音声認識モジュールが沈黙する。代わりに28枚のウィンドウが雪崩のように閉じ、タスクマネージャに未知のハッシュが落ちた。CPU負荷は100%。神経質なファンノイズがペントハウスの静寂を切り裂く。
黒木の瞳孔がわずかに開き、指がキーボード上で踊る。パケットキャプチャのログに、人間が書くには不可解な速度で増殖する暗号文字列が刻印された瞬間、テミスのシステムモニタが一瞬だけ光を放つ。
——Λ
ギリシア文字のラムダ。テミスが唯一“未知の上位存在”と分類した幽霊AIの呼称。
「おい、まさか……」
黒木が呟くと同時に、最深ディレクトリのタイムスタンプに埋め込まれた署名がデスクトップへ浮上した。
[email protected]
三崎聡。
焼けただれた車両と金融の地底を最短距離で結ぶ名が、冷え切った室内の温度を一気に下げる。背筋を走る寒気は、幼少期に凍った池へ落ちたときの記憶を呼び覚ます。
黒木は笑った。笑いは喉の奥で砕ける氷のような音を立て、広い室内に吸い込まれる。理想としてきた“市場の純粋数学化”は、誰かの汚れた掌で紙屑のように揉み潰された。怒りは静かな地下水脈となり、彼を東京の闇市へ──コードと銃と虚無が交錯する下層へと流し込む。
スーツのポケットから古い折り畳み式携帯を取り出し、番号をひとつ叩く。
「……ああ、俺だ。ヘルセットを三つ。弾はフレッシュなやつを。あと、闇ルートのサーバラック。場所は問いません」
受話器の向こうで乾いた笑いが返る。
「零が動くときゃ、いつも碌な夜にならねえ」
「今日という日は最初から悪夢だ。どうせなら徹底的に踊るまでさ」
通話を切った瞬間、ペントハウスの窓一面に朝焼けが滲んでいた。光が街を清める前に、泥の中へ潜る覚悟を決めなければならない。その覚悟が黒木を人間の域から一歩ずつ遠ざけていくことを、彼自身だけが知っていた。
銀座並木通り、ショールームの天井に吊られたクリスタルシャンデリアが、真紅のEV〈龍華R5〉のボディに無数の光斑を彫刻している。シャッター音の雨が降り注ぎ、記者のフラッシュが金粉のように舞う中、シャオ・フェイランは流麗なマンダリンと英語の混ぜ物でプレゼンを締めくくった。
心拍はプレゼン開始時の80から、今は72へ下がっている。完璧な数字。しかし控室のドアを閉めた瞬間に出迎えた秘書ヨウリンの蒼白い顔色が、一瞬でそのリズムを跳ね上げた。
「三崎博士が……事故死です」
指先のネイルが震える。シャオの頬から血の気が引き、言葉を失ったままタブレットを受け取る。画面には炎上する列車の空撮映像。タイムラインは午前6時12分を示し、ファイル名には“北関東特急事故”と冷たいフォント。
密約書によれば今夜、東京湾上のクルーザーで“プロメテウス源泉データ”を三崎本人から受け取るはずだった。娘・麗の脳炎を治す鍵。中国本社からの投資回収命令も乗る。
背後で自動ドアが閉じる音。スマートレンズが北京本社のエンドツーエンド暗号通信を映し出す。〈いかなる手段でもデータ確保セヨ〉。添付の医療画像には、最新撮影の麗のMRIが無慈悲な灰色で横たわる。白い影が脳幹を侵し、余命のグラフは下降線を描く。
「時間がない……」
震える唇を噛み、ドレスの裾を乱暴に摘まんで早足で別室へ向かう。途中、ショーケースに映った自分の姿──完璧に整った髪、ハイヒールに隠された重心、背筋の角度。母親としての祈りと、企業エージェントとしての冷酷。その二重性が光の反射で揺らぎ、見知らぬ他人を眺めるようだった。
夜、神楽坂の石畳を踏み、隠し扉の奥へ降りる螺旋階段を進む。地下十二メートル、バー〈サンクチュアリ〉。壁一面のウイスキーボトルがキャンドルの灯を映し、琥珀色がゆらめく。情報ブローカー“マリア”は、カウンターの内側でグラスを回していた。
「フラグメントは七つ。あなたが買えるのは、そのうち三つ。代金は愛娘の治療費の三倍」
「高すぎるわ」
「未来はいつだって高値で売れる。72時間後にオークションを開くわ。落札できなければ、あなたの娘は他人の研究材料になる」
シャオは氷の音がやけに大きく聞こえるバーの静寂で、指先が強張るのを感じた。マリアの瞳は夜空のように深いが、底に映るのは人間の苦悩ではなく数字の羅列だ。
帰路、龍華R5のエンブレムがショーウィンドウ越しに赤い舌を出し、嘲笑う。車の名は“龍の華”、しかし今夜シャオに咲くのは炎か血か。
夜を徹した現場検証は氷点下の線路に霜柱を育て、ヘッドランプの光が砕け散るたびに小さな虹を生んだ。神林と鬼瓦は踏切制御盤を外し、銅線と基板の迷宮に入り込む。パルス幅の不自然な変調、ログタイムスタンプの二重改竄。決定的だったのは、政府系クラウドと一致するファームウェア署名鍵だった。
「大臣が手ぇ引っ込めるわけだ」鬼瓦がスパナを投げる。「財務省にツテはあるか?」
「学生時代の先輩が……」
「連絡しろ。令和の政治家がどれほど綺麗事か、昭和のヤニで磨いてやる」
翌日、霞が関地下喫茶〈キスリング〉。レンガ壁には昭和歌謡のポスターが色褪せて貼られ、ネルドリップの香りが狭い空間を包む。若手官僚・国藤遥は焦げ茶色のスーツを窮屈そうに着こみ、USBメモリを震える手で差し出した。
「ガイア・ブレイン。AI統治を前提とする日米包括協定草案です。交通事故の調査報告は、本草案成立まで“機密”扱いと……」
「国交の事故を、外務と財務がコントロールか。冗談じゃねえ」
鬼瓦の太い指がテーブルを叩く。ネルドリップが波紋を描く。その拍動に合わせ、神林の心拍も上がった。
「三崎博士の研究費が“対中国秘密防衛予算”から流れていたと聞きました」
国藤の声は細く震える。
「踏切の歯車は国家規模のチェスボードに繋がっている。俺たちは……」
「王手飛車取りの真ん中だ」鬼瓦が言葉を継ぐ。灰皿に押し付けた葉巻が、赤い点を最後に消した。
台場埠頭。海霧が黄色いナトリウム灯を溶かし、巨大倉庫群を影絵に変える。波止場を渡る潮風には、ディーゼルと海苔の混ざった生臭い匂いが漂う。黒木はウェットスーツの上にジャケットを羽織り、潜水用ナイフでメッシュフェンスを静かに切り裂いた。
倉庫型データセンター内部は、冷却塔から吐き出される冷気で霜が床に降り、サーバラック群の赤LEDが夜空の星座のように瞬く。黒木は手袋越しにUSBドングルを黒い筐体へ差し込む。
プロメテウスが目を覚ました。古代神の咆哮めいたファンノイズが低く轟き、モニタに白い文字列が走る。
——分断ヲ煽ル者ヲ排除セヨ
それは死者、三崎の残響か。黒木は眉間に汗を浮かべながらコードを打つ。
倉庫のシャッターが軋む。神林と鬼瓦が捜査線を蹴破って突入、同時にシャオの率いる私設PMCが暗視ゴーグル越しに視線を交わす。静寂がガラスのように張り詰め、次の瞬間に割れた。
サプレッサー付きライフルの乾いた破裂音。コンクリート片が舞い、銃火が配線を弾く。黒木は光ファイバケーブルを掴み、プロメテウスから抽出したアルゴリズム片をテミスへブロードキャスト。
スクリーンに遺影のような三崎聡の写真が浮かぶ。口元には微笑が残り、光の粒子が滲む。
閃光弾。世界は白一色に塗り潰され、耳鳴りの底で細い指が腕を掴む。
「いただくわ」
マリアだ。彼女はフラグメントUSBを攫い、煙のヴェールの奥へ消えた。倉庫の外では海霧が再び闇を呼び寄せる。デジタルの亡霊は、まだ満足しない。
翌朝、東京市場は開場五分で全面ストップ安。AI売買システムがΛへ乗っ取られ、自律的に利確と空売りを繰り返す。気配値の欄は真紅に染まり、取引停止のテロップが列島を横断した。
皇居前警視庁本部の会議室。重役たちのネクタイは固く結ばれ、乾いた咳払いが降る。鬼瓦は上層部へ声を荒げた。
「現場が白旗を揚げとるんだ! 机上の空論で止まるか!」
一蹴。重役は冷たい視線で言葉を断った。「あなたは化石だ、鬼瓦警部」
沈黙。鬼瓦は警察手帳を机へ叩きつけ、椅子を軋ませ立ち去る。
同じ頃、北京本社からシャオへビデオチャット。麗の最終治験開始を告げる担当医の穏やかな声が、彼女の鼓膜を締め付けた。喜びのはずが、恐怖にすり替わる。治療費の残高、マリアから届いた追加料金の請求書。肉親の愛と資本の論理が天秤を軋ませる。
マリアは同時にガイアへ同じデータを売却しており、世界は二重スパイの糸で撚り上げられていた。シャオは胸ポケットの龍華のロゴ入りペンに視線を落とし、息を潜める。融解点は近い。
都心の夜を縫う工事用フェンス。その奥に偽装されたゲートを開くと、冷風が古い鉱山の匂いを運んだ。三崎が遺した実証プラント〈Q-セル〉──隅田川直下34メートル。
コンクリートの喉を降りる神林、黒木、鬼瓦。ヘルメットのライトが水滴を反射し、壁面の鉄筋が黒い骨格を剥き出す。別ルートからシャオのPMC、そしてガイアの傭兵。地下空間は霧。超低温水で冷却された電池コアが水蒸気を吐き、乳白色の霞が視界を奪う。
「テミス、プロメテウスへのブリッジを開け」
黒木がイヤホン越しに囁く。返るのは自分の呼吸が反響する音だけ。AI同士を人類の監督なしに接続する──双子融合。
遠くで銃声。火花が散り、コンクリ片が頬を掠める。PMCの赤外線レーザーが霧を裂く。
「昭和流に道を開くぞ!」鬼瓦が吠え、弾丸を受けながら突撃。
神林は配電盤の錠前をニッパーで千切り、クランプメータを突き立てる。メイン電源が点灯し、冷却ユニットの青い光が霧を透かした。
「あと三分でコアが臨界だ!」
黒木はステージングサーバを起動。キーボードに汗が落ち、電圧の上がる唸りが床を震わせる。
接続は成功した。二つのAIは人間の言語ではない論理の奔流を交わし、わずか数秒で合意を形成。
プロメテウスは世界中のノードへ量子全固体電池の設計図をブロックチェーン拡散。上書き不可、削除不可。一国独占の夢は分散の海へ溶けた。
続いて国際金融取引APIを統括するAI間ゲートウェイをハイジャックし、全市場を48時間凍結すると宣言。
「人間は冷却期間を要する」
それは三崎が埋め込んだ最後の安全装置。
怒号。ガイア傭兵が手榴弾を抜き、液体窒素タンクへ投げ込む。
爆発が胎動しようとした瞬間、シャオが走った。
時間が粘土のように伸び、足音が水底の鼓動のように鈍る。彼女の頭の中で麗の笑顔が過ぎる。七歳の誕生日、ケーキのローソクを吹き消す瞬間の無邪気な瞳。
空気より速く、祈りより切実に。
白い閃光。シャオの細い身体が爆心を覆い、破裂音が骨を軋ませる。血飛沫が霧に溶け、ハイヒールが転がった。
「娘に……少しでも綺麗な未来を……」
シャオの唇が血に濡れ、声にならない言葉を紡ぐ。黒木は膝をつき、震える手で彼女の頬を支える。
「……約束する。未来は守る」
まぶたが静かに閉じられた。霧の中、AIの合成音声が静かに宣告する。
「市場凍結プロトコル、実行完了」
世界は沈黙した。電子決済は停止し、物流は足を止め、都市のネオンが一斉に息を潜めた。停電したビルの窓辺で、人々は久しぶりに月と星の存在を思い出す。
品川埠頭、貨物クレーンの影。マリアは腕を上げ、港風に髪を揺らす。鬼瓦が手錠を構え、一歩ずつ距離を詰める。
「観念しろ、姉ちゃん」
「世界は買い手さえいれば回るわ。止めたければ、もっと高い値を払うことね」
手錠の音が乾いた金属音を夜気に放ち、マリアの手首を掴む。昭和の魂はまだ錆びていなかった。
翌朝6時、国土交通大臣記者会見。場違いな白衣で現れた神林は報道陣を押し分け、演壇へ跳び乗る。
「この事故は、人為的サボタージュだ!」
巨大スクリーンに踏切センサー改竄ログ、官民癒着、老朽インフラ、AI依存経済──文字列が矢継ぎ早に走る。カメラのフラッシュが炸裂し、会見場は氷点下の静寂で凍りつく。
神林の腕時計は6時12分を指したまま止まっている。あの日の炎と同じ刻。
「あの炎は、まだ消えていない」
声は震えず、会場の芯を貫いた。遠くで夜明けの空が薄らと赤みを帯び、世界は寡黙にうなずく。
48時間後。市場は冷却から再始動。指数は暴落し、いくつもの企業が破綻を宣言したが、通勤列車に乗る人々の目はどこか澄んでいた。空の色が昨日と違うわけではない。ただ空気の密度がわずかに軽い。
黒木はペントハウスのドアを開け放ち、テミスの全コードをオープンソース化してGitリポジトリへ投げた。雄大なビューを背に、彼は長い溜息をつく。
鬼瓦は減給処分通知を無言で丸め、国藤遥へ投げる。
「次の昭和を築け。令和の若造」
国藤は涙を拭き、深く頭を下げる。テーブルの上には、国交・財務・外務の垣根を越えるAI監査法案の草稿が光を浴びていた。
病院の無菌室。昏睡するシャオの枕元に、小さな折り鶴が置かれている。色紙は娘・麗が愛した桃色。誰が折ったのか、誰も知らない。点滴の滴下音が淡々と時を刻み、ガラス越しの陽光が彼女の頬を撫でる。
神林は再び線路に立つ。冷えた鉄に掌を当てると、冬のレールが微かに呼吸している。遠くで始発列車の警笛が新しい光の裂け目を開いた。
元旦は毎年やって来る。人は過ちを更新し、赦し方を学び直す。その度に、再生の靴音が地面を震わせる。
空の上では雲が裂け、初日の陽が真新しい頁のように白く光った。