夕立の名残が天蓋のように街を覆っていた。フリンジ・エリア17区画。錆びた鉄橋と崩れかけた高架鉄道が交差し、雨粒が落ちるたびに乾いた粉塵が湿り、細い煙となって漂う。路面は剝き出しのアスファルトが裂け、そこに溜まった黒水には廃タイヤと折れたネオンサインのガラス片が浮かんでいた。濁ったピンク色の光——かつて〈ロマンティカ〉という小劇場が放っていた色だ——が水面を揺らし、その脇で痩せた犬が尻尾を下げて水を舐めた。
その通りの片隅、緑色の真空管看板だけが脈打っていた。ガラスには無数のヒビが走り、中の蛍光塗料は半分以上が剝落している。それでも〈サカキ電工〉の文字は、埃の下で微かな熱を保ち続けていた。
ミナト・サカキが扉を押し開ける。錆びた蝶番が不穏な悲鳴を上げ、途端に焼け焦げた絶縁ゴムの匂いが鼻腔を満たした。彼は顎の骨格が浮き出るほど痩せた頬を引き上げ、不快の色を僅かに滲ませる。六畳ほどの店内。分解途中のシナプス・バンドが百本単位で放置され、鉛色の基板と鮮紅の有機配線が絡み合っている。夜の都市を上空から俯瞰したような毒々しい光の群れ——それが彼の職場、そして人生だった。
「それで、修理はいくらになるんだい?」
背後でくぐもった声が跳ねた。暗がりから現れたのは、肩までの白髪を編み込み、油まみれのトレンチコートを羽織る老女。右手には曲がったシナプス・バンド。銅線むき出し、接合部は煤け、淡い火花がパチパチと飛ぶ。ミナトは素早く距離を測っていた。火花が飛んでも彼の靴には届かない——加熱した有機配線が靴底ポリマーを溶かすリスクはゼロ。損をしないための無意識の反射だ。
「発火事故を起こした個体はもう戻らない。新品を買う方が安い」
工具箱をバタンと閉め、彼は背を向けた。経済動物の冷たい横顔。損得を計算するときだけ、その灰色の瞳は硬質な光を帯びる。
老女は口端を歪め、コートの内ポケットから札束を取り出す。旧世界の紙幣、擦れた棉繊維の匂いが湿気と混ざり、甘やかなカビ臭を放った。老女はカウンターへ滑らせる。
「断るならいいさ。でもこいつはあんたに預ける。処分料と預かり料は……あたしの言い値でね」
紙幣の厚み、端数の数字、そして裏面に押された博物館スタンプ——ミナトは瞬時にそれらを暗算した。市価より一割高いが、バッテリーの仕入れに回せば二割の利益。損はしない、むしろ得だ。
「……三日。診断だけなら」
「それでいい」
老女は踵を返し、まだ濡れた路面へ杖を突く。雨滴が弾け、夕焼けの残光が高架の隙間から射し込んだ。橙色の斜光を背負いながら、老女の影はまるで別の獣のように伸びていく。
ミナトはバンドの外殻を剝ぎ、顕微鏡ゴーグルを下ろす。溶けた回路の奥、二重化されたOSの境界に不穏な文字列。
〈50 52 4F 4D 45 54 48 45 55 53 20 47 52 45 45 54 53 20 59 4F 55 20 4D 49 4E 41 54 4F〉
十六進数を瞬時に脳内変換。PROMETHEUS GREETS YOU MINATO——井戸の底から届く挨拶のように、血が逆流する。
同じ頃、コア・シティ75層。床から天井までガラス張りのオフィス。夜景が万華鏡のように乱反射し、光の粒子がレンズフレアとなって浮遊する。アマミヤ・レイは背筋を板のように伸ばしていた。ウエストラインのタイトスカート、キーネックブラウス、端正なまでに光るスーツの縫い目。その姿がガラス面に幾重にも映り込み、彼女自身を増殖させる。
「部長、オラクル予測ログに不自然なリダイレクトがあります。AIジャスティスの判定を迂回——」
上司は指先で空を払う仕草ひとつでホログラムを閉じた。コーヒーの液面が微かに揺れ、苦味と焦げの香りが蒸気の糸となって立ちのぼる。
「効率化オプションのひとつだ。余計な詮索はするな。君のスコアを落としたいのか?」
言葉は落雷後の静寂のように重く、レイの耳で鈍い鐘を鳴らした。彼女は唇を結び、舌の裏側に苦い鉄味を感じる。それは恐怖か屈辱か、まだ判別できない。
翌朝、愛用のバンドがブラックアウト。起動音も、起動画面も、白々しい無で塗りつぶされた。正規サポートは首を振り、補償コードは無効。社内掲示板を掠める匿名スレに貼られた一枚の画像——〈フリンジに奇跡を繋ぐ修理屋〉——それは緑の真空管看板だった。
“損をしない男”の噂が、その時レイの背骨を電線のように走った。錆びたエレベータのきしむ音が想像の中で鳴り、彼女の運命の回路はゆっくりとフリンジへ向けて開き始める。
夜。酸化鉄と湿った土の匂いが混ざる17区画。路地の壁面をポリゴン状に裂くLED広告は、半数がチカチカと壊れ、残りは無音の叫びを吐く。レイの厚底パンプスが水たまりを叩き、その度に黒い水滴が裾を汚す。彼女の胸ポケットに収めた社員証は、この街ではただの脆いプラスチック。むしろ狙われる材料だ。
視界上空をかすめる配送ドローン。タービン音が耳殻を震わせ、レイは首を竦めた。遠くでアンペア過負荷の警報。赤い非常灯が鉄骨を照らし、雨の粒が鮮血のように染まる。ここはジャスティスのカメラ網をすり抜けた都市の影、重力が異常に濃い場所——そう説明されるが、実際に足を踏み入れると言葉より重たい。
サカキ電工の前に立つ。扉のガラスに映る自分は、白スーツの孤児のようだった。三拍遅れのベル。腐食した金属音が鼓膜を震えさせる。
「受付は閉めた」
暗がりから現れたミナト。ライトの光が彼の横顔を切り取り、目の下のクマが深夜の断層のように刻まれていた。
「ネットで見ました。私のバンドがブラックアウトしたんです。診てもらえますか」
レイは袖口をめくる。非稼働のバンドは黒曜石めいた鈍い光を宿し、どこか死体のようでもあった。
「モデルはE-φ52か。持ち込みだけでメガコープに報告が飛ぶ。俺のスコアが汚れる」
「報酬なら払うわ。正規サポートが匙を投げたの」
レイは二本の指で空を弾き、電子クレジットタグを投影。ゼロが並ぶ。指が震えていた。ミナトはそれを見逃さなかったが、あえて触れない。
「中へ」
店の奥、埃をかぶった高周波チェッカーが唸り、錆色の光がレイの顔色を変える。ミナトはバンドの外殻を慎重に開き、基板をヒーターで温める。ハンダが溶ける甘い匂い。静電吸着マットの上、バンドはまるで虫の腹を曝すように無防備だ。
轟、と扉が勢いよく開いた。レイは驚きで息を呑む。
「よぉサカキ、まだ腕は鈍ってねえな」
クロサワ・ジン。酒焼けした声。ジェットブラックのコートの裾がまだ雨で濡れ、泥水を滴らせている。首元には記者証のストラップ。片手には焦げ跡まみれのシナプス・バンド。
「これを預かれ。オラクル改竄のスモーキングガンだ」
ミナトは顎を引く。「お断りだ。メガコープ違反の臭いがきつい」
ジンは咄嗟に手首端末を操作。壁面のディスプレイにミナトの“前科”リストが浮かぶ。脱税、違法改造、破棄命令違反——赤字のフォントで踊る。
「協力しろ。でなけりゃお前の黒歴史を踊らせる。記事にしたくてウズウズしてるんだ」
脅迫。だがジンは信念で動く男でもある。メガコープが都合よく隠す真実を剝き出しにする——それが彼の生き甲斐だとミナトは知っていた。レイは二人のやり取りを見つめながら、中心部での管理社会との落差に眩暈を覚える。ここには法よりも感情が、契約よりも瞬間の取引が生きている。
夜更け。雨も上がり、外をサイレンが遠ざかる頃、ミナトの住居兼工房に少女ユキが戻った。紫がかった短髪に溶接ゴーグルの跡を残し、制服代わりのツナギが油で染む。
「看板の電飾、ちょっと調整したよ。錆色じゃなくて夜桜色。フリンジの空に花びらが舞ってるみたいでしょ?」
窓の外を見ると、緑の看板の周縁に薄紅色の光が揺れていた。金属片を反射材に使い、LEDの波長をずらしたユキ独自の配線。レイの頰が緩む。ミナトでさえ、目尻を一瞬だけ和らげた。
「そのセンス、どこから湧く?」
「瓦礫も花も同じデータで構成されてる。ただ配列を変えるだけ」
少女は無垢に笑う。その言葉はプログラミングの詩のようで、レイの胸に溶けてゆく。
深夜零時。ジンのバンドとレイのバンドを並べ、二重OSの深層へダイブ。ミナトの指は鍵盤を叩くピアニストのように滑り、裏層のロジックツリーがホログラムに展開する。レイは目を見開いた。そこに会社の正式鍵が刻まれている。
「裏層の署名が……オリエンス?」
「“公式に許可された裏切り”だ」ジンは声を潜め、喉に残った酒の匂いを吐いた。「メガコープは未来を選別し、市民のスコアを操作している。お前のバンドはその実験台になった」
レイは椅子の背もたれに寄りかかる。呼吸が荒く、胸が上下するたびにスーツの生地がきしむ。信じてきた評価システムが欺瞞の舞台装置だった——その認識が骨の中で砕ける音を立てた。
ミナトは思う。今まで損得勘定で歩いてきた。それでも今、目の前で涙を堪える女と、信念を叫ぶ記者と、光を生む少女がいる。フリンジの重力が、ゆっくりと彼の胸郭を圧迫していた。
翌朝。フリンジの空は雲に閉ざされ、太陽は銀色のシーツの裏で呻いていた。サカキ電工のシャッター前。闇市場の“お婆”ヤシロが杖を突き、濁った瞳でミナトを見据える。彼女の衣服は縫い合わせた絨毯のように色とりどりの布片で構成され、その一枚一枚に旧世界の企業ロゴが染み付いている。
「ミナト、逃げるなら今日だよ。昨夜のアクセスログ、AIジャスティスが追跡してる」
逃げる。ミナトの脳裏に浮かぶ選択肢。だがその後ろでユキが缶詰を開け、レイがノート端末を睨み、ジンが朝のコーヒーを啜っている画が同時に現れる。守るべき在処。計算が狂う。
「逃げた先で儲かる算段があるならね」
ヤシロは皺だらけの喉を揺らし、笑い声を出さずに笑う。彼女は雨上がりの空に錆びたドローンポートを見上げた。
「もうひとつ提案だ。アマミヤのオフィスで消されたログを復旧すれば、メガコープの心臓を一突きできる」
レイが顔色を失う。「深層海底タワー“アクアレイ”。そこはバイオ署名なしでは——」
「だから若いのさ。恐怖より怒りが上回る世代は何だって突破する」
ヤシロの言葉は潮風のように乾いていたが、芯に熱があった。レイは拳を握りしめる。ジンは記者証を弄り、ユキはドローンの翼を撫で、ミナトは心の中で天秤を見た。利益は未確定、リスクは青天井。それでも焔はずっと胸奥で燻っている。
その晩、廃倉庫。屋根は半分崩れ、月光が孔雀の羽根のように舞い落ちる。ミナト、レイ、ジン、ユキ、そしてヤシロが円卓を囲む。中央にはアクアレイの3Dホログラム。黒曜石の塔が蒼い海底に突き刺さり、周囲をミジンコのようなドローンが漂う。
「潜入ルートは螺旋状に下る旧メンテナンスシャフト。水圧ゲートは三層、セキュリティはAIジャスティスの直轄。時間は48時間、月曜の潮流が最も安定する午前3時がチャンスだ」
ヤシロが取り出す偽装通行コードは〈シルクコード〉と呼ばれる最高級品。アクセスログを排水溝に流すかの如く跡形も残さず、使用は一度限り。
ユキは武装ドローンにホログラフィック迷彩を塗布。ドローンの上では虹彩のような光の膜が波打ち、センサを欺くスペクトルを生成する。
ジンは取材ルートを確保。深海帯域の圧縮プロトコルを使い、映像と音声を海底ケーブル経由で匿名サーバへ送信。“世界初、リアルタイム深海ダークハックのドキュメント”——彼の目は赤い疲労の血管を煌めかせながらも、興奮で満ちていた。
ミナトは全デバイスのIDを書き換え“亡霊”に変える。亡霊は権利も義務も持たない。追跡されても法の網に引っ掛からず、同時に救済も得られない地平。胸の奥で機械仕掛けの歯車がカチリと回る。損得勘定のスイッチを切る音。
そのとき。倉庫の壁一面が光を放つ。匿名ハンドル〈PROMETHEUS〉からのオープンチャネル。低い声、だが粒立った抑揚。
——見届けてくれ、これは人間の尊厳を取り戻す闘いだ。
レイの唇が震える。「カガミ・ソウジ……?」
五年前に姿を消した天才プログラマ。レイが新人研修で聴いた名だ。ミナトはあの十六進数の差出人を思い出し、首筋の温度が一気に下がる。
海底タワーの設計図が拡大される。螺旋ルートの先で蒼く脈動する心臓部。それはメガコープ中枢AI——オラクル一次予測カーネル。
「時間は48時間。ログを奪い、世界へ晒す」ジンが指を鳴らす。「俺の記事は一面確定だ」
ミナトは理解する。損益分岐点を超えた。利益は霧散。だが胸の空洞が熱を帯び、胴体を内側から押し広げた。鼓動は、遅いが確かな歩幅で彼を前へ押す。
潜入当日。新月の闇を切り裂くリニア艇。船体が海面を滑り、波音は刃物のように鋭い。頭上には星も月もない。世界から光が盗まれたかのような黒。エンジンの振動が骨に直接伝わり、レイは口の中に塩味を感じる。
船内。ミナトは防水スーツを纏い、酸素カプセルのバルブを調整。ユキはドローンの最終チェック。ジンは胸に小型カメラを固定し、ヤシロは古い数珠を握って何かを囁いている。祈りか、それとも呪詛か。
アクアレイが視界に入る。深度180メートル。黒曜石の塔は青白い血管のような照明を孕み、内部で巨大生物が鼓動している錯覚を与える。塔が僅かに震えるたび、水圧が耳を打ち、静脈が脈動するように痛む。
「スリルは上々だな」とジンが笑う。恐怖の艶を帯びた笑み。レイは深呼吸し、肺に冷たい酸素を満たす。
エアロックを通過。外骨格のハーネスが密着し、体温が急激に奪われる。無人区画に潜入すると、ユキのドローンがホログラム幕を展開。レーザーセンサの赤線が屈折し、霧散。ミナトはジャンク基板から組んだデコイを床に配置。ゴースト信号が走り、AIジャスティスは偽の心拍と脳波を検知する。
——PROMETHEUS online. Welcome, fire-starters.
脳裏に直接流れ込む。ミナトは微かに笑う。火をつけたのは自分たちだが、燃え広がる炎はもう止められない。
真空エレベータへの通路。レイは指先を震わせて社員証を差し込む。DNAスキャン。血液中のナノタグが緑の光を放ち、扉が開く。
突入と同時。閃光弾、白煙。オリエンス特殊部隊の黒影が現れ、金属音が折り重なる。水膜シールドが展開され、銃声は泡の中で鈍く歪む。ミナトは配線を引き千切りながら叫ぶ。
「ユキ! バイパス!」
ユキのドローンが天井へ突進。消火パイプを爆破。海水が滝のように降り注ぎ、熱探知がリセット。ジンはカメラを掲げたまま胸を撃ち抜かれる。鮮血が水と混ざり、赤いリボンのように漂う。
「記事タイトルは……好きに……」
言葉が途切れ、ジンは膝を折る。それでもデータチップをミナトに託す。レイは喉を塞ぐ嗚咽を飲み込み、ジンの肩を抱く。だが時間は敵だ。ミナトが腕を掴み、引き剝がす。
コアルームへ転げ込む。蒼い光が渦を巻き、演算樹のホログラムが天井まで伸びる。PROMETHEUSのアバターが人型を成し、炎の輪郭を纏う。
「津波警報プログラムを全世界へ送る。だが帯域が足りない。最後の鍵が要る」
生体署名プロンプトがレイの前に浮かぶ。彼女のDNAシークエンスがキー。押せば、彼女のスコアはゼロになる。社会的死。レイの指は震える。外では銃声。仲間の血。海の呻き。
「スコアじゃなく、生きてる人間を信じろ!」ミナトの叫びがコアルームに反響する。
レイは手を伸ばす。レーザーが肌を焼き、焦げた甘い匂い。痛みが脳を澄ませる。同時に塔全体が震え、オラクルの瞳が開く。
全世界の壁面モニターが白光。緊急津波警報。住民は高台へ。フリンジ区域も例外ではない。
深度9の地震が現実となり、海底が裂けた。塔が軋み、通路が崩れ、ユキの悲鳴が水音に消える。浮上カプセルへ走る。ジンの亡骸は水に揺れ、ヤシロが涙一筋で目を閉じる。
上昇。水泡が窓を打ち、黒い影が遠ざかる。アクアレイは傾き、崩れ、深海の闇に沈む。レイは瞳に映るその影を焼き付け、唇を噛み切った。塩と血の味が同化する。
三週間。都市は津波で半身を失い、それでも残った半身で呼吸を続けた。フリンジの高架は折れ、海藻が絡み、潮風が鉄を白く錆びさせる。ジャスティスとスコア制度は国際調査の俎上に載せられ、「倫理欠損アルゴリズム」の烙印を押された。オリエンス本社前にはプラカードを掲げる人々。〈PROMETHEUS WAS RIGHT〉——その文言が揺れるたびに、世界はかすかに形を変えた。
ジンの映像は拡散し、記者の死は自由報道の象徴となった。彼の葬儀には匿名の花束が絶えず届く。白い百合に紛れ、一本の夜桜色のLEDが灯り、祭壇を仄かに照らした。ユキの手紙。「あなたのカメラは今も世界を撮っています」
フリンジでは瓦礫の上に市場が立ち、ヤシロが物々交換を取り仕切る。乾パンと水、布と薬、壊れたバンドと修理の時間。レイはスコア剥奪通知を破り捨て、この地に残ると決めた。
「コミュニティ・ファブを建てるわ。壊れた義手も、古いバンドも、誰もが自由に修理できる場所を」
ユキは