“リバース・ショック”と名付けられた世界同時株価崩壊から一夜明けたはずなのに、東京は明けない夜の臓腑のように濁っていた。首都高速のジャンクションは金属の蔓に黒い露を宿し、超高層ビル群のガラスは鉛色の雲を溶かし込んで翳った鏡と化している。人々は皆、雨に濡れない檻に閉じ込められた実験動物のように足早で、スマートグラスの内側に流れ込む緊急アラートから視線を外せずにいた。
セレスティアル・ガーデン──東京湾岸を見下ろす鏡面の塔。その最上階パノラマ・フロアに立つ黒崎怜は、自分の心音がこの街と不協和音を奏でているのを聴いていた。世界経済部門統括レジーナ・ウォンのブリーフィングはレーザービームのように正確で無慈悲だ。「目標は〈東亜テック〉。九十六時間後の臨時株主総会で敵対的買収を完遂し、市場心理を正常化させる。あなたにはアルゴリズム“プロメテウス”の裏層アクセス権を付与する。以上」
卓上に浮かぶホログラムには収益曲線、レバレッジ倍率、ボラティリティの熱地図が脈打っている。怜にはそれが異星の星図にしか見えなかった。どの線にも、どの数にも、体温というものがない。耳を打つレジーナの声は遠くの海底を這う潮騒のようにくぐもり、背後の一枚窓に叩きつける雨粒だけが現実を証明していた。
数時間後、怜は地上へ降り、高速輸送列車〈ハイパーライナー〉の滑走路のようなプラットフォームに立った。車両が磁気浮上で滑り込むと同時にモーターの高音が骨に共振し、加速Gが頬の筋肉をわずかに引き下げる。窓ガラスに映り込む自分の顔は光の断片で二重三重に重なり、刈り上げた黒髪、生真面目な顎、血色を失った唇がバラバラのパーツとして宙に浮いた。
胸の奥の空洞が、突然膨張音を立てた。怜はシートベルトを解除し、非常用ドアのマニュアルレバーを引き倒した。風鳴り。車内の悲鳴。跳ね上がった金属音と共に身体は外気へ放り出され、レール脇の舗装路に転がる。着地の衝撃で肺から空気が抜け、嗚咽のような呼気と共に視界が白む。だが立ち上がると同時に、雨粒が火照った頬を冷やし、都市照明を屈折させて虹の亡骸を生んでいた。
ただ、逃げたかった。演算式だけで構成された自分から。
どれほど彷徨ったか分からない。鈍い頭痛と泥濘の路地をすすむ踵の音だけが時を刻むなか、怜は朽ちかけたアーチに行き当たった。鉄骨には“黄昏通り”とペンキで書かれ、剥離した文字の隙間から錆が涙のように流れている。ネオン管は半数が切れ、紫と緑の光が雨煙に滲んで、この街区を現実と夢のあわいへ浸した。
アーチをくぐると、屋台の鉄板が油を弾く音、古楽を奏でる蓄音機の針のノイズ、甘く焦げたキャラメルの匂いが渾然となって流れ込んだ。怜はその匂いの源を辿るように一軒の木造家屋へ吸い寄せられる。白いチョークで『カフェ・ド・クレプスキュール』と書かれた黒板。取手を押すとベルが乾いた音を立て、厚い扉の向こうに別の季節が広がった。
カウンターの向こうでネルドリップに湯を落としていたバリスタの女性が顔を上げた。栗色の髪を無造作に三つ編みに束ね、横顔を照らすランプシェードの光が頬の産毛まで浮かび上がらせている。藤宮梓。目尻に刻まれた柔らかな皺は、長い時間を焙煎機の熱と向き合ってきた証のようだった。
「濡れていますね。どうぞ、こちらへ」
その声は湯気をまとう羽毛のように温かく、怜の濡れた骨に滲み込んだ。
差し出された瑠璃色のカップを口に運ぶ。まず舌先を撃った鋭い苦味が、即座に酸味へ転調し、最後尾をキャラメルの甘露が滑空して喉奥へ着陸した。味覚の層が脳内で立体模型を組む。湿度、温度、質量、焙煎時間、標高、降雨量──数値化不能な情報が五感の背後で爆ぜ、指先から肩口へ鳥肌が走った。
「あの……この豆は」
震える声に、梓は目尻をさらに細めた。「標高一六五〇メートル、グアテマラ・アカテナンゴ地区。雨の日は甘味が顔を出します。まるで街の隅に隠れた本音みたいに」
言葉が、雨のフィルムを剥がすように怜の胸に入り込んだ。この瞬間、数値の世界の外側で震えている“何か”が確かに存在すると告げられ、心の空洞に最初の亀裂が走る音を聴いた。
世界は四日後の敵対的買収を前に加速度的に歪んでいった。夜毎に株価は昇竜と墜落を繰り返し、ニュースキャスターの声は疲労で擦れ、誰もが睡眠不足の証である薄い血の膜を眼球に宿していた。
しかし怜の内側で鳴るメトロノームは別のテンポを刻み始めていた。あの一杯の温度が、焦げ茶の飛沫となって脳のシナプスを叩き、彼を再び黄昏通りへ呼び寄せる。
二度目の来訪。梓はネルに湯を落としながら微笑んだ。「今日の雨は柔らかいですね。雲が眠ってしまう前の子守唄みたい」
店内には他に客が一人。分厚いコートに身を包み、古書を読む長身の男。ページを繰る手付きが異様に静かで、泰然とした瞳は本の上でなく空間の奥行きを測っているようだった。
怜はカウンターに座り、ふと開かれた帳簿の赤い数字に視線を落とした。生豆の先物が高騰し、光熱費は市場連動型の新課税によって跳ね上がり、濃密な香りを生むフィルターは輸入規制で入荷が滞っている。それでもメニューの価格は据え置きのまま。一杯のコーヒーの後ろに隠れた損益分岐点が、血を流す無音の臓器に見えた。
「価格変動リスクはヘッジで抑えられます。例えば来季分をフォワードで……」
理屈は口から滑り落ちた。怜の脳はまだ金融の手筋を忘れていない。しかし梓はシナモンスティックでカップを一周し、香気の螺旋を空気へ溶かすと穏やかに首を振った。「数字で救える味もある。でも、味は数字になった瞬間に死んでしまうこともあるんです」
言い返せなかった。言葉の刃を探す前に、胸の奥で何かが熱を帯びてひりついた。否定されたのは金融工学ではなく、自分が空洞の保護膜として纏ってきたロジックそのものだった。
その会話を、奥の席の男がページの隙間から覗き見ていた。天野創。元天才プログラマ、現ネット上の亡霊。同僚ですら存在を確認できない彼の指先は、膝の上の旧式端末で怜の名刺情報を瞬時にスキャンし、“黒崎怜──S+権限”という文字列を盗み取った。
夜更け、創のアパート。六畳一間の床に並ぶノートPC三台。ディスプレイにはプロメテウスの深層階層、通常は開発者ですら触れないブラックボックスが立体グラフで揺らめいていた。創は自らが設計した怪物の現在地を確かめ、冷や汗で濡れるキーボードを叩く。
“S+権限が黄昏通りの資産価値をゼロに書き換える射程圏内にある”
「梓さんを守るには、あの男を引き込むしかない……」
呟きは暗闇で蒸発し、ファンの唸りが地下水脈のようにこだました。
夜の黄昏通りは、どこか祭囃子の残響に似たざわめきを宿していた。ネオンサインの切れた部分が瞬きを繰り返し、雨に濡れた屋台の天幕がストロボの光を跳ね返す。梓の親友、吉野莉奈が安っぽい紙袋を小脇に抱えて駆け込んでくる。「見て!限定スニーカー!フリマで転がせば十倍で売れるんだって!」
カウンターには怜と創が並んで座っていた。怜はスーツではなく灰色のセーターを着ており、創は例のコートのまま、しかし瞳だけが獣のように研ぎ澄まされていた。
創は莉奈の差し出すスニーカーのQRタグをスマホで読み取る。表示されたのは見慣れぬ暗号列〈ゴーストクリップ〉──彼が過去にネットへ流した独自のカウンタープログラムの変異体だ。思わず立ち上がる創を、怜が眉をひそめて制した。
深夜一時。黄昏通りの住民の信用スコアは、静かな爆発を起こす。八百屋の老夫婦はBランクからA+へ、寂れた古書店はEからCへ。住民たちはスマートグラスに表示される数値を歓声で迎え、酒瓶を打ち鳴らし、ハンモックのように脆い幸福に身体を預けた。
だが十二時間後、プロメテウスが異常を検知。“人為的スコア膨張”エラー。黄昏通りは〈レッドタグ〉区域に指定され、金融取引とインフラ供給が即時凍結された。コンビニの冷蔵庫は電源を落とし、水道は滴りを止め、街はサイバネの心臓を失った躯となった。
怜の端末へ、レジーナから暗号化通話が入る。「黄昏通りは買収価値を毀損するノイズよ。感傷を捨てなさい」
彼女の声は氷の結晶のように美しく、非情だった。しかし怜の鼓膜は別の音を記憶していた。雨音と、ドリップの滴るリズムと、梓の「甘味が顔を出す」という囁き。
翌朝、怜は社内サーバに潜り、買収モデルのコードの一行を改竄する。〈アジア第八地区総合開発〉のフォルダから“黄昏通り”という文字列を除外し、検証ログのタイムスタンプを捏造。ビルのガラスに映る自分の背中が、かつてないほど人間らしい重量を帯びていた。
深夜のカフェ。雨粒が波紋を織る窓辺で創が怜を待っていた。
「君の改竄は見えた。でも足りない。本気で救う覚悟はあるのか?」
沈黙に潜む電流のような緊張。怜は躊躇し、やがて幼少期に父親が破産し夜逃げした夜の話を語った。ラジオだけが残された空き家の闇、床板の下で震えていた自分の脈拍。
創もまた、プロメテウスの骨格を設計しながら大企業に権利を奪われ、匿名の闇に沈んだ過去を打ち明けた。それぞれの傷が触れ合ったとき、光と影の接触面が火花を散らした。同じ炎の色ではない。怜の胸で揺れる焔は梓への思慕、創のそれは贖罪と執着。
決裂寸前の空気を切り裂いたのはサイレンだった。警察ドローンが店先に舞い降り、莉奈のスニーカーが〈東亜テック〉幹部への贈賄の証拠として告発される。梓は反射的に莉奈を庇い、手錠型拘束具が彼女の細い手首を、冷たい金属で締めつけた。
未明。梓の逮捕がSNSのトレンドを埋め、ハッシュタグ〈#黄昏通り死守〉が拡散する一方、インフルエンサーは“情緒的テロ”と批判した。梓の信用スコアは奈落へ転落し、店先には行政差し押さえの赤い封印テープが X 字に貼られた。
怜はセレスティアル本社の大理石ロビーで契約書を破り捨てた。「買収を撤回します」
レジーナは凛とした微笑を浮かべ、タブレットに指を滑らせる。怜の信用は一瞬で“無評価”へ降格し、虹彩認証ゲートが彼を拒む。二人の護衛に腕を掴まれエレベーターホールへ放り出された瞬間、怜は何故か自由の匂いを嗅いだ。
その頃、創は黄昏通りの古書店地下に臨時オペレーションルームを設置していた。カビの匂いのする石壁の前で稀代の反骨ジャーナリスト長谷川甚が旧式活版印刷機を磨いている。印刷機の金属活字は戦後の闇市で拾われたもので、手垢が酸化して鈍い光を返していた。
集ったのは“失われた者たち”──怜、創、拘置所の梓、そして保釈を待つ莉奈。
「弱点を武器に変える」創はモニタに映るコードを指でなぞりながら宣言した。
怜は市場操作の禁じ手を駆使し、セレスティアルが東亜テック買収に失敗すれば致命的損失が跳ね返る金融ショートを作り上げる。
梓は拘置所の厨房に立ち、シングルマザーの受刑者へ店のレシピを伝授した。毎朝立ち昇るパンとコーヒーの香りが灰色の房舎を満たし、看守の表情さえ和らげた。拘置所の壁の内側に、誰も知らなかった朝が生まれていた。
莉奈は押収品リストの無機質な文言を漫画調イラストに仕立て上げ、ライブ配信で「資本が街を殺す実況」を開始。スマートグラスを掛けた十代が教室で、夜勤の看護師が休憩室で、老舗和菓子屋の主人が木箱の裏で、その映像を視た。数十万の視線が黄昏通りに注がれる。
創は“感情の揺らぎ”を数値化しプロメテウスへ逆流させるウイルスパッチ〈プロメテウムの雨〉を完成させた。起動キーは梓がネルから落とす“一滴の音”。世界最大の信用スコアリングAIを、たったひとつの液体の震えでハッキングするという逆説的設計だった。
買収契約締結の日。セレスティアル最上階のバーチャル会議室は無彩色の監獄のようだった。レジーナがニューヨーク、チューリヒ、シンガポールの取締役とホログラムで握手を交わす刹那、ネットワークの深層で微細な雨粒が降り始める。創のパッチが走ったのだ。
プロメテウスのダッシュボードに現れた未知の変数“EL”(Emotional Lability)。数値化不能とされていた情緒指数が評価軸へ割り込み、都市の信用スコアは乱気流へ突入する。五分足らずで世界の取引所がサーキットブレーカーを発動し、幾千億の資産が霧散した。
怜は白い会議テーブルの中央にホログラム通話を開く。レジーナの瞳が冷たい琥珀となり、怜を射抜く。
「人間の価値は、演算できない」
その言葉と同時にセッションを切断。背景のパノラマに稲妻が走り、日本列島の証券取引板が暗転した。
同時刻、黄昏通り。機動隊の青い防塵マスクが横隊を組み、パルスライフルが雷鳴の模造品を携える。だが通りの中央に折り畳みテーブルが据えられ、仮釈放された梓がドリッパーを置く。ガスバーナーの炎が雨に揺れ、湯の線は真っ直ぐ垂直に落ちた。
静寂。コーヒーがネルを透過し、ポタリ、と一滴がステンレスポットの底を叩く。その音が起動キー。
プロメテウスは世界中の配信コメントを音声波形として誤認し、意思決定階層に情緒指数を取り込む。暴力行使の正当性は定義不能となり、ドローンは高度を下げてホバリングしたままハレーションを引き起こす。
長谷川のカメラがその瞬間をライブで流し、莉奈の描いた落書き“たそがれを、終わらせるな”が瓦礫の壁に投影された。数百万の視聴者の呼吸が、世界のどこかで同調した。
夜明け前、ネットの速報が一斉に鳴る。〈東亜テック〉買収──破談。レジーナ・ウォン辞任、行方不明。プロメテウスは“信用スコア算出の一時停止”を宣言。世界は、巨大な装置が肺いっぱいの空気を吸い込む音を聴いた。
薄紅の朝が訪れる。怜は無評価のまま、小さな投資ファンド〈ミラビリス〉を黄昏通りに設立し、創と並んで看板を掲げた。「主観を尊重するAIを一から作り直す」
梓の店は差し押さえを解かれ、クラウドファンディングのカウンターが三百万、四百万と跳ね上がる。改装初日、梓は真新しいエプロンを怜の首に結び、照れた笑みを浮かべた。
「淹れ方は、これから一緒に学ぼう。ね?」
蒸気が朝日に透け、豆の香気が街の隅々まで巡る。屋台の鉄板が再び油を弾き、古書店のページをめくる音が戻り、八百屋の籠に沈む露が光を返した。
創は通りの外れで長谷川と古い活版機を回す。最初に刷り上がった紙面を掲げ、朗読した。
〈信頼とは、揮発性の香りである〉
その瞬間、停電したままだった街頭スクリーンにグレーの文字が浮かぶ。
“プロメテウス再起動まで──未知数”
黄昏通りに射し込む光は柔らかく、しかし確かな熱を宿していた。
物語はまだ続く。人が人を信じる行為の甘美と、いつか散る儚さを胸に、今日もコーヒーの湯気が新しい一日を呼び込んでいる。