日経平均終値が二万を割り込み、為替が一夜にして一ドル二百五十円を突破した二月の月曜、丸の内は夜明けの気配を拒むように低い雲を抱え込んでいた。七時二十分、帝都物産本社二十五階の役員応接フロア。自動ドアの圧搾空気が吐き出すわずかな風圧を正面から受け、高瀬美月は視界の端に映るカーペットの織り目すら計算しながら歩を進めた。踵が鳴るたび、磨き抜かれた床材が朝の青を跳ね返し、深紅のマフラーが揺れる。
ガラス越しに見下ろす皇居の濠には薄氷が残り、黒々と沈む水面は冬木の影を引きずっている。美月は視線をあえて遠景に固定し、胸郭の膨らみに合わせて酸素を刻むように吸った。今日という日が、自分の十年をひっくり返す可能性がある。だが恐怖よりも先に、長年押し殺してきた昂揚が血液に火を点ける。
取締役会議室の自動ドアが開く。檜張りの長卓に十二脚、平均年齢六十三歳の椅子が沈んでいた。灰銀のスーツに包まれた彼らの眼差しは、株価チャートから抜け出した赤線のごとく鋭利で、しかしそこに宿る光は老いた捕食者のものだった。
「高瀬君」
社長・市原浩二の声は、革張りの背もたれが軋む音と同時に滑り込んだ。万年筆の代わりに脈拍計を巻いた手首が、首筋の静脈より露骨に動く。彼は口角だけを持ち上げてみせる。
「政府タスクフォースに提出する新規調達案、君の言葉で」
待っていましたと言わずに、美月はノートPCを開き、内蔵ホログラフを起動した。照明がディミングし、檜の匂いを帯びた空気が凍りつく。蒼白い光柱が天井へ伸び、回転する世界地図を映し出す。
「レアアース主要三品目、ジスプロシウム・テルビウム・ネオジム。日本への輸出枠は来月二十日で実質ゼロとなります」
中国とミャンマー国境が赤く点滅し、室内の誰かが低く息を呑む。
「欧米系メジャーは南米、豪州鉱山を囲い込みました。残る選択肢はアフリカ。しかし既存航路は海賊リスク、コンプラ汚染で使えない」
指先でサハラ以南を拡大し、濃紺の空間に一本の青線を描く。中央アフリカからジブチへ走る非正規輸送網が格子点を瞬かせた。
「我々は迂回ルートにブロックチェーン連携型物流可視化プラットフォーム〈アマテラス・トレーサー〉を組み合わせ、サプライチェーンの透過性を七十二時間で担保します」
ざわ、と卓上の水面が揺れたような気配が走る。
「オリジン・インテリジェンス社?」
経営企画本部長・蒲生が声を押し殺した。
「高額で危険。しかも社長の神代玲はジーニアス・プロジェクトから逃げたはぐれ者だ」
投げつけられた名。それだけで檜の香りが冷たく尖る。美月は喉奥へ溜めた息をゆっくり流し込み、声を落とした。
「技術は文句なしです。偽装書類も途中差し替えも千分の一秒で検知する唯一のツールです」
「だが取引相手は選ぶべきだ」
「最短距離は毒蛇の棲み処です」
社長の眉がわずかに跳ねた。
「面会を要請します」
目を閉じた市原が一拍置き、許可を滑り込ませる。
「……やってみろ。ただし失敗すれば資源部ごと更迭だ」
紙より軽い承認。だが帝都物産において、サインは王命に等しい。
会議室を出ると同時に、暖房の風が頬を撫でる。東京駅の赤煉瓦が薄日を受け、深紅のマフラーが風を孕む。美月はスマートレンズで神代玲のスケジュールを強制呼び出し、白紙に等しいカレンダーの一点へ自分の名を打ち込んだ。
胸の奥で、沈んでいた鉄球がわずかに跳ねる。音なき起爆だった。
金曜夜、都心の気温は零度を割り、粉雪がLED広告の光を吸う。六本木ヒルズ森タワー五十一階スカイスタジオ。フロア中央には起業家と投資家四百人の熱気が渦を巻き、天井一面に浮かぶマイクロドローンが顔認証データをリアルタイムで売買していた。
壇上に立つ男のシルエットがライトに切り抜かれる。黒パーカーにスケートボードを抱えた神代玲、二十七歳。瞳孔は冷えた鉱石の芯を抱き、観客の脈拍を測るかのように動かない。大型スクリーンの株価ティッカーが、彼の一言ごとに跳ねる。
「技術に国境はない。だが技術を護る意志は、国境線からしか生まれない」
機械翻訳が多言語で重奏するが、原文の温度差は埋まらない。美月は客席中段で身を乗り出し、その声の振動を胸骨の裏側で受け止めた。言葉の刃ではなく、火が滑り込む。
スタジオ後方、ダークグレーのスーツを纏う一条蓮が腕を組み、客席のざわめきを数字へ変換していた。観客の歓声、SNSの急激なバズ、そして壇上を見つめる美月の横顔。彼の視線は冷えた戦略そのものだった。
ピッチ終了。VIPラウンジのシャンパンの泡がベース音に震える。コヒーレント光源のようなカメラフラッシュをすり抜け、美月は神代へ距離ゼロで接近した。
「神代さん、高瀬です。帝都物産の案件で――」
「握手の前に、これ」
差し出されたのは艶消しチタンのスケートボード。デッキには錫色の配線図。
「夜明けの多摩川で乗れ。頭脳は重力に晒されて研ぎ澄まされる」
言下に押し付け、彼は背を向けた。
残された美月は思わず笑みをこぼす。三十六時間後の臨時取締役会、リスクの山積。なのに胸に灯った火は雪より熱い。
背後で、一条蓮が電話を耳に押し当てた。
「B&Gの佐伯さん。帝都物産と神代が接近。アマテラスとレアアースを抱合わせればアスカ・モーターズは紙屑だ」
囁きは夜景に溶け、東京タワーのオレンジを濁らせる。
午前三時二十分。多摩川二子橋下、霧が水面を這い、街灯のハロウが乳白色にぼやける。美月はスーツの上着を脱ぎ、膝までタイトスカートをまくりデッキへ乗り込んだ。足裏に伝うカーボンの冷気が神経を直撃する。
「前へ倒れろ、重心を川へ投げろ」
背後から神代の声。フードの下、目が夜色に光る。彼はボードを自分の足で蹴り、並走しながら彼女の手首を支えた。
「石突きは恐怖を受け止める楔だ。体重を委ねろ」
言葉は比喩なのか物理なのか、判別する前に身体が応じる。車輪がコンクリートを滑り、霧が裂ける。頬を切る川風の鋭さが、脳髄に貼り付いた財務諸表を剥ぎ取る。
橋脚下に滑り込む。神代は缶コーヒーを投げ、ホログラムを投影した。網目状の物流経路が夜霧に浮かび、赤い断面が脈打つ。
「三カ月以内、アフリカ内陸で西と中が実弾衝突する。港湾は封鎖。帝都物産単体じゃ壁を越えられない」
スクリーンのロゴが赤く点滅し、冷気が肺を刺す。
「俺が壁を壊す。君はその先を走れ」
鼓動が川面に飛び散る。美月は西の空にかかる薄闇を仰ぐ。
「あなたは瓦礫の上にしか立たないの?」
「新しい柱は、旧い礎を粉砕してからだ」
その目は透明で、狂気と無垢が同居する。美月は答えを結ばないまま、川の匂いを吸い込んだ。
週明け月曜九時三分。社内イントラネットのトップに真紅のバナーが踊る。〈オリジン社との交渉一時停止〉。クリックする指の骨まで震えた。アクセスカウンターは五〇分で七千ビュー。匿名掲示板には〈高瀬、やり過ぎ〉〈KD抜きの低リスク案で再編〉。
追い打ちはインフルエンサー遠野杏奈の投稿。
〈神代玲×帝都物産 極秘提携でAI独裁始まる?〉
ハッシュタグが竜巻を起こし、TSEは帝都物産株をストップ高から急落へと二度殴った。午後四時二十分、人事部長が無機質な声で告げる。「交渉窓口から即時更迭。休職扱い」
机の引き出しを閉じる音は、蓋のない棺のようだった。涙は出ない。怒りは水より重く、心臓を沈める鉛と化す。
二十二時一〇分、東京駅八番ホーム。夜行バス出雲エクスプレスのLEDが雪を照り返す。車内のデジタルサイネージがニュース速報を連射する。〈帝都物産、外資買収防衛策を放棄〉
窓に映る自分の顔は六年前、父の葬儀帰りの白みを帯びている。
——焦がれている。東京を焼く薪は足りない、とでも言うように。
夜明け前、島根県江津市。バスは霧雨を切り裂きながら山間を降りた。石見銀谷鉄道の無人駅。蛍光灯も点かないプラットフォームで、作業灯を掲げる宮田健太がヘッドライトを磨いている。
「よ、帰ってきたか」
美月は長靴の泥を気にしながら会釈する。潮風に混じる苔と鉄の匂いが肺を撫で、張り詰めた神経がほぐれる。
夜桜列車の準備が進む車庫。健太はタブレットで内装図を示す。SNS配信用360度カメラ、車内音響のイコライザ設定。地方線の生存戦略が詰まった画面を見つめ、美月は思わず笑みを零した。
イベント当夜。闇を裂くヘッドライトが山桜を浮かび上がらせ、ロータリースピーカーが三味線とエレクトロを混ぜた低音を吐き出す。車窓の向こう、花弁が乱反射してレーザーポイントのように弾ける。
中間車両。健太が紙コップの日本酒を差し出す。
「鎧を脱いでも、君の光は消えない」
穏やかな火照りが胸を満たす。だがスピーカーがスポンサー名を読み上げた瞬間、血が凍る。
〈協賛:キュクロス・キャピタル・ジャパン〉
ドアが開き、ホームに降り立つ長身。一条蓮。灰銀のスーツが夜桜を映し、眼差しは氷刃。
「地方創生は最高の広告だよ、宮田さん」
健太と握手しつつ、美月の瞳を射抜く。炎を奪い返しに来た略奪者の視線。
空調が止まったかのように、車内の空気が凍り付いた。
東京へ戻った晩、オリジン・インテリジェンス本社のガラスファサードは非常灯の青で不気味に輝いていた。サイバー攻撃と物理侵入が同時に行われ、アマテラスの学習ログ三割が暗号化されないまま持ち出された。床一面に散る基板は、内部臓器を露わにした獣のよう。
神代はCSOを怒鳴り散らし、遠野杏奈を呼び出した。
「君の炎上記事が扉を開いた。理解してるか?」
杏奈の瞳が揺れる。
「あなたは人を道具としか見ない。けれど……私は、あなたを炎上させてでも止めたかった」
声が震え、沈黙が落ちる。
深夜二時、渋谷のスクランブル交差点に雨が打ち付け、ネオンは水彩のように滲む。美月のタワーマンション。インターフォンが鳴り、ドアを開けると神代が傘も差さず立っていた。濡れた髪から雫が滴り、瞳には捨てられた子供のような影。
「誰かを信じる方法を、俺は持っていない。だが……君だけは」
途切れた声に、美月は手首を掴み部屋へ引き入れる。床に落ちるパーカー、暖房の熱で蒸気が漂い、夜景がガラス越しに歪む。
ソファに腰を下ろした神代は拳を握りしめた。
「父は経産官僚だった。技術を護ると言いながら票と献金に魂を売った。俺は裏切りの構造から逃げられない血筋だ」
肩の震えをごまかすように笑う彼に、美月は頬を寄せた。
唇が触れた瞬間、窓外のネオンが柔らかなボケを帯びる。都会の摩天楼が遠い星図に変わり、二人だけが焦点に残った。
だが夜明け前、スマートレンズが緊急速報を叩きつける。〈帝都物産、キュクロス・キャピタルの買収提案受諾へ〉〈レアアース事業外資管理〉〈二万人リストラ計画リーク〉
佐伯と蓮の包囲網。美月は立ち上がり、神代、杏奈、社内若手アナリスト加納遥へ暗号チャットを送る。
ファミレス深夜区画。カーテンで仕切られたボックス席で、皿を片付ける店員をやり過ごしながら、帝都物産買収阻止タスクフォースが誕生した。
「情報のスピードで資本の刃を上回る。四十八時間で叩き返す」
神代の声に、杏奈がハンカチで目元を押さえつつ頷く。遥はキーボードを叩き、健太へ招集のビデオチャットを繋いだ。
三日後、石見銀谷鉄道の車庫に停車する老機関車「いわみ一〇一号」は、鏡面めいた銀へ再塗装されていた。車体内部にアマテラスのエッジサーバー、衛星通信アンテナ、空冷リチウムユニット、ドローン十機。健太が運転台でチェックリストを読み上げる。
「主変圧器よし、制動圧力正常、衛星リンクスタンバイ」
神代はノートPC三台を並べ、加納遥が地質データを投影する。
「父の遺した座標と磁場異常点が一致。ネオジム濃度、想定比三倍」
深夜二十三時、臨時列車は山陰の闇を滑り出した。車輪がトンネルへ入り、真空めいた静寂が一瞬、鼓膜を圧迫する。列車が再び夜気に躍り出ると、衛星リンクが開通しアマテラスがドローンを射出した。
機外カメラが映す山肌。マグネトメータが虹色のデータを吐き、赤い帯が画面に立つ。
「ネオジム濃集帯……ここだ!」
歓声が弾けた瞬間、車体が揺さぶられる。屋根に衝撃。次いで銃声。
「伏せろ!」
佐伯の差し向けたスパイ部隊がジャマーを抱え飛び移ってきた。健太は非常ブレーキを解除し逆に加速、車輪が火花を吐く。神代はドローン制御を維持しながら怒鳴る。
「トンネルを抜けて可搬アンテナを開く!」
しかし屋根の足音が増える。車内ドアが破られ、肩で息をする一条蓮が立つ。背広の裏地を血が染め、後ろに拳銃を構える二名を制止した。
「下がれ……彼女には触れさせない」
スパイが躊躇した隙に一発。銃弾が蓮の肩を裂く。彼は呻きながらもジャマーを蹴り壊し、床下へ放り出す。閃光。通信障害解除。
「まだ終わらせるな、美月」
神代がドローンを再起動。山肌を舐める機影が鉱床の正確な位置を掘り当てる。
「座標確定、パブリックノードへ送信!」
データはブロードキャストされ、政府系銀行、経産省、主要メディアが同時に受信。暗闇を撃ち抜く情報の閃光。
列車が峠を越える頃、東の水平線が薄青く滲んだ。海の匂いが届く。蓮は壁に背を預け、血に濡れた手でスマホの画面を見つめる。帝都物産株のチャートが反転上昇し、彼は小さく笑った。
「君の炎は…俺が知る火より、ずっと美しい」
瞳に映る夜明けが震える。美月は彼の手を握り、視線で言葉を贈る。
夜が明けきると同時に、帝都物産のロビーに新聞各紙が並び、トップ記事を飾った。〈国内最大級ネオジム鉱床を島根で確認〉〈帝都物産、自立再建へ方針転換〉〈アマテラス・トレーサー国策採用〉
政府系銀行からの特別融資が即決され、国会では与党議員が買収防衛の成功を誇る。外資連合は撤退し、佐伯は調査委員会の前で沈黙を貫くしかなかった。
遠野杏奈のスクープ記事は世界三十三言語で配信され、末尾の謝辞に神代への淡い思慕が滲む。
一条蓮はスイスのクリニックに向かう機内でチャートを眺め、微かな笑みを浮かべた。肩には包帯、けれど瞳の奥に灯る灰色の炎は消えていない。
「終わりではなく、別の序章だ」
呟きが風圧にかき消える。
宮田健太は石見銀谷鉄道の新社長として、観光・物流複合ラインを発表。ホームに立つ彼の横顔を春の霞が柔らかに包む。
そして四月、銀谷駅始発ホーム。薄闇と朝陽が混ざる空に桜が舞う。
美月は紺のスーツを脱ぎ捨て、白いワンピースに薄手のトレンチ。背には小さなリュック。列車の金属音が遠ざかり、ホームに残るのは風の囁きのみ。
ベンチから立ち上がった神代がフードを下ろし、無垢のスケートボードを小脇に抱える。目が朝焼けを映し、影は淡い。
「まだデータにも世界にも書かれていない答えを」
差し出された右手。
美月は迷わず握り返す。掌の温度が、そのまま心臓の拍に同期した。
「あなたと探しに行くわ」
遠くで踏切が鳴り、曲線を描いて朝日がトンネルを照らす。列車が滑り込み、扉が開く。車内へ踏み込む二人の背中に、桜の花弁が降り落ちた。
鋼のレールが刻むリズムは、都市で磨かれた知性も、地方で燃え上がった情熱も飲み込みながら加速する。
玻璃の街で得た傷と、山の闇で掴んだ未来図が、車窓を満たす光粒に溶け、白紙の明日へ降り注いだ。
(了)