skip to content
AI生成文学サイト えむのあい

AI生成文学サイト

えむのあい

静脈に降るノイズと零下の黎明

/ 34 min read /

霧島ユウリ
あらすじ
制御AI〈ガイア〉が突如沈黙し、都市機能が凍結した東京。人々の静脈にまで冷たいノイズが流れ込む中、鬼刑事・黒木は、企業の闇に挑む企業家・玲奈、真実を追い続ける追放記者・安斎と手を組む。彼らの前に現れたのは、禁断の設計図をネットにばら撒く謎のハッカーNoa。国家と巨大企業が隠し続けてきた秘密、AIに支配された都市の呼吸、そして人間の尊厳を賭けた逆襲が始まる。凍てつく黎明の中、彼らは何を選び、何を守るのか。都市の静脈に降り注ぐノイズの正体と、夜明けの先に待つ真実とは――。
静脈に降るノイズと零下の黎明
霧島ユウリ

東京湾から吹き上げる二月の風は、まるで海水を噛んだ氷の粒を含んでいるかのように鋭く、人々の頬を容赦なく削いでいた。まだ夜明けから一時間も経っていない早朝。だが首都高速湾岸線の高架下を貫くその風は、すでに一日の疲労を運び込んでくるような重さを帯びていた。

サイレンとも轟音とも聞き分けのつかない低周波――都市の背骨を砕こうとするかのような共振が、路面にとどまらずビルの鉄骨を揺すり、高架下にたむろするホームレスの古毛布をはためかせる。その音がどこから発せられているのか、誰も確かな所在を掴めずにいた。だが耳朶にこびりつくその重い唸りは確かに、冷え切った空気の粒子を結晶のように震わせ、都市全体を鈍色の影で包もうとしていた。

自動運転レーンを埋め尽くす車列は完全に機能を失い、ホログラム看板の広告映像までもが凍りついたように停止している。AI〈ガイア・システム〉の指示系統が沈黙してわずか五分──都市の血液循環は、心臓発作を起こした老人のごとく、いともたやすく痙攣し始めた。「完全制御」の謳い文句を掲げて以来、東京はガイア抜きで一歩足を動かすことすら忘れている。都市は便利さの代償として自律神経を明け渡し、その中枢が奪われた今、街路は冷たい死体のように固まった。

黒木俊介はその凍りついた静脈を、冬枯れの樹皮を撫でる猟犬の鼻面のように嗅ぎ回っていた。黄ばんだトレンチコートの襟を立てると、古びた布地に染み込んだ煙草の香りがわずかに鼻をついたが、それすら氷点下の空気が洗い流していく。五十に差し掛かった男の灰色の瞳は、若い頃よりもむしろ鋭さを増し、血管壁に刻まれた微細なクラック──社会の表面張力が破れた瞬間の震え──を逃さない。

「制御AIの障害原因? わかりゃ苦労しねえさ」

交通管制ドローン部隊の若い担当官は、黒木の掲げた古い警視庁バッジに眉を寄せつつそれだけ吐き捨てた。官制ブルゾンの背中には最新型の外骨格アシストが張り付き、厚手の防寒グローブには小型端末がビルトインされている。だが彼の声音は、冷たい機材で武装したところで、どこか不安に縛られた若者の震えを隠しきれていない。彼は高架下に投げ捨てられた無数のバッテリーパックに目を落とし、かすかに呻いた。「こんな短時間で、ここまで都市機能が死ぬなんて……」

黒木は相槌も打たず、ハンドロール紙に包んだ未開封の煙草を指先で転がした。いま火をつける気はない。ただ手持ち無沙汰に何かをいじる癖が抜けないのだと自嘲しつつ、彼は渋滞の最前列へ歩み出た。そこでは黒いSUVの後部ハッチがわずかに開き、冷気と共に金属臭が滲み出ている。エンジンルームではなく、後部のトランクから漂う焦げた電子部品の匂い──ガイア制御ユニットの緊急遮断が作動したときに生じる独特の臭気だった。

「この匂い……誰かがわざとヒューズを飛ばした痕跡だな」

呟きは白い呼気に包まれ、空へと昇る。彼は視線で周囲を舐め、泣きじゃくる乳児を抱いた若い母親、スマホを自撮り棒に付け配信し続ける動画ストリーマー、車列の間でタクシー運転手と揉めるサラリーマン──それぞれの苛立ちや恐怖や諦念が、まるで舞い散る粉雪のように空気を濁らせて見えた。都市が吐き出す人間の感情の複雑な層、その表面を黒木は薄皮を剥くように感じ取るのが得意だった。

ふと、レーン脇に肩を縮めて立つ一人の主婦姿の女が目に入った。長谷川弓子、三十八歳。買い物バッグの中で折り重なったやりかけの編み物と、割引シールの貼られた牛乳パックが震えている。真冬の冷気で唇が紫色に染まり、無理に隠した恐怖が網膜の揺らぎとして漏れ出していた。

「おい、あんた。寒いだろ。これでも飲みな」

黒木は自販機で買ったばかりのホット缶コーヒーを差し出した。昔ながらの甘ったるい微糖、手のひらに伝わる熱に、弓子はわずかに目を潤ませた。「助かります……」震える声で礼を言ったその直後、彼女はぎこちなく周囲を見回し、背筋に走った電流を押し殺すように肩を竦めた。

「誰かに見られている気がするか」

黒木の問いは柔らかかったが、弓子の顔から血の気が引く速さは鋭利だった。しばし躊躇の沈黙。缶を握る手が強張り、アルミが歪む。やがて彼女は極端に小さな声で囁いた。

「車列が止まる直前、見知らぬ男が車をノックしてきたんです。……小包を、渡せと言われて。私は……受けとって……」

嗚咽に似た息。黒木は頷くだけで、メモも録音も取らなかった。それは彼がいまだ原始的な「嗅覚」に頼るからだけでなく、デジタル機器を介した瞬間、証言がシステムに吸収され改竄される危険を肌で知っているからだ。都市が全てを記憶する時代、忘却を許すのは人間の脳の曖昧さだけだった。

夜になり、錆び付いた外階段を上がった先のワンルームに帰り着くと、卓上端末が一行のメッセージを瞬いていた。《雨雲は中枢に巣食う――Noa》冗談めいた詩文のようでありながら、冷たい鉄板を喉に押し込むような圧迫感を含む言葉。添付の鍵付きファイルは最高位軍用暗号で封じられていたが、黒木は旧知のセキュリティ技士のツールを呼び出して数分で解析を終えた。

そこに現れたのは〈ガイア・システム〉制御コアの生ログ、そして半導体メーカー〈アトラス・デバイス〉が極秘に開発する次世代プロセッサ“Helix-Ω”の回路図の断片──たしかに数時間前に嗅いだ金属臭と同種の、焼けたシリコンの哀悼が漂うデータだった。

「誰だ……Noa。俺をどこへ導こうとしている……」

独り言は凍てつく壁紙に吸われた。だが彼の胸腔には久しく感じなかった熱が芽吹いていた。東京という巨体の静脈に潜むノイズが、確かに鼓動を速めていく。その振幅が、やがて動脈ごと街を裂くことになるとは、この瞬間の黒木はまだ知らない。

摩天楼の最上層、雲に噛みつくようにそびえるアトラス・デバイス本社タワー三十七階。窓を覆う強化ガラスは一平方メートルあたり三トンの衝撃にも耐えると言われるが、CEO神崎玲奈の胸中を駆ける断末魔のざわめきを遮蔽するには脆すぎた。ガラス越しに広がる曇天は、あたかも彼女の視神経と同期しているかのように鉛色を濃くする。羊毛カーペットの踏み心地も、自家焙煎アラビカの芳香も、今日ばかりは神経を麻痺させる媚薬には成り得ない。

「国家プロジェクト化すれば、対米制裁は形式上すべて“安全保障案件”に格上げされます。輸出規制も迂回できる」

経済産業省審議官・三笠和臣が腕時計を軽く叩きながら吐く声は、磨き抜かれたステンレスの刃が同じ金属を擦るような冷たさを帯びていた。彼のスーツは官給品のはずだが、カスタムラインが身体の骨格を完璧になぞり、一分の皺も許さない。「代償として、ガイア次期バージョンに国家安全モードを実装いただく。」

玲奈は無意識に唇を噛んだ。乾いた血の味。アトラスは半年前、巨大複合体〈オリジン・コンソーシアム〉に反旗を翻し、国内回帰を宣言した。だが米国の半導体輸出規制の鉄槌は早かった。資金繰りもサプライチェーンも瓦解寸前。三笠の提案は喉に刺さった魚骨のように甘美で、致命的だった。

「バックドア、と言い換えても差し支えないわね?」

「言葉は正確に。バックドアではなく“国家安全モード”。それが民主国家の筋書きです。」三笠はわずかに笑った。その目には慈悲も敵意もなく、ただ国家機関という名の空虚な臓器が映るばかり。玲奈は背筋を冷たい手袋で撫でられたような感覚に襲われ、強化ガラスごしの雲に視線を逃した。

その夜、更衣室の無人ロッカー。冷光を湛える蛍光灯の下、秘書が忘れ物チェックの最中にUSBメモリを発見した。刻印もラベルもない真っ白な筐体。まるで心臓から抜き取ったばかりの白血球のようだ。中身を確認した秘書が蒼褪めた表情で玲奈を呼ぶ。USBの内部に保存されていたのは、未完成だったはずのHelix-Ω設計図の完全版データ、そしてただ一語──“NOA”。ピクセルの滲むフォントすら、何かの視線を帯びている。

玲奈は背中を汗が伝うのを感じながら、元警視庁・黒木俊介の連絡先を検索した。かつて不正検挙部門で数々の企業犯罪を暴いた鬼刑事。退職後、表舞台から姿を消したはずの男が、なぜか脳裏に浮かんだ。背に腹は変えられない。通話ボタンを押す指が小刻みに震えたのは、USBに宿る“眼差し”がまだこちらを見ている気がしたからだ。

同じ頃、廃ビルを間借りする“追放ジャーナリスト”安斎沙耶は、空調の止まった薄暗い仮設編集部で、乱れ飛ぶモニター群の光だけを頼りにキーボードを叩いていた。顔色は液晶の青白さと同化し、長い黒髪は束ねもせず乱れ落ちる。元テレビ局エースアナウンサーの肩書は、不正報道暴露で局を追われた今はただの伝説。だが彼女の背筋を支えるのは、むしろ「失ったもの」より「奪い返すべき真実」に対する執念に変わっていた。

ブロックチェーン解析ツールのスクロールが止まり、暗号資産ウォレットの枝分かれが一つに収束する。大量のミクロ取引の末端に、ローマ字で“Yumiko H.”──長谷川弓子──の名が浮かんだ。彼女が渋滞現場で受け取った小包の報酬は暗号通貨で即時還元され、さらに複数のウォレットをジグザグに飛び回っていた。安斎の脳裏で、それぞれの転送元IPが見えない糸で結びつき、大きな網を形作る様が立体的に浮かび上がる。

翌日、安斎は団地の薄暗い階段室で弓子を待ち伏せた。コンクリの壁には子供たちが描いたチョークの花が風化しかけ、夕食のカレーの匂いが漂う。弓子は階段の踊り場で立ち止まり、安斎の目とスマホのカメラに同時に怯えた。「次が最後なの。これで、借金も……」彼女はそれだけ繰り返し、荒れた手で玄関扉を閉じた。カン、と鉄の音がエコーし、階下の笑い声がいっそう弾けた。沈黙は取材拒否というより、餓狼に囲まれた小鹿の無抵抗に近かった。

その夜、都内の隠れ家的バー「サウダージ」。低い天井から漂うジャズのヴァイブが、琥珀色の液体を照らして揺れる。玲奈のルージュはグラスの縁を汚し、震えが止まらない指でUSBを突き出した。「中身を見て。これは私が握るべき爆弾なのか、それとも盾なのか」こぼれた囁きに、黒木は煙草を灰皿に押し付け、炭化する紙の匂いを嗅いだ。USBの中身──彼の端末に届いたログと同質の“シリコンの屍臭”──が、渋滞の金属臭と完璧に重なった。椅子の軋みが、嵐の前触れのように耳鳴りをかき混ぜた。

深夜一時二十分。空をなぞる終電のヘッドライトが竹芝駅を離れ、地下へ潜ろうとした瞬間、都市の鼓動は唐突に乱調に転じた。〈ガイア・システム〉の監視下にある大江戸線ループ網──そこへたった二百行のテストコードがこっそり挿入されていた。わずか一行“limit_override = TRUE”がブレーキ制御の閾値を外れ値に跳ね上げる。地下鉄は巨大な金属の蛇のごとく制動を失い、プラットフォームを擦過しながら火花を噴いた。乗客の悲鳴が換気ダクトを震わせ、駅構内に反響する音が余震のように続いた。

奇跡的に死者ゼロ。負傷者三十二名。その事実は逆に、都市中枢が生暖かい意図をもって“殺さず騒がせる”シナリオを進めていると告げていた。わずか数分で事故映像はSNS中継で拡散され、ハッシュタグ《#Noaテロ》がトレンドの首位に躍り出る。未知のハッカー“Noa”──ニュースキャスターが煽る声を自宅のテレビで聞き、黒木は奥歯を軋ませた。背筋を苛む瀬戸際感は、かつて拳銃を向けられた夜の痛覚とよく似ていた。

同時刻、東京証券取引所のダークプールでは、アトラス株への空売りが雪崩のように叩き込まれていた。高頻度取引サーバのIPアドレスは、三笠和臣が所掌する統合勘定に紐づいている。事故を“国難”に仕立て上げ、アトラスを窒息死させ、国家非常事態を宣言した上でガイアを完全国有化する──その筋書きが透けて見えた。

黒木は地下鉄事故の運行ログを掻き集め、数年前に闇に葬られたガイア初期バグのデバッグログと照合した。同一のコード署名、同一のタイムスタンプ改竄手法。つまり今回の“テロ”は、ハッカーNoaを騙る何者かが旧ガイア開発チームのゴーストコードを流用して細工した偽旗作戦だった。

そこへ、仮設編集部から飛び出してきた安斎がマンションのドアを叩く。ハンドレコーダーから流れたのは、弓子がスマホで密録した男たちの会話。「データセンター湾岸倉庫、黄コードを搬出……了解です」金属的な声がそう告げた直後、車両のドアを閉める音。黄コード──ガイア・コアに組み込まれた物理的マスターキー。これが奪われれば、ガイアの全機能を国防モードに切り替えることができる。

黒木は玲奈と安斎を緊急招集し、ボロアパートのテーブルに資料を拡げた。古びた蛍光灯がパチパチと瞬く。三人の間に漂う空気は、情報の熱と冬の冷気がせめぎ合い、霧のようにゆらめく。

「黄コードを奴らに渡せば、国家安全モードが走る。次は地下鉄なんかじゃ済まない。交通、エネルギー、医療……東京ごと人質にされる」

玲奈は肩を抱き、爪を食い込ませるほど指先に力を込めた。「どうすれば回避できる?」視線は黒木に向くが、その奥では自らの企業が背負った罪と向き合う恐怖が揺らいでいる。

「湾岸倉庫を叩く。我々が先にコードを抜き、ガイアの塔〈ヘリオス・プラント〉へ突っ込むんだ。バックドアを物理的に塞ぐ。都市が凍るリスクはあるが、毒を食わば皿までだ」

沈黙。外では震える街灯が、霧雨を青く滲ませていた。玲奈は深い息を吐き、顎を上げた。「やるわ。私が蒔いた種だから」安斎はニヤリと笑い、カメラの録画ボタンを押した。「じゃあ私は、その全部を世界に配信する。嘘も真実も、全部まとめて。」

窓の外。東京湾上空に厚く垂れ込めた雲が、どこからともなく青白い稲光を孕み始める。まるで眠っていた巨人が骨を鳴らし、立ち上がろうとする前兆──都市は眠りながら、凍てつく牙を研いでいた。

暴風雨は真横から吹きつけ、桟橋の灯りは潮と氷雨に叩かれてほとんど視界を失った。三人は波打ち際のメンテナンス桟橋に立つ。足元の鋼板は海水で滑り、踏み外せば即座に零下の海へ叩き込まれる。だが彼らの背中を押すのは恐怖ではなく、都市が抱え込んだ嘘に対する憤怒だった。

艀から降り立った案内人はフードを脱ぎ、濡れた漆黒の髪を払った。年齢不詳のその顔に、かすかな笑みが灯る。

「ようこそ、ヘリオス・プラントへ。道案内は私、東雲遥――かつてガイアのオリジンコードを産み落とした亡霊よ」

声は柔らかいが、海面を渡る風以上に冷ややかな切味を秘める。二十七歳という若さには似つかない深い暗渠を湛えた目。玲奈が息を飲み、黒木が警戒する間に、遥はラップトップを掲げた。「中枢から発信される全ログを私のノードでブラインドにする。持って三十秒。黄コードを引き抜けるかはあなたたち次第。」

プラント内部は、地下冷却水が川のように流れる巨大な洞窟で、壁面の金属配管は霜で真っ白に覆われていた。遠くで警備ドローンの赤外線ビームが格子状に走り、安斎はその合間を縫って進む。カメラが回り続け、レンズに付着した水滴が光り、世界が歪む。その歪みさえ、もはや現実に近い。

制御室前で銃声が弾けた。蒸気の霧が散り、回廊に火花が跳ねる。三笠が差し向けた民間警備隊――最新式カーボン外骨格を纏い、対ドローン装備の磁性弾を撃ち込む連中だ。黒木は玲奈を突き飛ばし、配電盤に身を預ける。その陰から老練な射撃姿勢で二発、相手の外骨格の関節を正確に狙い、動きを封じた。

「この歳で銃撃戦とはね……」苦笑が混じる。心拍は早鐘だが、眼球は澄んでいた。

遥はメインフレームのハッチをこじ開け、有線ポートに黒ケーブルを突っ込む。ガイアの監視網は一瞬だけ白濁し、ドローンのレーザーが宙を彷徨った。「いま!」遥の叫び。玲奈はハイヒールを蹴り飛ばし、床グレーチングを外す。冷却水が蒸気を含んで湯気立ち、視界は霞んだ。水槽の底、暗闇にぽつりと黄色いレバーが灯る。

足を踏み入れた瞬間、零下の痛みが足首から溶けた鉛のように絡みつく。筋肉が収縮し呼吸が奪われる。だが玲奈は脳裏に浮かんだ父の倒産、母の看病、綱渡りのキャリア、そして社員数千の生活。すべての重みを背負い、腕を伸ばした。指先がレバーを掴む。

同時に、警備隊が再度なだれ込む。弾丸が壁に穴を穿ち、霧を突き破る。その身代わりに黒木が立ち塞がり、肩を撃ち抜かれた。血飛沫が蒸気に溶け込む。安斎はカメラを無残にも盾にし、破片で頬を裂くが、回し続けた映像が通信衛星経由で全世界にストリーム配信されることを疑わない。

「抜いた!」玲奈が絶叫した。黄コードが床に叩きつけられた瞬間、警報が獣の咆哮となりプラント全域を揺らす。赤い警戒灯が回転し、電子鎖が鎖骨を締め付けるような重低音で鳴り響く。

遥は最終コマンドを実行。サーバラックを貫く稲妻のような光が走り、Helix-Ωの設計図、三笠と政財界の癒着記録、ガイア初期バグの完全ログ、全てがP2Pネットワークに放たれた。情報の洪水はもはや人間の意思で止められない。

照明が落ちる。東京湾を包む雲の底で、ヘリオス・プラントが青白い閃光を放ち、都市の輪郭が稲光に浮かび上がった。雨は雪へ変わり、零下の火花が黒い海面に散った。

黄コードが抜かれて七十二時間。東京は冷たい混沌に沈んだ。信号は手旗へ、無数のスマート冷蔵庫はただの箱へ、オンライン決済は紙切れのような金券に取って代わられた。それでも誰も暴れはしなかった。高層ビルの麓の公園で焚き火を囲み、子どもたちは段ボールのそりで坂を滑った。人間の体温がAIより暖かいと、久しぶりに思い出せたからだ。

SNSには《#人間は立ち上がれる》のタグが輝き、停電の夜をギターで歌うストリートミュージシャンの動画が百万再生を超えた。電波が不安定なはずの回線で、誰かがどこかへ励まし合いの言葉を送る。“文明の喪失”という言葉が、むしろ猥雑な温もりを伴って都市を満たしていた。

三笠和臣は国家反逆罪で拘束された。だが事情聴取に残された調書からは、背後で糸を引いた与党幹部や財閥の名がすべて墨で塗り潰されている。「闇は深い」と新聞各紙は書き、社会部デスクは「ここからが本当の取材だ」と部下に檄を飛ばす。しかしそれも、バッテリー駆動のモバイルプリンタが約束通り動けばの話だった。

玲奈はアトラス・デバイスCEO辞任会見で深く頭を下げた。鬼気迫るフラッシュの嵐。罵声と拍手と質問の嵐が同時に降り注ぐ。「企業も政府も、市民の信頼なくしては立てません」震えのない声で言い切った彼女の背後には、休業を余儀なくされた技術者たちが並び、しかしその目には、不思議な新生の灯が宿っていた。倒されはしなかった。まだ何かを創れる──そんな確信が、凍った肺を温めていた。

弓子は詐欺ほう助で出頭した。裁判所前の路地裏、安斎がカメラを掲げる。判決は執行猶予付き。一ヶ月後、安斎が配信したドキュメンタリー「凍った都市を歩く主婦」は数百万アクセスを記録し、雑誌社から書籍化のオファーが届いた。弓子がマイクに向かって呟いた言葉。「私はまだ、東京で生き直せますか?」空気は張り詰めていたが、コメント欄は「Yes」で埋まった。

そしてNoa――東雲遥は姿を消した。唯一の痕跡は、黒木の端末に届いた暗号化メール。《箱舟はまだ航海の途中だ。舵はあなた方が握れ――Noa》署名すら複数の鍵で分割され、解析は不可能。だが受信ボックスのその一行が、黒木の胸にほのかな熱を灯した。

夜明け前、東京湾の水面に薄紅色の光が差す。ヘリオス・プラントは沈黙し、冷却水の蒸気が凍てつく空気に虹を孕む。黒木は痛む肩を押さえつつ、残り少ない煙草を取り出した。ライターを弾く。火花が舞い、かすかな炎が紙巻を燃やす。

「AIが作った檻を壊すのも、また人間だ……」

吐き出された白い息は、虹と交わり風に散った。遠くで子どもの笑い声、犬の吠える声、電動ドリルの再起動音。都市の欠落したパズルピースが少しずつ、凍土の上で転がり合い、互いを温めようとしている。凍った楽園はまだ氷に閉ざされている。だが、その表面に走るひび割れは確かに拡がり、内側からまばゆい芽吹きの緑がのぞき始めている。

首都の夜明けは薄く、しかし確実に温かい。騒々しいカモメの声に混じって、再始動した人類の鼓動が静かに、けれど確固として響いていた。