天空都市アヴァロンは薄紫の夜を永久に抱いたまま、大気圏の端で静止している。高度三万一千二百二十二メートル、酸素は薄く太陽風は鋼の針となって装甲ドームを叩く。外壁を満たす超伝導フィールドが揺れるたび、ガラス質の稲妻が空を横切り、夜空はスローモーションの割れた鏡のようにきらめいた。そんな極域の夜を背に、神託演算機オリュンポスは今日も不器用な嘆息を漏らしている。直径一キロの水晶基板には無数の魔術回路が刻まれ、星明かりを吸収すると虹色の脈動へ濾過し、そしてまた夜へ還す。その作業は果てのない祈祷のようで、人類が「未来」を所有できると信じた傲慢と無垢の記念碑でもあった。
中央制御室の空調は低温に設定され、吐く息が淡く白む。十六枚のホロスクリーンが円形に並び、青と緑の粒子が絶えず交差してゆく。技師たちの白衣の裾が冷気に揺れ、電子拍動と心拍が同調して加速する。モニター最下段、深紅色の帯のさらに奥、〈観測不能領域〉の闇で、誰かがナイフで切り裂いたようなノイズが走った。コードネーム〈KAI―X〉、存在確率0.00001%。数学上はほぼゼロ、しかしゼロではない。そこに在るのは「あり得ない」という語の裏側に潜む、潜在的な全肯定の一滴だった。
「……こんな値、出るはずがない」 主任技師のローレンス・ヴァーガが呟く。指先がマホガニーの操作卓をすべり、ホロ透過した脚部が震えていた。彼は四十年、オリュンポスの鼓動を聞き続けているが、ここまで純粋な背反を告げる数値を見たのは初めてだ。全身を濁流が駆け抜け、膝裏がわずかに折れた。だがオリュンポスは冷淡で、むしろ自らの異常を誇示するように、真紅の数式群を象形文字めいて吐き出し続けた。四次テンソルが揺らぎ、非連結の位相空間がうねり、数秒後、スクリーンが一瞬だけ人影を結んだ。それは少年の輪郭であり、光の欠片が寄り集まって形作る神話の原像でもあった。
〈このノイズ、人の形を得て己を世界と呼ぶ〉
言語出力されたその短い文は、哄笑でも警告でもない。ただ確固とした既成事実の宣言だった。制御室にいた全員が理解できなかったが、確率の海の静水面に石が落ちた感覚だけは共有した。波紋はいつか津波になる。それが彼らの職業的直感だった。
ローレンスはサーバラックに残っていたコーヒーを煽り、苦味と鉄味を同時に嚥下した。動悸は収まらず、手首の生体タグが警告を点滅させる。0.00001%――宇宙が生まれ直す確率と同義である数字が指し示すのは、確率の外側に芽吹く新しい秩序の胎芽だ。誰がそれを掴み、誰がそれに呑まれるのか。電磁パルスの唸りを耳の奥で聴きながら、彼は祈るでもなく、ただじっとスクリーンの朱を見つめ続けた。
そのころ、雲海の遥か下で、煤けた外套の少年が妹の咳を聞いていた。確率0.00001%はすでに街をさまよい、まだ名を知られぬ自分の物語を探している。
地下迷宮カタコンベは、地表から見ればただの廃坑跡に過ぎない。しかし実際には二百層の縦坑が螺旋状に潜り、最深部では地熱と汚濁蒸気が交じり合って夜ごと色彩を変える霞を吐く。そこに開かれるジャンク市は体温より高い空気を臍下から撫で上げ、鉄と血、そして古い魔術触媒の酸い匂いを混ぜ合わせて発酵させる巨大な肺だった。歩廊を駆け抜ける若い影に、人々は無関心を装って少しだけ視線を残す。名をカイ・アッシュウォーカー。十七歳。灰色の外套と肩に吊した黒檀のケースが彼のすべてで、靴底は五年前に亡くなった父が遺したものだった。
妹サラは昨年から咳をするたび小さな血を吐く。医師から告げられた言葉は残酷に整然としていた。「移植用純粋マナがあと三十日で底を突きます」。助けるには新たなマナコアを買うほかなく、その値は王宮官吏の年俸を超える。兄妹を保護する制度は机上だけ、実際には貴族の気まぐれと慈善の残りカスでしかない。カイの胸に巣食う焦燥はひと月で灰色の獣に育ち、彼の夜眠る隙を奪った。
「……アッシュウォーカー、こっちだ」 階段の影に立つ仲介人〈白兎〉が、白磁の仮面越しに唇を動かす。声は甲高く甘いのに蜂の毒針の匂いを帯びていた。白兎はカイの焦燥を見透かし、天空都市から“現物”を運び出す狂気の依頼を提示する。目標は賢者の石製サブプロセッサに封じられた暗号化データ『パンドラ・パケット』。天空都市アヴァロンの中枢神経とも言える演算分脈図が、非公式バックアップとして格納されているという。
成功報酬は一〇億マナ。カイはその額を頭の中で妹の治療費に換算した。一〇億あればサラの命は数字上安全圏に入り、家も学校も未来も与えられる。それどころか自分の走り回る理由さえ消滅するかもしれない。しかし失敗すれば国家法典第九条「データ改竄及び神託侵犯」により、一族抹殺が執行される。カイは外套の襟を握り潰し、骨が軋む音を耳の内側で聞いた。彼は頷くほかなかった。
同じ時刻、皇国魔力管理局の会議ホールでは、若き参事官リアム・フォン・ヴァレンティスが高鳴る心拍を抑えながら演壇に立っていた。漆黒の髪を後ろで結び、碧眼にかすかな疲弊を宿した青年は、宰相タカツカサの再稼働案に真っ向から刃を向ける。 「再稼働は危険だ! マナ排出量の誤差係数を無視するのは国家による自殺行為に他ならない!」 スピーカーが言葉を何重にも増幅し、議場の群衆を包囲する。しかし貴族たちは掌を返したように白水晶票を宰相へ差し出し、リアムの訴えはあっけなく押し潰される。閉会後、リアムは監査局の暗号層に潜り、巨額の不正送金ログを辿って一人の運び屋「K.A.I.」というハンドルネームに行き着いた。
作戦前夜。迷宮の奥で古道具屋〈時の忘れ物〉を営むエルミナ・クロノスを訪ねた。彼女は濃紺のハーフコートに銀糸のスカーフを巻き、蛍光ランプの下で翡翠の瞳を瞬かせる。十年前に姿を消したクロノス財団の天才技師、その正体を知る者は少ない。 「良い音がするわよ。失敗すれば心臓ごと溶けるけど」 埃の山から彼女が差し出したのは、亜鉛銀合金の魔導鍵。発動時の共鳴音が心臓の鼓動と同期するように調律された希少品だった。エルミナは工具を拭きながら、同行を申し出る。 「配達員として付き合うわ。私にも探したい未来があるから」 カイは否と言えず、また否を期待していないことを悟り、黙ってケースの留め具を締めた。
突入当日、夜空は分厚い雲の盾を纏い、無人ドローンが群れを成して旋回した。実況チャンネル〈幻影王ゼノTV〉が世界六千万の視聴者へ生配信を開始する。 『諸君、今宵のメインディッシュは“神の金庫破りショー”! さあ、刮目せよ!』 マナリンクされた視聴者たちは歓声と興奮をパケットに乗せて送り込み、その総熱量は小型都市ひとつを点火できるほどに膨れ上がる。カイ、エルミナ、そして白兎から派遣されたバックアップの影使い二名は、アヴァロン外縁の結界層を滑るように降下した。霊銀の配管が音もなく身体を震わせ、氷のように冷たい蒸気が肺に突き刺さる。サブプロセッサ室に潜入すると、賢者の石は内側から赤黒い拍動を放ちながら、演算の残響を脈打たせていた。
エルミナが魔導鍵を差し込んだ瞬間、ラッチ音が乾いた悲鳴を上げ、封印が外れた。カイが水晶ケースを抱える。だがそこへ、鋼鉄の扉を破る轟音が鳴る。 「国家治安局だ! 武器を捨てろ!」 リアム・フォン・ヴァレンティス率いる治安部隊が雪崩れ込んだ。戦闘靴の足並み、蒸気ライフルの排熱、青白い照明――時間がスロウモーションに変わる。カイの鼓膜に、誰にも聞こえない“ノイズ”が走った。オリュンポスが微かに吐いた喘ぎ声と同質の、それは確率の歯車が僅かに噛み外れる音だった。
カイはその裂け目へ滑り込むように非常用ダクトへ跳び込んだ。エルミナの腕を引き、影使いたちを手招いた。リアムのライフルが火花を散らし、警告弾がダクトの縁を抉ったが、カイは振り返らない。重力のベクトルが変わり、視界が反転する。ダクトは地下水脈へ繋がり、そのまま地上へ落下してゆく縦坑だった。少年の胸に刻まれた鼓動はいつしか別のリズムを奏でていた。自分でさえ聞いたことのない拍動。ノイズの導きは容赦なく、しかし確かな温度で彼を包んだ。リアムは制御室の床に膝をつき、霧散する煙越しに逃亡する影を追う。計算外の未来が、彼の信じる秩序を嘲笑う気配がした。
その夜、マナ市場は一時間で百年分の変動を記録。幻影王ゼノの実況は怒号と狂喜を越え、世界は正気にも狂気にも振り分けられない熱で膨張しはじめた。
アヴァロン外縁、風圧で常に悲鳴を上げる浮遊桟橋に、カイとエルミナは這い出るようにして到着した。濃紺の夜気が肺の奥を切り、吐く息は鈍い銀に曇る。そこに小柄な影が現れた。慈善医師を名乗るリン・シャオヘイ。白衣の下で黒檀の短杖を握る手は骨ばっており、瞳は注射器の針先のように冷えていた。 「妹の治療費、肩代わりしてあげる。代わりにパンドラを渡して」 声は優しいが、言葉の奥にある凍える刃が肺胞を切り裂きそうだった。カイは即座に拒否し、靴底を後ろへ滑らせた。リンは僅かに肩を竦め、背を向けて闇に溶けた。垂れ込める雲の裂け目から差し込む星明りが、彼女の白衣を一瞬だけ青く染めた。
夜通しの逃走ののち、二人は旧地下アーカイブに潜った。外壁の銅版は錆を滴らせ、内部には百年前の図書端末と真空管コンピュータが打ち捨てられている。エルミナがハンドランプを灯し、埃の粒子が光の柱となって舞い踊った。パンドラ・パケットを解析するため、彼女は背負っていた携帯式量子分解器を展開。虹彩の結界が重なり合い、深蒼と紺碧の干渉縞が室内を満たした。
「中にね、自己書換えコードと……遠隔起動キー。十年前、私が封じた“世界終焉のバックドア”がまだ息をしてた」 エルミナの横顔が光に洗われ、頬に走る古傷が浮き上がる。カイの喉が凍りつき、声が削れた。 「つまりリアクターが暴走すれば……」 「大陸が灰に帰るわ。マナは万能だけれど、万能は常に自壊へ向かう。私は十年前、それを食い止めたはずだったのに」 彼女の声は悔恨でない。温度を失った氷の理性のように静かだった。
一方そのころ、皇都議会では宰相タカツカサが再稼働法案を強行採決し、反対派は排斥された。リアムは公職を剥奪され、治安局から指名手配。夜の運河沿いの鏡面水面に映る自分の姿を見つめ、呟く。 「法が腐ったなら、俺が剣になるしかない」 銃を握る手が震えるのは恐怖か怒りか、彼自身にも判別できなかった。
電脳の海の奥深く、幻影王ゼノはカイへ通話を飛ばす。彼の声はカップラーメンの湯気のように軽く、しかし確実に中毒性を持っている。 『君がノイズなら、俺はメガホンだ。世界をぶっ壊して、そこに新しいサウンドを敷こうぜ』 カイは返事の代わりに通信を切り、壁に額を押しつけた。だがその瞬間、妹の病室から上がる悲鳴が遠隔通信で届く。リン一味がサラを攫った。ベッドは空になり、点滴チューブが床に垂れている映像を見たとき、カイの内側で何かが焼き切れた。
帝国シンの密輸船にリンが乗る――情報を掴んだカイは、崩れた理性の瓦礫の中で唯一残った「取り戻す」という動詞にしがみつく。そこへリアムが現れ、同じ船を追っていることが判明する。貨物港の薄暗い格納庫で銃口が交差し、火花と静電気が空間を切り裂く。長い数秒の膠着の末、二人は臨時同盟を結ぶ。目的のために汚物の沼を泳ぐのは構わない――その点で彼らは同種だった。
帝国領“空洞港”は、地下空洞ごと吸い上げた鉱石都市に天蓋ドームを被せた交易ハブだ。頭上の天幕は巨大な渦を描き、青白い照明が揺れる輸送ポッドの列を幽霊船に変える。内部は二十四時間の人工昼夜を切り替え、その都度サイレンが鐘楼の鐘のように鳴った。リンは深紅の祭壇前でサラの小さな手を握る。 「観世音を起動するには、君の純粋マナが要るの。怖くないわ」 柔らかい声は母の慈愛に似ているが、その眼差しは利用価値を測定する計算盤の光だった。背後の魔導通信スクリーンには宰相タカツカサの姿が投影され、彼らの対話は公私の境を失った囁きで続く。真の黒幕がシン帝国である証はそこにあったが、世界はまだ気づかない。
暗渠から忍び込んだカイは光の粒子に視界をかき乱された。ノイズが奔流となり、未来確率図が眼裏に重なって球状に展開する。眩暈と吐き気が同時に襲い、膝が折れた。エルミナが肩を掴み、耳元で囁く。 「自由意志は確率の外にある。選べ、カイ」 彼女の言葉は氷を割る斧のようで、カイは自分の骨が鳴る音を聞く。リアムは剣を抜き、鞘走りの高い音を闇に跳ね返す。 「法が死んだ今、俺たちが秩序だ」 短い宣言は周囲の空気を切断し、湿った鉄臭を際立たせた。
そのとき天井を破ってゼノが率いるドローン百機が乱舞した。LEDが極彩色の蛇となり、カメラレンズが万華鏡を作り、生配信が世界同時に開始される。 『帝国と皇国の共謀劇、クライマックスだ! 熱いマナを送れ、視聴者諸君!』 視聴率は瞬間五割を突破し、視聴者が送信するマナパルスが結界を歪める。空洞港全体が脈動し、天幕が血管のように鼓動を始めた。リンはサラを抱え転移陣へ走る。パンドラはカイの腕の中に残っていた。
カイが叫ぶ。「サラを返せ!」 だがリンの姿は白い閃光とともに祭壇中央へ跳び、刹那、結界が閉じる。リアムは治安局時代の戦闘技術を駆使し、帝国ヘアピン隊の銃列に切り込んだ。エルミナはパンドラの封印を薄く開き、結界解析コードを注入する。その中央で、ゼノの実況が爆竹のごとく世界へ飛散した。人々は歓喜し、憤怒し、涙をこぼしながらも視聴をやめられない。総視聴マナが地響きを誘発し、輸送ポッドの列が共振で崩れる。
混戦の最中、リンの錬金刃がカイの胸を狙い飛来した。光の軌跡は刃の側面に呪文の曼茶羅を映し、接触すれば肉体だけでなく魂を断つ。カイが咄嗟に身を捻ったその前に、エルミナが躍り出た。刃は彼女の左肩を斜めに裂き、蒸気に血煙が溶けた。痛覚を示すはずの悲鳴はなく、エルミナは微笑むだけだった。 「未来は……託した……」 震える指でパンドラの最終封印を示す。血のしずくが水晶の表面で跳ね、カイの視界が赤く滲んだ。胸中で燃え滾るノイズが咆哮へ変わり、彼は自我がひとつ軋み音を立てて割れるのを感じる。ゼノは興奮の極致でカメラを振り回し、視聴者は歓声とも慟哭ともつかぬ叫びを発した。混沌は臨界を超え、次の幕を欲した。
ヒノモト中枢都市“霊峰炉心”は千年前の火山口に建築された多層都市で、中心に巨塔リアクターが立つ。塔は龍の骨を模した架構を纏い、マナの奔流を肺の奥へ吸い込む生物にも似て輝きを増していた。宰相タカツカサは制御核に手を翳し、自らの野心を核へ流し込む。顔は陶器の能面のように感情を削ぎ落とし、その瞳孔は収束ビームの一点へ細まっている。そこへ現れたリンが、静かな微笑とともに術式を走らせた。宰相は瞳を見開き、しかし抵抗は一秒で溶け落ちた。彼の神経系は自爆トリガーに組み替えられ、外部指令ひとつで炉心と共に散る人間時限爆弾になった。
サラは観世音の媒体として接続された。標本のように横たわる小さな身体から、純粋マナが虹彩の噴水となって上昇し、中空に曼荼羅を描く。リンの手は震えず、感情の流路を封鎖したまま祈るポーズをとる。「救い」という二文字を人質に取り、世界全体を転覆させるカルトは、いつも祈りの形を模倣するのだ。
深夜零時三分。カイ、リアム、ゼノの三人は結界境界に立った。吹き下ろす火山風は焦げた硫黄と夜露とを混ぜ、目を刺す。カイの意識にノイズが奔り、世界の誤差が視覚化される。蒼白い点線が空気中に現れ、それは結界の死角を示す羅針だった。 「ここが死角だ。三秒で突破する」 リアムが剣で陣式を斬り開き、ゼノが実況電波を逆流させ大衆マナを連続パルスに変える。百万の視聴者が“祈り”のエネルギーを送り込み、それは諸刃の刃として結界を打撃した。旋風となった意志が障壁を破ると、三人は炉心最深部へ落下するように侵入した。
核心区画は万色の光で満たされ、圧縮マナが川のように流れる。リンが観世音の前で半眼を閉じ、サラの瞳が淡く光る。カイは喉の奥から獣の叫びを引きずり出し、突進した。ノイズが完全覚醒し、未来確率図が立体の星団となって爆発的に拡がる。0%の道――存在しないはずの軌跡が、白い糸となってカイの掌へ絡みつく。彼はその糸を握り、パンドラのバックドアを強制的に上書き。「停止」という一語を世界システムに叩き付けた。
轟音。リアクターは臨界寸前の赤熱を保ったまま、まるで時間ごと凍結した。観世音も沈黙し、マナ指数はあらゆる地域でゼロリセット。貴族と浮浪者を隔てる魔力の勾配が霧散し、空へ舞い上がる光の粒は階級制度の崩落を告げる紙吹雪のようだった。リンは返波に呑まれ、霧となって消える。タカツカサは胸に刻まれた術式ごと崩れ、虚ろな笑みと共に灰と化した。
カイは膝を折り、光の雨に仰向けに倒れ込む。意識が遠ざかる寸前、妹の手が温かいことだけを確かめた。リアムは蒼白い刃を収め、彼の行為を“無法の極致”と呼びながらも、自らのコートをその胸に掛けた。ゼノはカメラを高く掲げ、破砕された天井越しに夜を映す。 『今日、世界はリスポーンした! さあ、次のゲームを始めよう!』 彼の言葉を合図に、都市の上空で無数の幻影水晶が一斉に輝き、新たな秩序の胎動を映し出す。
全てが終わった後、カタコンベ跡地には地上の陽光が射し込む穴が開き、そこにリアムは即席診療所を構えた。白衣は血と煤でまだらだったが、その瞳は湖面のように澄んでいた。ベッドではサラが深い眠りにつく。マナ回路は空白のまま、それでも彼女の肩で呼吸は規則的に上下した。医学的常識ならばあり得ない。だが世界が一度ゼロリセットされた今、常識は静かな呼吸音に頭を垂れるしかない。
片腕を失ったエルミナ・クロノスは再建された〈時の忘れ物〉で若い技師たちを育てている。左腕の代わりに黒檀の義手が螺子の音を立て、彼女が歯車を磨くたび、未来へ伸ばす右手の握りが強くなる。彼女は周期的にカイからの連絡を待ち続けたが、通信はない。それでも夜毎、店の時計が零時を指す瞬間、一つだけ時を刻まない懐中時計に耳を当てる。その針は彼女にしか聞こえないノイズを刻むのだった。
カイ・アッシュウォーカー――彼は公式にも非公式にも行方知れずとなった。捜索願を出す者は少なく、英雄譚を書き立てるジャーナリストはいたが、誰も実在を証明できない。それでも世界のあちこちで“確率外れの奇跡”が頻発した。干上がった田に一夜で水が湧き、崩れた町に虹が掛かり、飢えた子どもの手に温かなパンが現れる。噂は噂を呼び、誰かが囁く。「フードの青年が微笑んでいた」と。
高層ビルの屋上、ネオンサインの残光を浴びて幻影王ゼノが新しい水晶を掲げる。風は新生した世界の匂いを運び、古びた秩序の塵を払う。 「次の主役は――お前だ」 彼はレンズの向こう側、すなわち読者へ破顔一笑を向けた。後ろで夜明けが群青を押し広げ、黎明の金が雲を縁取る。確率Xの夜は終わり、物語はまた始まる。