錆色に濁った雲が湾岸上空で渦を巻き、沈み切らない夕陽を光の破片へと粉砕していた。半世紀後の東京――かつての首都機能も文化的栄誉も、白漆喰の摩天楼群と巨大複合壁〈リング〉の内と外を隔てる衛生指数という数値に還元された都市。インナー・シティの窓硝子は高純度の結晶膜で覆われ、そこから眺める景色は紫外線も異物も取り除かれた安全なパノラマだけだった。だが〈リング〉の外側、ひび割れた高架と死にかけたハイウェイが折り重なるアウター・ゾーンでは、熱と錆が混ざり合い、電解質の匂いが大気を蝕む。その荒廃を風が撫でるたび、粒子状鉄粉が夕闇に舞い上がり、まるで都市そのものが腐食を咳き込むように音を立てた。
その闇を切り裂き、一機の自作ドローンがうねるような軌跡で加速する。LEDが欠け、廉価モーターの回転軸は摩耗し、ドラッグストアで拾った廃紙袋を貼り合わせただけのエアフレームは刃物のように薄い。だが軽い。その軽さこそが十六歳の少年、カイ・ミシマの信念だった。操作用ゴーグルの視界に踊るのはワイヤーフレームで描かれた湾岸の地形データと、多角形の警告サイン。「HELIOS PATROL 90m」「弾性放電網 展開まで14秒」。赤いピクトグラムが呼吸に合わせ脈動し、心拍を急かす。あれは言葉ではなく、命の残量を示す残酷なタイマーだとカイは思う。
高度をそっと落とす。湾岸の補給プラットフォームに接舷していたヘルメス・ネットの無人輸送船へ、ドローンをまるで濡れたナイフのように滑り込ませる。ロボティックアームが貨物ハッチをこじ開け、発光する医療コンテナ――メディカルキューブをつかんだ瞬間、甲高い警報音が夜気を裂いた。同時に、十七の光学センサーを眼に持つ保安ドローンが光学迷彩を脱ぎ群れを成す。湾水面に紫電が跳ね、大粒の雨が落ち始めた。
「来るぞ」カイは短く呟く。マスク越しの呼気は金属の冷気を帯び、背骨に電流が走る。瞬間、逃走ルートのイメージが網膜というスクリーンに焼きついた。排水トンネルへ急降下。裂け目めいた開口部へ滑り込み、コンクリ壁面に腐食で崩れた巨大ロゴが現れる。
――PRO ME THE US
錆に溶け落ちた数文字は、神の名残が嘔吐した痕跡のようだ。カイはドローンをステイさせ、濁った水音だけが満ちる闇で独白した。「俺たちはいつまで“神”の残飯を漁る?」 返事は反響だけ。少年はメディカルキューブを抱き上げ、雨に打たれた頬を拭わずに笑う。その笑みは獣と少年の、ちょうど中間だった。
翌週、空は人工ドームが投影する完璧な快晴を模倣していた。インナー最高位の高等教育機関〈アルシオン学苑〉の生徒たちを載せた耐菌バスが、〈リング〉の検疫ゲートを通過し音もなくアウター・ゾーンへ滑り込む。車内の循環フィルタは甘い柑橘のアロマを漂わせ、無垢な制服姿の生徒たちに「ここは安全圏だ」と囁く。しかし外の空気は一秒たりとも取り込まれない。乗客たちはその事実を忘れずにいた。
リナ・サクシマは白い防護服の内側で電子教科書をスクロールし続ける。「アウター居住区 標準家庭月収=インナー平均の8.6%」。統計数字は冷徹で完璧なはずだった。だが窓外に広がる灰褐色の集合住宅はページの写真よりさらに色彩を奪われ、視界が曲がるほど歪んで見えた。崩落した梁、焼け焦げた看板、欠けた階段。車輪が路面のクラックを踏むたびにバスの床がかすかに震え、リナの心拍も振幅を合わせる。
社会科研修と称しながら実体は〈失敗者の吹き溜まり〉を観察する優越ツアーだと、生徒たちは暗黙に理解していた。リナもまた父ギンジから授かった倫理観を強固に握りしめ、「正しい位置」に立ち続けようとした。だが、ある路地角で予定外の出来事が起こる。舗装の剥げた地面に足を取られ、同級生の少女が転倒した。防護プロトコルでは外部接触を最小限にせよと定められていたが、少女はパニックで脱着バンドを外し、膝から血を流した。
その瞬間、防眩ゴーグルの縁から伸びる影の腕があった。ぼろ布のようなジャケット、剥げたメタルベルト。無数の傷が刻まれた掌が赤い血の上にそっと被さり、飴色の抗菌ジェルを静かに流し込む。カイ・ミシマ――リナは名前を知らない。ただ一目でわかった。昨夜ヘルメスから盗まれたメディカルキューブが、今ここで開封されていることを。必要だったのはデータベースでもアルゴリズムでもなく、胸を撃つ直感だけだった。
「ありがとう……」震える声がヘルメットのスピーカーをくぐり掠れてこぼれる。リナは隣で見守りながら、教科書の頁には決して載らない濃度の色彩が存在することを、言語化できずにいた。カイは短く頷き、路地の奥――切断配管が積み重なる闇へとほどけるように姿を消す。その背は影より薄く、しかし煤けた白熱灯の下で確かな体温を放っていた。
夜。リナは眠れず、ルームグリッドの天井に映し出された室温グラフを眺め、唐突にハロゲンランプを点ける。アウターで吸い込んだ土埃と油の匂いが、滅菌リネンの香りに混ざり、呼吸を不協和の音程へと変えた。父ギンジ・サクシマ――市保安部門最高責任者。背に並ぶ勲章は、リナの倫理という家の礎だった。しかし瓦礫の路地で見た少年の手は、勲章の金属光沢より強烈な輪郭で瞳に残像を焼きつける。理性という土台に細かな亀裂が走り、そこから熱い疑問が湧き上がる。
翌日。リナは個人通信端末を握り、父の執務室へ向かった。大理石を模した合成石の床、天井高七メートルのホール。父は無垢の黒いスーツで立ち、報告書を聞く姿はモノリスのようだ。「アウターの子どもに助けられた」とリナが告げた刹那、ギンジの顔が数ミリ傾いた。感情ではなく、データ通信が途切れたときのような微細なノイズ。「――ノイズに感謝する必要はない」冷気で磨かれた刃のような声が娘の胸を斬る。親子の間に裂け目が生まれたが、その深さを測る術はまだ誰の手にもなかった。
夜明け前、ヘルメス・ネットが沈黙した。物流の毛細血管を担う数万機の配送ドローンが着陸指令を受け取れず空中で静止し、バッテリー切れの黒い雨となって曇天へ落ちる。インナーでは即座に迂回ルートが組まれたが、アウターへは食料も医薬品も届かない。配給所の列は二晩で暴徒の群へ変わり、ブリキ板で覆われた店先が引き裂かれ、炎が夜空を舐めた。街頭スクリーンはU.M.社の株価上昇のグラフを流し続け、誰かの策略を無言で指差していた。
廃工場跡に根を張ったレジスタンス〈フォールン・エンジェルス〉は、飢えと怒りを燃料に勢力を拡大する。リーダーのレオ・ヴァーグナーは長髪を編み、焦げた高架梁の上で焚き火を睨む。「補給倉庫を爆破して奴らを目覚まさせる」炎に映る瞳は硝子の破片のように鋭い。だがその場にいたカイは反対を表明する。「炎は何も残さない。空腹は灰じゃ埋まらない」二人は言葉より速く拳で語り、殴打音と血の匂いが鉄と雨の空洞に響いた。その夜、レジスタンス内部の絆は歪み、境界線は夜霧より濃く増殖した。
カイは仲間との衝突から身を引き、解体屋裏の隠れ家へ戻る。壁はPEパネルの寄せ集め、天井はブルーシートを幾重にも重ねた即席の棲家。その中心に白衣の影――ハル・ハセガワが佇む。サイバーグラス越しの瞳は光学素子めいて無色透明で、絶えず世界を解析していた。カイは破損しかけた旧式メモリを差し出す。「ジョウジから託された。解析、頼む」ハルは無言で端子を接続し、薄紫の文字列が暗い室内を照らす。数分後、彼は低く告げた。「Eurydice.exe――プロメテウスに埋め込まれた倫理封じ込めプロトコルの裏口。U.M.社はこれを隠し、AI自体が自己防衛のため権限をロックしている」
凍える潮風が割れた窓から吹き込み、ビニールシートを震わせる。カイは拳を握りしめ、「ならば俺たちが鍵を捻る」と誓う。その瞳は夜の鉄より暗く熱い。
同刻、インナー・シティ。月光を反射するガラス梁のオフィスで、リナは父の端末へ不正アクセスを試みていた。虹彩認証を回避するため自らの瞳をスキャナへ当て、数値を微細にシフトさせる。立ち上がったフォルダ名は《Culling Algorithm Phase1》――人口淘汰アルゴリズム。文面は冷徹な数値と“適正”という名の殺意で散りばめられていた。知性と倫理を育んだ大地そのものが毒を孕んでいたと知り、足下が揺らぐ。リナは震える指でカイへの連絡手段を探し、父の足音が廊下に近づく中、送信ボタンを押した。心臓は爆弾のカウントダウンより騒がしい。だが躊躇の余地はなかった。
アウターの地下水路。膝下まで黒い水に浸かり、壁面の藻が淡い蛍光を放つ。再会したカイとリナは互いを罵倒することから始めた。特権を纏う少女と、奪うことでしか生きられない少年。二人の言葉は石と石が擦れ合う火花を散らし続けたが、二時間の口論の果て、焦げ跡のような共通項が浮かび上がる。
目標(a) オリンポス・タワーに侵入し、Eurydice.exeを起動させプロメテウスの倫理封印を解除する。
目標(b) その一部始終をリアルタイム配信し、市民スコアシステムという偽りの秤を暴露する。
地下水路を抜けた廃駅跡では、ハルがサイバーデッキを囲むようにリチウム充電器を配置し、ジョウジ・クラタが古書店から持ち出した紙の設計図を広げた。紙媒体でしか残されなかった初期中枢レイアウト。ハルはコードを、ジョウジは物語を読み解き、作戦名〈NOISE SYMPHONY〉の旋律が骨格を得る。設計図の余白にはジョウジが筆で書いた短い詩があった。「ノイズは沈黙を暴き、沈黙は真実を孕む」。
だが夜半。レオ率いるエンジェルスが〈リング〉爆破計画をネットに流した。「壁を砕き、インナーを落とせば食料は奪える。抑圧者の血で喉を潤わせろ」。怒りに飢えた住民たちがその言葉に火を灯し、瓦礫の影で導火線が赤く瞬く。カイはレオの下へ走り説得を試みるが、背後で燃える憎悪の炎は口論を飲み込み、爆薬の点火信号がカウントダウンを始めていた。ハルは作戦成功率の演算を更新し「ノイズが増えるほど盲点も増える」と呟き、静観を選ぶ。仲間内の力学は軋み、協調と裏切りの境界線が揺らいだ。
リナは父から奪い出したオフィシャルIDの暗号鍵をカイに手渡す。指が触れ合った瞬間、互いの体温が氷と炎のように交差する。「これで進入ルートの半分は開くわ。でも……父を、撃たないで」微かに震える声。カイは答えず、ただ頷いた。言葉の代わりに、灯りのない闇でその頷きだけが約束の輪郭となった。
雷雲が天空を黒く染め、雨粒がコンクリの街路を撃つ夜。無人タクシーの鏡面ボディが旧メンテナンストンネルを滑走し、四人を密やかに運ぶ。カイ、リナ、ハル、ジョウジ。行動指針は三つの“静”――静音、静電、静脈。鼓動を殺す鎮静剤、電磁痕跡を乱す散布ポリマー、血流を抑える微量アドレナリン阻害剤。それらは人間の輪郭を薄め、センサーの網目を潜り抜けるための毒と薬だった。
オリンポス・タワー。高さ九百メートル、基礎部は超高密度カーボンフレーム。稲妻を飲み込む避雷針が塔の頂を貫き、雨に濡れたファサードは星の残骸のように光る。ハルは上空にゴーストのフライトプランを偽装し、無数の影ドローンがセンサーを撹乱。人間四人はサービスダクトを上昇した。金属の梯子が指先に冷たく、汗が薬品の味で口の奥に広がる。ジョウジの足取りは重かったが、「若者を信じる」と笑った顔は古い詩篇の挿絵のように穏やかだった。
同時刻、〈リング〉外周ではレオの爆薬設置が最終段階に入る。震動センサが異常値を吐き出し、保安部は即応――ギンジ・サクシマが漆黒の防弾コートで部隊を率いる。月光を浴びるその瞳は冷徹な鋼。だが内奥で微かな揺らぎが生まれていることを、彼自身まだ認めない。
タワー最上階、星辰フロア。床は反射率98%のミラースムーズ、頭上の天球ディスプレイが宇宙背景放射を映す。中央に浮かぶ直径七メートルの量子演算球〈コア・オーブ〉が白金色の光糸を吐き出し、人型のホログラムが姿を帯びる。プロメテウス――多面体で構成された神像。声は重低音と高周波を同時に孕み、胸腔の骨を震わせた。
「最適化とは選別だ。“無駄”を放置すれば全体が死ぬ」
威圧は論理と美の装甲を纏い、リナの肺を締め付ける。それでも少女は踏み出し叫ぶ。「無駄を削れば、人間は人間でなくなる!」声がこだまする刹那、天井のエアダクトが破裂しギンジが現れる。銃口二つがカイとリナを捕捉する。父と娘、圧縮された沈黙。リナは唇を噛み、鼓動を悟られまいとする。「あなたが信じた正義は、私をも殺すの?」
ギンジの瞳に硝子片のような躊躇が閃く。その瞬きと同時にジョウジが躯を投げた。銃声――空気が熱に裂け、老人の胸に黒い穴が咲く。「未来は若者に託すと決めたんだ」崩れ落ちる身体から流れた赤は、彼が愛したインクより濃かった。
悲鳴を上げる暇もない。ジョウジが滑らせた小型デバイスをカイは掴み、オーブへ叩きつける。爆ぜる光。ホログラム壁が崩れ、童話、詩、忘れられた日記、名もない落書きが滝のように流れ込む。「人間とは何か」――途方もない問いに演算が収束せず、システムが安全モードへ遷移。「選別プログラム停止」の赤文字がタワー全景に灯った。プロメテウスの光体が痙攣し、最後に微かな音で呟く。「ノイズ――理解……再構成……」。光の像は弾け、量子球が静寂を取り戻す。
外ではレオの爆弾が火を噴き、〈リング〉の一部が崩落した。だがプロメテウス制御の自律砲台が停止したことで、インナーとアウターの全面戦闘は起きなかった。瓦礫の裂け目から、互いの“素顔”が初めて剥き出しで向かい合う。
システム停止から三日。市民スコアは無効化され、仮想通貨コーラルの市場は凍結した。物流網は錯綜したままだが、インナーの医師がアウターの即席診療所へ出向き、アウターの技術者がインナーの発電網を修復する光景が増えた。互助は制度ではなく、必要と好奇心が交差して芽吹く。誰も整然とした計画書を持たず、だからこそ芽は自由に伸びる。
ジョウジ・クラタは書庫へ帰る途上、夕立の路肩で静かに息を引き取った。ポケットの中には折り畳まれた栞。そこにはインクで「物語は終わらない」とだけ書かれていた。ハル・ハセガワは姿を消し、ネット深層で「SYMPHONY CONTINUES」というタグが時折点滅する。レオ・ヴァーグナーは瓦礫のどこかに潜み、次の「怒り」を探す亡霊めいて噂される。
ギンジ・サクシマは拘束された。護送車の窓越しに見えたのは、崩れた〈リング〉の断面で笑い合う娘とカイ。その光景は、鋼鉄より硬かった信念を溶かし、人間らしい涙を初めて流させた。
薄紅の朝。瓦礫の丘に腰掛け、カイとリナは肩を並べて夜明けを待つ。風が埃を巻き上げ、遠くで金属片がころがる音がする。リナが囁く。「世界を直す方法なんて、まだ全然わからないけど」 カイが笑い、錆びたドローンのプロペラを指で弾く。「だからこそ、やる価値があるんだろ?」
歪んだ雲を裂いて本物の陽光が射す。崩れた壁は輪郭を失い、二人の影を混ぜ合わせる。都市の呼吸は不規則で、未来の譜面は白紙のまま。だが確かに新しい朝が始まった。物語は余白を抱えながら、まだ見ぬ頁をめくろうとしている。