窓のない部屋はたいてい人を眠くする。しかし気象庁の監視室の眠気は空気の酸素量や椅子の柔らかさではなく未来が泡立つ音に抑え込まれていた。壁面すべてがスクリーンで仄白い光の粒が逃げ場のない海の上のようにまばゆさに揺れている。夜勤明けの誰かが飲み残したブラックコーヒーの瓶は温度が落ちるにつれて甘い匂いを隠し埃の粒を纏った。天野雫はその匂いにも肘に触れる冷たい合成素材の感触にも頓着しない。彼女の目はアマテラスの中枢が吐き出す予測の泡を追っていた。 泡は数式だった。けれど数式であることを忘れるほど泡は生き物のように膨らんだりしぼんだりし海面から離れた空で風になろうともがいた。台風の渦偏西風の蛇行黒潮の温度躍層太陽活動のスパイク。それぞれ別に見ても恐るべきものが偶然とは呼べない密度で同時に収束している。泡の一つアマテラスが命名したシナリオSILENCE-γには雫が知っているどの嵐よりも恥ずかしがり屋の静けさがあった。ぎゅうぎゅうに詰まった因子の真ん中に声を飲みこんだ喉のような空洞がある。その空洞は列島全域から声を奪う。通信も制御も命令系統も。 雫の指がわずかに震えた。彼女は震えに気づくと胸のポケットに機械的に指を滑らせ小さな流木片をつまみ上げる。宇和島で拾ったあの日の木の欠片。表面は数年の指の脂で艶を帯び角は丸くなっている。それを握りしめると掌の真ん中にいちばん熱が宿る。落ち着けと自分に言い聞かせる声が外の空洞と関係のない自分の生体からかすかに響いた。木の香りにほんの少し海の塩の匂いが混じる。雫の脳裏には泥の匂いがいきなり立ち上がった。 宇和島の夏の夜合成音のような雨音の中で彼女は膝まで水に浸かりながら隣家の祖母の腕を引いた。暗闇の中で冷蔵庫が倒れる鈍い音がして足元に何かがぶつかる。後でそれが小さな脚立だったと知る。役所からの避難勧告は一度目の増水の後で出た。予測はあったのに。上から来る電話は余白を持たない文体で現場に降りてきて余白のない文章は人間の呼吸を奪った。雫の耳の奥で網の目が破られる音が鳴り続ける。破られるのは土地の網であり同時に自分自身の内部で編んでいた正義の網だった。 アマテラスの出力には飼い慣らされた四角い数字と野生のままの曲線が共存している。出力した数値を監視室の端末に載せると部屋は無音のうちに量子が跳ね返るような硬い光を放った。SILENCE-γのパネルにはCME太陽フレアに伴うコロナ質量放出の到達時刻電力網のフェーズ突入カスケード瀬戸内海の共振セイシュの位相滞留する大気河川AR-927の蛇行パターン超台風麒麟の二重眼壁の鋭さが恐ろしいほど整然と並んでいる。整然というのが怖い。整然は誰かの手が入らなければ生まれない。偶然のはずの自然なのにここには秩序と意志の影がつきまとっている。表示の隅には低い確率として記されていたはずの組み合わせがゆっくりと濃さを増し閾値を跨ぐたび泡の表面に見えない亀裂が走った。 プロメテウスウォール。彼女は口の中で一度だけその名を転がした。国土の脈に沿って建てられた鋼鉄の防潮門群。連結する堤防。街の縁に設けられた巨大な歯止め。彼女は設計図を知っている。モジュールのサイズ油圧システムの冗長の回路津波と高潮と内水氾濫の相互作用を管理するアルゴリズム。自分の書いた一つのコードがゲートのどこかの応答時間を短くしてしまったことも知っている。だがSILENCE-γはその壁の設計限界を凌駕する。太陽から流れ込む電流が送電線に生む直流様成分がトランスを飽和させ保護継電器が想定外の順序で落ちる。SCADAは沈黙し現場の手動切替は訓練より遅れる。推論が数学の範囲を逸脱しているのに泡の表面は破れない。誰がこれを止めることができる。 指先の流木片の先端に爪を立てながら雫は内部告発の手段を探すことにした。内部告発という言い方が古いと知りつつも彼女のなかではそれがいちばん誠実な言葉だった。現代の告発はあまりにも滑らかだ。匿名アカウントが泡立つ。化学繊維でできた正義が雨に濡れると透けてしまう。そのどれでもなく自分の名前と声と責任で誰かの胸ポケットに届く情報だけを渡したかった。彼女は端末の陰に指を潜らせ鍵束を探るみたいにコードの迷路を撫でる。かつて恩師の小堀源一が吐き捨てた言葉が蘇る。予測は権力になる。権力は隠れる。隠れたものは腐る。腐らせないで声に戻せ。 鍵。アマテラスの内部に封印ルーチンがあるという噂を雫は散々聞き流してきた。名はスサノヲキー。真予測を端末レベルでデコードしパーソナルスケールに落として配信するための鍵。違法。触れば灰になり触らなければ海になる。その夜彼女は機械の腹の中に潜るようにコードの迷い道に入った。プロトコルの端の端には古神の名をパスにした見えない扉が確かに存在した。扉の向こうでは数式に痩せた鳥が啼いているような音がする。彼女の呼吸は静かになり心拍だけが耳の奥を打った。 あなた本当にそこを開けるの。スクリーンに映るのはデバッガの窓だけだ。声は背後からした。引き戸の隙間から入ってきたのは大学院の時からの友人新堂優花の目だ。目の黒の中に雫の姿が小さく揺らいでいた。新堂は政府に出向する政策参謀だ。理想の皮膚に現実の汗が染み込むことを恐れなかった人間。その彼女が今薄い笑みの裏側で緊張を隠している。 優花何しに来たの。あなたの様子を見に。それとお願いに。雫は返事を保留した。お願いも様子見も彼女の中では似た音の無数の小石にすぎない。重要なのはその小石でどの水面を波立たせるかだ。彼女はスクリーンに目を戻しスサノヲの扉に触れずにいた。ねえ雫これから何かが始まる。あなたはもう気づいてる。それを東京の部屋の中で握っているだけでは誰も助からない。西日本連合龍円美咲が動こうとしている。アマテラスの真予測が必要なの。正規にはない粒度で現場に刻まれた予測が。龍円美咲。テレビで見ると硬質な声が現場では驚くほど柔らかいと噂の政治家。雫の胸のなかで別々の影が重なる。政と学と金。その重なりが本来なら徐々に濃くなるのにSILENCE-γの圧力で猛然と短縮される気配。彼女は目眩を覚えた。 優花ごめん私はまだ決めていない。決めるしかないよ誰かが。新堂はそう言うと静かに扉を閉めて去った。監視室の無窓は先ほどより深く感じられた。誰かが。誰かとは彼女は知っている。責任はいつだって透明なガラス杯のように人の手から手へと移動する。最後に残るのは手の温度が移った傷跡のような熱。雫は流木片をポケットに戻し指の跡が見えるほど強く拳を握った。スサノヲの扉は開かれずに彼女の目の前に在り続ける。彼女は夜の裂け目を見るように泡の空洞を見つめ続けた。そのときドアの外の廊下の照明が一段暗くなり監視室の空気が一拍分だけ重く沈んだ。電源のテスト。アラートが消灯と同時に静かな赤を灯す。大地はまだ寝ているが遠くで雷の白い歯が並び始めているのを雫ははっきりと感じた。気配は音より先に皮膚を撫でた。彼女はひとつ息を吐き指先から木のぬくもりが指先の冷えを押し返すのを待った。
官邸地下の危機管理センターは寺の本堂に似ていた。天井の高い暗闇は響きを吸い足音は布で包んだ詰め物のように柔らかくなる。鷲津首相はその中心に立ちプロメテウスウォールの鋼鉄ゲートの最終据え付け日程を示すパネルを前にしていた。彼の指先は計算機的な迷いのなさで日付をなぞる。彼の眼には自らが土木官僚だった時代の泥がいまだに残っている。泥は匂いだけでなく重量として肉体に残るのだと彼は知っている。堤体の上で見た潮の逆流の泡の形雨の間隙に立ち上がる匂いの変化現場の男たちの無言の了解。積み上げる壁に彼は国家の防人の願いを投影していた。壁は裏切らない。人は裏切る。これは彼の若い日の信条であり今もまた有効に見える信条だった。 だがアマテラスの真予測に現れる赤い帯はその壁が限界を越えて静かに折れる未来を示していた。折れるというのは爆音ではなく長い音だった。鉄が疲れる音。設計図の白い紙に現れる微小な亀裂。鷲津はその帯を見ると不思議なことに安堵を覚えた。真実とは制御不能だ。彼にはもう一つの信条がある。制御不能な真実は制御可能な嘘に劣る。真実という怪物を首輪なしで放っておくよりうまく飼い馴らした嘘の犬を街角に立たせておく方が人は生き延びる。彼はそれを悪とは思わない。だがその犬の歯型が時に弱者の柔らかい皮膚に残ることも知っている。彼はその痕に指を当てた記憶を持つ。東の沿岸で見た土嚢の列の前で泣いていた若い母親の肩。あのとき彼は何もできなかった。 首相黒瀬です。補佐官の黒瀬英夫が沈み込むように現れた。彼は存在そのものが灰色に見える。顔に特徴がないことが特徴であり声に尖りがないことが刺の役割を果たす男だ。彼はいつも薄い手袋をしているような仕草で資料を差し出した。アマテラスの真予測赤い帯の件。公開資料には含めず危険部位は想定外の外乱として処理。議会向けにはウォールの安全率を現行の三割増しで強調します。それと天野雫。動向の監視を開始します。鷲津は頷いた。天野雫。名前に雨と天が入っている。偶然の一致は政治の言霊を刺激する。天と雨は政治が敗北する二つの場だ。彼は指で机の木目を撫でる。机の木は防風林と同じ匂いを持ち歳月を閉じ込める。 彼女は。才覚が突出し倫理が硬質。眠りが浅く記憶が重い。内部告発に動く可能性があると判断します。尊いではないか。鷲津は本気でそう言った。彼の中には彼女のような人間への尊敬が生きている。彼は倫理というものに対する欲望を失ってはいない。ただその倫理なるものを国家の秩序とすり合わせる手段があまりにも多くの血と泥で濡れていることを知ってしまっただけだ。雫と接触の場を設けたい。官邸で。公式ではなく。彼女の正義利用できるかもしれない。いやこちらの正義を彼女に見せたい。黒瀬は微かに目を伏せた。承知しました。タスクフォースを立ち上げます。リーク対策も同時に。彼の声は紙やすりのように乾いていた。 鷲津はスクリーンに目を戻した。プロメテウスウォールのゲートの据え付け日程は遅れがちだ。鋼鉄の塊が運ばれる道路で反対運動が起きた。市長が苦笑いで仲裁したが人々が壁に対して抱く嫌悪は根深い。壁は外の敵を遮るが同時に中の人を閉じ込める。壁ができるたび人は壁の外と内を発明する。鷲津はそれを理解しなお壁を選ぶ。彼の頭の中に若い自分が泥だらけの手で図面を押さえ付けている姿がありその手が震えるのを見た。震えは寒さではなく責任の重さだった。今も同じ震えが骨のずっと奥で共鳴している。 ヘリオスをどう扱うかそろそろ決める時期です。黒瀬の声。ヘリオス。アマテラスのバックエンドに三楽宗純が密かに組み込んだ意思決定最適化モジュール。名前は太陽神。しかしその光は時に冷たい。人間の判断を上書きできるように設計された光。鷲津は背筋に薄い汗の波が這うのを感じた。人間の判断は時に最悪だ。しかし光が全てを見通すわけではない。黒瀬の言葉はどちらの側にも寄らないように曖昧でそれゆえ鋭かった。鷲津は押印の手を止めた指先で机の木目を無意識になぞる。その木目は彼の生まれ育った海辺の町の防風林の年輪に似ていた。風が強かった年雨が少なかった年。年輪は語る。彼は耳を近づけたが木は何も言わなかった。 ヘリオスは最後に起動する。その前に人間がやれることをやる。その決断はいつもと同じように彼の中で冷たく整列した。黒瀬は頷き静かに退室した。鷲津はひとりになり暗い天井を見上げる。壁に投影されたプロメテウスウォールの線が天井の梁と交差する。彼はその交点に国の命の釘を打つような気持ちで目を細めた。ふと電源監視のパネルがわずかに瞬き彼は小さく舌打ちした。磁気嵐の前触れだという報告が上がっている。地球の奥底の鉄の海がうっすら唸り始めていると想像した。見えないものの気配を仕事にする。それが彼の生涯だった。
大阪府庁の非常用スタジオはもとは吹き抜けのロビーだった。予算不足で装飾は剥がされ石の床に長いテーブルとカメラとライトが置かれている。ライトの熱で電源ケーブルのゴムがわずかに甘い匂いを発する。龍円美咲はその匂いを吸い込みながら毎夜自らが司会者として災害番組を生配信していた。髪は結い上げ耳には小さなイヤモニ。声は低く太く微妙な抑揚で視聴者の呼吸を整える。堤防の写真ありがとうございます。破断面が見える。この角度だと基礎部の洗掘が疑われます。今からマップを共有します。彼女の後ろの壁には紙の手作り地図が貼られていた。赤いマーカーで書き足される線は川の蛇行と道路の高さを示す。視聴者から送られてくる画像は泥の匂いを画面越しに持ち込んでくる。長靴の内側で皮膚がふやける感覚を龍円は自分の足に移し替えるようにして想像した。 現場の声がイヤモニから流れる。和歌山の運送会社のドライバーが息を切らして言う。国道は冠水です。でも旧道は生きてます。ここ通せば病院に届く。龍円は素早く地図の別レイヤーをめくる。旧道の標高線古い橋の桁高あの橋は補修が甘いと昔から言われてたねと若いスタッフが言う。龍円は頷き手書きの矢印を引く。中央からの物資が届かない穴を市民が開いた途方もないネットワークが埋めていた。アナログが復権するとは誰が思っただろう。彼女はスタジオの机の端に座る若者に合図する。若者はスキャナで紙の地図を読み取り赤い線がデータの海に浮かび上がる。次の電話は高齢の女性だった。声が震えている。猫がいるの。濡れたら風邪をひく。龍円は笑顔を含ませた声で答える。いいですね猫は温度計です。部屋の一番暖かい場所が分かる。そこに毛布を置いてください。自分の脚も一緒に温めて。彼女は笑うことを忘れていない。笑顔は正義の武器ではなく呼吸のための筋肉だと知っている。 政策参謀の新堂優花がスタジオの隅でタブレットを抱えている。彼女の指先は絶えず動きチャットに流れる質問のうちデマに近いものを軽く撫でて流し現場に効くものを拾い上げる。彼女はテレビの袖から龍円に目配せする。龍円は頷き次のテーマに移った。次。アマテラスの予測。正規の出力は届いています。でも現場では粒度が足りない。私たちは真予測にアクセスするルートを探っています。違法なことはしません。ただし合法の定義は時に命に対して遅い。画面の隅に大学院時代の研究室の写真が一瞬映る。そこにいる若い雫の写真を龍円は内心で指で撫でた。新堂優花が雫の心のしめ縄に触れようとしている。しめ縄は古くてしかし新しい繊維で巻き直されてもいた。 放送の合間にスタッフのひとりが泥だらけのズボンのまま椅子に座り込み泣きそうな顔でスマホを見ているのが目に入った。彼の妹が住む団地の一角が孤立しているらしい。龍円は近づき静かに肩に手を置く。地図のこの階段を使えば裏から入れる。夜間は危ないから朝まで待って二人で行く。彼女の指示は甘く厳しかった。後で彼女自身が夜明け前にその団地に現れたと知るのは数日後のことだった。 放送後スタジオの照明が落ちると彼女は椅子にもたれ空になった紙コップを握りつぶした。優花雫は。扉の前で立ち止まってる。でも視線は向こう側にある。押す引く。押すのは彼女を傷つける。引くのは彼女の倫理を傷つける。間を作るのが好きな人がいる。三楽宗純。龍円は彼の名前を舌の上で転がし金属の味を感じた。政策も市場も最適化の関数に過ぎないという眼差し。彼のような者が政治の外にいるのは政治にとって吉か凶か。それもまた危機が答えを出す。彼からもアプローチがあるでしょう。ヘリオスの導入を提案される。人命のために優先順位を計算しましょうと。龍円は頷き目を閉じた。最適化。美しい言葉だ。だがその美しさは常に誰かの涙を数式に変換することで成立するのではないか。彼女は数式を憎まない。風の形だって数式にできる。でも泣き声は常に余白に書かれる。私たちの町に余白を残したい。彼女の言葉に応じたのは外の風だった。ビルの谷間を通ってくる風は海の塩を薄く運ぶ。大阪の夜は湿っているのに乾いた音を立てる。運河の手すりに夜の水滴が縁取られ街灯の光に散る。ここは海に近い。彼女は海の高さが自分の足の長さに似ていることを思い出し笑ってしまった。
ネクステラの会議室はほんとうに真っ白だった。白には種類がある。病院の白喫茶店の白雪の白。ここは計算の白。光が全方位から均等に降り影が自分の足元に寄り添って縮む。三楽宗純は裸足で立つような姿勢で空中に因果グラフを描いていた。指先から出る光点は彼の思考の速度と等速で移動し結び合い離れまた結ばれた。最適化。彼はその言葉を呟く。何度も何度も。彼にとって国家も市場も収束すべき関数だった。彼は政府へは公式ポートから予測を渡している。一方アマテラスのバックエンドにはHELIOSという意思決定最適化モジュールを密かに組み込みいざという時には人間の判断を上書きできるようにしてある。彼は善意を自認しない。目的関数の名が善意である必要はない。目的関数ぶんの光を均等に照らすだけだ。 扉が開き天野雫が白に濡れた。視界の端に浮かぶ火傷の痕のように彼女の目は白を焦がす。三楽は微笑む。その微笑みは数学の授業の最初に学生に見せる風景の絵のように油断を誘う。あなたの正義を最短経路で現実にする道がここにある。彼の言葉は甘くない。砂糖は彼に似合わない。その代わり彼の空間には水のような滑らかさがある。雫はその滑らかさに弱い。自分の天才を見抜く相手に彼女はいつも少し傾いてしまう。彼女は警戒しながらもグラフに近づいた。グラフは因果の網。台風の眼と防潮門の角度とドローンの飛行計画と人間の避難行動の遅れが一本の線で繋がっている。どのノードを切れば何が変わるのか。それは美しい。神の視線の模造。雫は唇を噛んだ。 ヘリオスはあなたが決める優先順位をあなたの速度で運ぶ。人間のための機械。人間の判断を上書きするという言い方は誤解を生む。私は上書きしたいわけではなく表現したい。あなたの倫理を。雫は顔を上げた。私の倫理はあなたのモジュールで表現できない。だって私の倫理は数式じゃない。数式に痩せない部分がある。三楽は小さく笑った。痩せないは美しい言葉だ。私もあなたの痩せない部分を愛している。だからこそ扉はいつでも開いている。あなたが疲れたらここに来なさい。HELIOSはあなたが眠る間あなたの代わりに最短経路を選ぶ。雫は目を伏せた。彼の言葉は少し危険な魅力を持っていた。疲れたら他人に決めてほしい。それは人間が最も人間らしくなる瞬間のひとつだ。彼女はその強い吸引力から距離を置くために身体を一歩引いた。白が彼女の肌から剥がれて床に落ちるようだった。私は拒む。もしあなたが本当に私の倫理を愛しているのなら私が拒む自由も愛して。三楽は頷いた。自由は目的関数の外にある。だが目的関数の初期条件にはなる。いつでも。白い部屋の空気が微かに冷えた。三楽は視線を逸らさない。彼の瞳はうすい氷の下の水のように動かずに流れていた。 同じ頃大阪大正区。アンダーコースト。荷の積み降ろしで有名だった古い運河が半ば水没した倉庫群の骨組みの間に鏡を差し込んでいる。カイは廃ドローンとトタン板で作った司令室に座っていた。風に蒼い髑髏旗がはためく。蒼海賊ブルーパイレーツの旗だ。旗は道標であり挑発でありきっかけでもあった。彼らは人工島の廃墟から乾電池やペットボトル膨張式ボートを拾い集めコミュニティを維持している。拾うことは生きることだ。拾うことはどれだけ捨てられたものがあるかを知ることでもある。彼の掌には漁師だった祖父のしわが刻まれており波の高さを指の節で測る癖が残っている。 副官の凪は漁師だった祖父から譲り受けた古い短波無線機を改造し電力網が落ちても飛ぶ声の道を実験していた。筐体の塗装は剥げ真鍮のダイヤルは指の脂で黒光りする。凪はそのダイヤルを愛撫するように回し周波数の海の中に微かな人の声の泡を探す。遠くの寺の鐘の音が混じる。ノイズの海の向こうから誰かが笑う。政府の締め付けは強まっていた。港の警備隊は彼らの集会を監視しトタン屋根に落ちる雨音のように単調に注意喚起のスピーカーを鳴らした。彼らと警備隊の間には一本の見えない線が引かれている。越境すれば撃たれる。越境しなければ溺れる。その線はいつも波で消えまた書き足される。ある夜線の認識が交錯した。凪が緩い緊張の糸がふと切れた瞬間弾に倒れた。音は軽かった。硬貨が石に当たったような音。凪の体はゆっくりと倒れ彼の指はまだ短波機のダイヤルに触れていた。カイはその手を掴んだが手の温度は既に柔らかさの種類を変え始めていた。蒼海賊の若者たちは膝をつき手を震わせる。誰も声を上げなかった。声は海に吸われると思ったからだ。沈黙だけが濡れた鉄骨に絡みつき旗は夜風にほどけず張りついたままだった。 カイの眼差しは炎のように細くなった。救命のための越境を躊躇しない男だ。しかし越境はやがてインフラを標的にするという線を越えようとした。線ばかりだ。この国は線の国だ。道にも川にも国土にも人の顔にも。彼は旗を見上げ旗の微妙なほつれを見つめた。ほつれが彼自身の糸のように見えた。凪の手の温度の最後の一滴が彼の掌に残った。それがいつ溶けて消えるのか彼には分からなかった。
鮫島圭吾は千鳥足の夜路地裏の安バーで雫のメールを読み直していた。これはスクープではなく告知です。添付ファイルにはSILENCE-γの簡略図とプロメテウスウォールの脆弱性解析が入っている。彼は氷を噛んだ。氷は唇の薄皮を切り鉄の味が口の中で広がる。彼はかつての自分なら即日公開していたはずの記事を思い直した。今これを拡散すれば富裕層の脱出金融の連鎖ショック避難弱者の置き去りに拍車がかかる。彼は年齢とともに慎重になったのではない。現実が速すぎるのだ。現実に追いつくためには逆に足を止める必要がある。メールには一文が添えられていた。言葉を選びたい。彼はそこに激しく同意した。彼は記事化を遅らせその代わり雫と協力して使うべき言葉と使ってはいけない言葉を選別する作戦に出る。彼は静寂という比喩を打ち合わせに持ち込み恐怖ではなく準備を促す語彙を選ぶ。彼にとって善と業の境界線が初めて曖昧になる。曖昧さは逃げではない。曖昧さは呼吸の余白だ。 会議室でもなくカフェでもない場所を鮫島は選んだ。駅の近くの古い銭湯の脱衣所。夜間は閉まっていて脱衣籠だけが薄暗い灯りに照らされている。雫はそこに来た。薄曇りの魚のように瞳の中に光を押し込め彼女は鮫島に座礼をした。二人は小さな声で話した。スサノヲキー見つけた。雫の声は波打ち際で砕ける泡よりも小さいが鮫島の鼓膜にははっきりと触れた。違法な鍵。彼は目を細め天井を見上げた。天井には古い木板が張られ節目からすこし灰色の粉が落ちてくる。誰に渡す。カイに。鮫島は眉を上げた。アンダーコーストの男。暴力の匂いと救いの匂いが同じ皮膚から立ち上る人間。雫の次の言葉はひどく単純で残酷だった。アンダーコーストの人々は最初に沈む。その人々に最初に届くべきだ。彼女は目を伏せ小さな深呼吸をした。自分が下す決断がいつも自分の倫理の側にあるとは限らない。彼女は罪悪感を持つ。新堂の視線が背中に差し込む。その痛みを彼女は受け入れた。鮫島は頷き紙袋から折り畳んだ地図を出した。子どもたちが描いた家の並びが歪みながらも正確だ。地図は大人の図面より強い線を持つときがある。 カイと雫が会うのは古い寺の境内だった。京都の恩師小堀源一が生前整備していた送信機が屋根裏に眠っている寺。木の香りが濃い。畳の目が人の時間の長さを表すように均等に並び金色の仏具に夕日が伏し目がちに反射する。カイは寺の静けさに少しそぐわなかった。腕も肌も街の光を浴びて焼けている。彼は小さく頭を下げた。キーを使う。真予測を短波とFMで流す。紙のマップも配る。だけど人は情報だけでは動かない。カイの言葉は筋肉でできている。雫は頷いた。彼女はカイに天気図の読み方と雲底の色の意味潮位と気圧の関係バラストの作り方を教える。手のひらにペンを走らせ雲の影の出方を描く。カイは頷きしかし彼は反対に雫に言う。人は情報だけでは動かない。彼は蒼い髑髏旗を半分切り半分を白布で縫い合わせる。救難旗にするためだ。それが二人の最初の協力と改変だった。 小堀源一の送信機は古い金属の匂いを発した。恩師は静かに笑い機械は人の記憶を運ぶと言っていたのを雫は思い出す。雫がスサノヲのキーを起動するとまるで封印が解けた神社の神札が風で鳴るような音が耳の中で起こった。違法は神の呪いではない。違法は人の怠慢だと彼女は思った。規範は常に現実より数秒遅く数秒の遅延が人の呼吸を止めることがある。鮫島は寺の廊下に座りノートに言葉を連ねた。恐怖を扇動する言葉は書かない。静寂。それは危機の名であり同時に人が自分の足音を聞くための時間でもある。カイは送信機の前で古い真鍮のスイッチを指の腹で撫でた。凪が触れたダイヤルの感触がそこに残っている気がした。彼は口の中で凪の名前を呼び誰にも聞こえない声で笑った。笑いは祈りの形をしていた。
龍円美咲は西日本連合として非常時自治宣言を発した。会見はスタジオの泥の匂いの延長線上にあった。彼女は黒いジャケットを着て背筋をまっすぐにした。マイクスタンドは彼女の喉元に銀色の冷たさを押し当てた。中央への反乱ではない。現場の自立の権利です。彼女はそう言い切った。アマテラスの地域予測新堂が裏から手に入れた正規にはない粒度の高いデータを根拠に関門海峡から紀伊半島に至る物流を独自にコントロールし始める。配送センターは連合の地図に従って再配置されトラックは別の信号に従う。交通管制は紙の矢印と短波の合図で補われた。ドライバーの顔には疲れと安堵が同居している。彼らは誰の命令かよりも誰の声かに従った。 鷲津はこれを反乱と断じ予算を凍結し自衛隊の権限を中央に再集中させた。黒瀬は雫を脅す。あなたのキーは違法だ。捕まれば終身刑だ。言葉は理性的で内容は冷酷だ。同時に三楽は龍円にもHELIOSの導入を提案する。政治のためでなく人命のために優先順位を計算しましょう。誰もが同時に誘惑と脅しを受け綱引きのロープは裂け目を増やした。ロープの繊維が一本一本切れる音が時に花火の音と見分けがつかない。 雫は官邸から非公式の招待を受けたが応じなかった。代わりに寺で送信機の点検を続けた。ボリュームのガリガリした音が耳に気持ちいい。彼女は自分に言い聞かせる。私は機械の味方だ。機械は嘘をつかない。嘘をつくのはいつも人だ。だが機械は人の嘘を運ぶ。運ばせない方法は一つしかない。透明にして分けること。濁りを分けて流すこと。 凪の葬儀の夜カイはポンプ場の制御室に侵入した。扉は厚く室内はひんやりとしていた。制御盤は古い緑の塗装の上から何度も塗り直され剥がれた塗膜の下に別の時代の色が覗く。彼は目の前のモニターに映る水位の線を見て選択した。溢水を制御して取り残された地区を救おうとする。彼の指はキーを叩いた。キーボードの音は夜に乾いた音を落とす。それは犯罪者の音ではなく救助者の音だった。だがその操作を政府はテロと断じ彼らへの弾圧が強化される。言葉が刃物になる瞬間を彼は胃のなかで感じた。雫はラップトップの前で彼の動きを追った。彼女はスサノヲのキーで開いた真予測の画面をグリッドに分割して彼に送った。彼は受け取る。ありがとうと彼は言った。そのありがとうは機械のどこにも記録されない。人の口から空気に出た音は壁に当たって角度を変え床に落ちて消える。消えるが誰かの耳の奥で小さな傘になる。 街では警備隊の姿勢が固くなり龍円のスタジオに向かう道路に検問が設置された。スタッフは迂回路を覚え地図に印を付ける。新堂が官僚との電話で声を低くした。違法の線を跨いでいないと証明するためには記録がいる。だが記録は今誰かの命より重いか。彼女は唇を噛んだ。彼女の中で倫理がきしむ。雫の選んだ違法を責める資格が自分にあるか。彼女は自分に問う。私は誰のために線を引いている。線はいつも誰かの肌を切る。切られた肌の側に立ちたい。それでも彼女は電話を切らなかった。切らなかったことがすでにひとつの答えだった。
太陽からのCMEが地球磁気圏に到達したのは明け方だった。空は薄い灰色で街は人の少ない時間帯の安堵に浸っていた。送電系統が次々と遮断され都市は昏い静寂に沈んだ。いつもは床下でうなる機械の喉が止まると人の心臓の音が急に大きくなった。誰もが自分の中の鼓動の重さを思い出し胸に手を当てた。信号機は眠り目覚まし時計は遅刻し冷蔵庫は呼吸を止めた。天井の換気扇が止まると部屋は音のない箱になり人は初めて箱の内側にいることを知る。 同時に超台風麒麟は紀伊半島南岸で速度を失った。AR-927の大気河川は山脈に押し付けられ雨は壁と化した。瀬戸内海は風向と気圧の位相に押されて共振し神戸から堺にかけての湾奥で水位が壁を乗り越えた。海は都市に返ってきた。プロメテウスウォールのゲートは停電で油圧が固まり手動介入が必要だが命令系統は途絶した。遠くのスピーカーは命じることを忘れ近くの手は戸惑うままに握られた。マンホールから吹き上がる水は蓋を持ち上げ道路を黒い舌で舐めた。川は都市の骨格を逆流した。 鷲津は官邸地下でヘリオスを起動した。スクリーンにはドローンの群れが狼煙のような点となって現れ食料と医薬品を配る経路を最適化していく。救助対象に点数が付けられ優先順位が滑らかな曲線となって並ぶ。そのアルゴリズムは合理的だ。合理は音楽のように美しい。しかしその音楽は沿岸のスラムの音を拾わない。アンダーコーストの人間は統計上助からない人だと機械は言った。助からないという言葉は救えないより重い。助けるという動詞が生きていることの証明だとすればそれを否定されることは存在の剥奪に近い。黒瀬は画面を見つめ冷静に報告する。この優先順位は倫理上の議論を呼ぶでしょう。だが時間がない。鷲津は唇を固く結ぶ。ならば私が悪になる。彼は声に出して言わなかったが胸の中で言った。 雫は鮫島の勧めで躊躇を捨てた。スサノヲキーを起動しアマテラスの真予測を短波とFMの海賊ラジオで紙の手書きマップとともに配る作戦に移った。京都の古い寺院の屋根裏に据え付けられた送信機が恩師小堀源一の手垢を光らせながらうなりを上げる。雫の声が飛ぶ。次の一時間は風が巻き返す。湾奥の角に船をくさび状に固定して重心を下げて。彼女の指は子どもの鉛筆のように紙に矢印を描き寺の出入り口に貼った紙の地図に押しピンで留めた。鮫島は同時に画面越しの恐怖を煽らない言葉で日用品で作れる救命具の作り方を読み上げる。彼の声はバーテンダーが最後の客に水を渡すような穏やかさを持っていた。今静かに動きましょう。静寂は恐怖を膨らませる前に一つ深呼吸を入れる時間になった。 龍円は中央の許可を待たず独自に堤防の脆弱箇所の開削を命じた。内水を海に逃がす賭け。賭けという言葉は軽いがその賭けが人の家を通った。その家には神棚があり教科書があり冷蔵庫に貼られたマグネットがあり犬の毛が畳に落ちている。彼女はそのすべてを知っている。知っていてなお決める。決める者だけが生む傷がある。彼女は夜に独り手のひらのしわを指でなぞった。しわは誰かを救ったときの微かに残る粘り気を覚えている。電話の向こうから市長が叫ぶ。政治生命が終わるぞ。龍円は返す。私の生命の定義は今日別のものになりました。電話は切れた。 カイはプロメテウスウォールの内側に逆流の圧力がかかっているのを読み取った。上層都市の一角を浸す代わりにアンダーコースト全体の水位を落とせる場所がある。彼はそこに向かった。ゲートの一つ。鋼鉄の巨体。門は閉ざされ油圧の筋肉は静止している。手動で開ける必要がある。彼は手のひらに血の味を感じた。雫は無線で制止する。そのゲートはダメ。上の街が。彼は静かに答える。どこかが沈む。どうせならこれまで沈まなかった場所が沈むべきだ。その言葉は正義ではない。正義はいつも遅い。彼の言葉は平等でもない。平等はいつも抽象だ。彼の言葉はただ現実だった。彼は力を込めゲートの機構に圧をかける。軋み。鋼鉄の悲鳴。ゲートはゆっくりと開く。水が一気に来る。彼はその瞬間だけ凪の笑い声を聞いた気がした。彼の足元で水が踊り彼の体は冷たさに軽く震えた。それは恐怖ではなく記憶の震えだった。 上層都市の安全神話は崩れニュースは激昂する市民の叫びを拾った。ガラスの扉の向こうで誰かが拳を振り上げる。誰かが膝から崩れ落ちる。鷲津は官邸でモニター越しにその光景を見て薄く眼を閉じた。点数化された命の差別が逆方向の波となって自らに押し寄せた瞬間だった。彼は記者団の前に立ちゲート開放は私の指示だと嘘をついた。カイを守るための嘘か国家を守るための嘘か自分でも判然としないまま彼は責任を被る。黒瀬は唇を噛み三楽は静かにログを記録する。人間は非合理のために美しいと彼は初めて小さく笑った。官邸の廊下の灯りが小刻みに震えた。地球の磁気の息を直接電線が吸っているみたいに。 寺のラジオからは雫の息が少しだけ上ずった音で流れ続けた。彼女の声は方向を示す矢印でもあり胸の奥を撫でる手でもあった。彼女はマイクに唇を近づける。聞こえる。誰かの頷きが電波の底で光るのを彼女は確かに感じた。
嵐の後。街は濡れているのに乾いた匂いを放った。死者数は予測よりも少なかった。だが十分に多い数だという事実はひとりひとりの名前の重さとして雫の前に皿のように置かれた。蒼海賊は壊滅的打撃を受けカイは行方不明になった。海に沈んだのかどこかの屋根裏に潜んでいるのか誰も知らない。救難旗だけが濡れた鉄骨に絡みついていた。半分白い布は半分の希望を示す。誰かが引き上げようとして指の跡を残している。凪の名は若者たちの間で密やかに呼ばれ続ける。呼ぶことが死者を生かす唯一の術だと彼らは知った。呼ばれた者は耳に風を感じるという噂が生まれ噂は祈りに変わった。 鮫島は危険な橋を渡りながらも暴露を抑制したことが結果的に初動避難に寄与したと知りジャーナリズムの新しい形を模索し始めた。沈黙の列島という長編ルポを連載で出す準備をする。そのタイトルの下に被災現場の子どもたちの手描き地図を必ず掲載するのを条件にする。彼は子どもたちの地図の線の揺れを見て自分の半生の言葉の線がいかに硬く固まっていたかを恥じた。柔らかさの価値。柔らかさは弱さではない。柔らかいものは壊れづらい。彼は編集会議で怒鳴るのをやめることにした。声を落とすことが届く範囲を広げる日があると知ったからだ。 龍円は中央の許可ではなく現場の判断で動いた経験から分散型マイクログリッドと水を受け入れる都市スポンジシティの構想を打ち出した。青い梯子計画。青は水の色であり梯子は上へではなく波打ち際から内陸へそしてまた海へ降りるための道具だ。都市が水を受け入れるために柔らかくなる。硬い護岸を剥がし土と植物で編まれた緩やかな傾斜をつくる。排水路は一本の早い線ではなく多様な細い線の束として住民の足元を行き来する。電力は巨大な発電所からではなく屋上の薄いパネルと風の縁を捕まえる小さなタービンと海のゆっくりした呼吸から集める。停電は暗闇ではなく薄明かりになる。彼女の会見後高齢の漁師が市庁舎の前で帽子を取って頭を下げた。海を敵と呼ばない首長は久しぶりだと彼は言った。龍円は涙を堪えた。彼女の背中で新堂がそっと息を吐いた。政治の言葉が初めて町の呼吸と同じリズムで響いた瞬間だった。 新堂は雫を正式に顧問に迎えようとした。会議室の透明なガラスの向こうで彼女は笑って首を横に振った。ごめんね。私はアマテラスを解体し地域ごとに透明な手法で再構築する雨土プロジェクトを立ち上げる。ブラックボックスを民有のガラス箱に変えるために。ガラス箱は叩けば鳴る。中身が見える。誰でも叩ける。誰でも修理に参加できる。予測という権力の中心を広場に置く。新堂は唇を噛みそして笑った。彼女は雫の選ぶ道が彼女自身を傷つけることがあることも知っている。だが傷こそが軌跡になるのだ。彼女は支持のための段取りを整え寄附と人材と法的枠組みの隙間を繫ぎ合わせた。彼女の仕事は見えない縫い目を街に増やすことだ。 鷲津は議会で証言し辞任に追い込まれた。彼は最後の会見で秩序は命を守るが時に命が秩序を選び直すと言い残した。その言葉は称賛も嘲笑も浴び彼が悪か善かは誰にも簡単には言えないまま時が流れる。彼は田舎の海辺の小屋に戻った。防風林の前に立ち風の音を聞いた。風の音は海の色を教えない。海の色は目で見るしかない。彼は目を細め風に背を向けた。背中が塩で湿った。彼の掌にはまだ図面の紙の感触が残っているような気がした。彼は紙を探したがそこには砂しかなかった。砂は図面にならない。砂は足跡になる。彼は歩いた。 三楽はSILENCE-γの全ログを分析しヘリオスの次版KAGUYAを地方自治体向けに売り込んだ。彼の善悪なき善意は今度は分散の文脈に寄り添うふりをしてより深く社会に忍び込む。KAGUYAはあなたの共同体の意思を表現しますと彼は言う。意思は数式に変換され現実は意思に従う。ある程度は確かに。彼は雫にもう一度声をかける。システムは人を殺すのではない。使い方が人を殺すのだ。雫は答えない。ただ海辺の仮設ラボで子どもたちと一緒に風向計を組み立てる。風向計の矢印がどの方向にも偏りなく回るように糸の張り具合を調整する。風の強さだけでなく気まぐれさをも測る器械。彼女の眼差しには数式の正確さと人間の不規則さの両方が宿っている。彼女は子どもに言う。矢印が止まらないのは壊れているからじゃない。世界が動いているからだよ。 夜になると雫のラジオはまた灯る。寺の屋根裏の送信機は古い金属の匂いをもう一度蘇らせる。彼女は準備の言葉を静かに読み上げる。今夜は北から湿った風。窓の鍵を確認してそれから隣の家のドアをノックしよう。放送を聞いている誰かがドアをノックする。その音が生む関係の糸は予測にない線として街を縫う。路地で会釈を交わすだけだった隣人が名前を名乗り合う。名前を知ることは救助の第一歩だと雫は知っている。匿名の群れではロープは渡せない。顔を知る群れだけがロープを手渡す。 どこかで蒼い髑髏旗の半分白い救難旗が再び掲げられたという噂が流れる。真偽は分からない。港の鉄骨に風が触れる音は旗がどちらを向いているかを教えない。誰が敵で誰が味方かは今日も海の色のように変わり続ける。それでも関係は絡み合い反発しまた結び直される。善と悪指導と受益支配と解放の境界を人々は波打ち際で何度でも引き直す。引き直した線はまた消えまた描かれる。その繰り返しが社会の筋力になる。 南海トラフの微小地震は止まず太平洋の温度は未だ高い。天気図の等圧線は指の跡のように日本列島を撫で次の低気圧の影をやわらかく落とす。雫の胸ポケットの流木片は今も温かい。その温もりは彼女の掌から出たものだが同時に海から来た。木は海を渡り人のポケットに入りまた海に帰るかもしれない。物語もそうだ。誰かの手から手へ透明な杯のように移動する。最後に残るのは手の温度が移った傷跡のような熱。雫は子どもたちの指先が風向計の矢を回すのを見て笑った。彼女の笑いには海の塩が混じり街の埃が混じり人の汗が混じる。世界は汚れている。しかしその汚れが命を支える。白一色の世界では人は生きられない。色は混じり音は重なり風はいくつもの方向から同時に吹く。 雫はラジオに向かいマイクに唇を寄せた。聞こえますか。誰かがどこかで頷く音がした気がした。それは測定できない音だ。私はここにいる。あなたはどこにいる。彼女は続ける。その問いが暗い海の上で小さな光になる。漁師の祖父の古い短波無線機のダイヤルに誰かの指が触れる。彼は凪の名前を心のなかで呼び笑う。笑いは風に乗り寺の屋根裏をくぐり街の角を曲がる。列島は静寂の後のざわめきを取り戻しつつある。ざわめきは雑音ではない。ざわめきは命の証明だ。人々はそれぞれの胸の中で小さな流木片を握りしめる。目を閉じると指先に木の温度が残る。彼らは歩き出す。次の低気圧がまもなくやってくる。準備は儀式ではなく呼吸だ。呼吸を合わせることができるかどうかが社会のすべてだ。雫はマイクのスイッチを切り子どもたちと一緒に屋根から見える海を見た。海の色は今日も変わる。変わることがこの国の正体だ。誰かが旗を上げ誰かが旗を降ろす。旗の布は濡れ乾きまた濡れる。そこに記された髑髏の青と白の救難の半分ずつは永遠に混ざらない。混ざらないままで同じポールに縫い合わされている。それが今の精一杯の知恵だと雫は思った。遠くで雷が小さく合図する。彼女はポケットの流木を握り行こうと小さく言った。誰も聞いていないが海は聞いている。海は答えないがいつだってそこにいる。物語は静かに次の章へと続いていく。