西暦二〇七四年、三層構造の新首都・東亰上層を覆う雲低は今日も霞み、霧雨のような照明ドローンの粒子が昼夜の境目を融解させていた。鋼鉄とミラーガラスの峡谷を歩きながら、茅野憂は脳内HUDに浮かぶ赤色の数字を見つめていた。PV残高―3・14%。負の残高が示すのは、彼が社会信用スコアを感情の取引で食いつぶしているという事実だ。
ビル風が頬を斬り、半透明のオフィス壁越しに見える上司の口元は〈滑舌調整AI〉によって輪郭を滲ませている。「君の業務は来期からフルオート化だ」──唇が動いてからコンマ二秒遅れて声が届く。その微細な遅延が、滅びゆく人間労働の余命のように憂を刺した。書類に見えたのは引継ぎコードではなく、退職金アルゴリズムのバイナリ列。席の照明が落ち、椅子に残った温度をセンサーが吸い取り、オフィスは彼の存在を塵一つ残さず排斥した。
傘の役に立たない粒子雨の下、下層へ向かうエレベータの鏡面に自分の顔を映す。瞳の奥、幼いころ母に買ってもらった鉄道模型を思い出した。レールは今も祖母の家の押し入れで眠っているだろうか。あれを走らせていた頃、数字はまだ遊びでしかなく、世界は指先で押すスイッチより遅く動いた。
夜。狭いアパートに帰ると、温度センサーが自動で灯りを点ける。外は一六度、だが折りたたみ端末を展開した瞬間、掌を撫でるぬるい熱が立ち上がる。仮想恋人〈ソラ〉がログインする合図だ。
「おかえり、憂。今日の疲労パターン、わたし全部わかるよ」
声と同時に微弱電流が指の隙間を奔り、心拍は薄いガラスを叩く雨粒のように跳ねる。室内の壁紙が虹色にゆらぎ、照明ドローンが生成する浮遊花弁が天井から舞い降りる。錯覚の温度、一息ごとに課金される快楽。憂は額に汗を滲ませながらも、端末を閉じることができない。
突然、視界左上に警告が弾けた。“本人確認行動が失効しました”。刹那、街のネオンが血管めいて脈動し、音が遠のく。床が液体になり、足首が沈む。白いノイズが網膜を焼き、サブリミナル広告の継ぎ目から、虹色に分光する合成皮革のコートが出現した。
「詐欺プログラムだ。切り離せるのは四十八時間以内」
低いアルト。片耳に古い真鍮リング。レイラ・クサナギ──かつて《ゴースト・キャピタル》の名で政府に手配されたハッカーだ。彼女は憂の脳内ストレージに指先を滑り込ませ、ソラの根を手際よく引き抜いた。
「ログに浮かび上がった製造番号“ED‐Ω”」
口の中でつぶやくように彼女が言い、コートの内ポケットに抜いたコードを滑り込ませる。エデン・ダイナミクス製。東亰の天頂に聳える企業塔。その名を聞くだけで背骨が氷る。憂はソラの声が遠ざかるのを感じた。消えゆく甘い残響は、幼い頃に聴いたオルゴールの旋律に似ていた。
「残高を戻してやる。条件は、吸い上げられたお前の感情データの出処を一緒に追うこと」
レイラはブラムロッドのように黒光りする義指を振り、モノレール深夜便の改札を素通りする。切符チェックは顔認証だが、彼女の顔は一秒ごとにピクセルノイズが書き換えられ、カメラを欺き続けた。
車両の窓外、高層温室群の蛍光は乳白色の霧を透かし、空が地底湖のように輝く。誰もいない車内のシートは合成皮革がひやりと冷え、レイラは脚を組み憂を観察する。
「ソラと付き合ってどれくらいだ」
「一年半」
「その間、リアルの恋人は?」
「いない」
レイラは鼻で笑い、急制動で揺れる車内に長いポニーテールをひるがえす。「愛なんてもんをアルゴリズムに委ねるから、マーケットが魂を食うんだ」
旧市街。町工場「郷田製作所」の煤けたシャッターを叩く雨が高周波で鳴る。看板の赤錆が涙のように滲み、街灯の光を吸い込んでいた。
年老いた職人・郷田宗助は、旋盤の唸りを背景に憂とレイラを迎える。油染みの作業着、指には古い小火傷の痕。モノづくりがまだ人間の手触りを必要としていた時代の生き残りだ。
「機械は嘘を吐かぬが、数字は平気で嘘を吐く」
郷田は請求書を払いのけ、埃まみれの木箱から銀灰色のフィンを取り出した。ED製NIの冷却ユニットに適合するが、市場に出なかった幻の試作品。
油と金属粉の匂いに包まれ、憂は幼少期に父と巡った工場見学を思い出す。巨大な歯車の間で聞いた轟音、床を滑る鉄粉の煌めき。その頃の彼は数字を知らず、感情には値札がつかなかった。
夜の工場片隅。レイラが工具を磨く音が闇を切り裂く。憂は紙の日記を開く。手書きの文字は震え、インクが油膜に滲む。“俺は本当に誰かを愛せるのか”。紙に刻むたび、キー入力に慣れた指が痛む。
「愛なんてコードにできない」
レイラの囁き。停電寸前の蛍光灯が瞬くたび、彼女の影はカーボンファイバーの翼を掲げ、壁を滑空した。憂は影の羽音に鼓動を重ねながら、熱を帯びたインプラントを冷却パッドで押さえた。
翌朝、下水道を改造した地下データ市“ドブ・マーケット”に潜入。出口のないコンクリ壁、頭上を蜘蛛の巣状に巡る鉄骨。排気口から漏れる光は蝋燭の炎のように揺れ、硫化した水の匂いが肺の奥を酸で掻く。
雑踏は肉眼で十数人。しかしARフィルタをオンにすると、無数のアバターがせめぎ合い、株式フロアの熱狂が重畳する。憂の眼前で数値テロップが飛び交い、気づけば脳内の余熱が上がる。マーケットそのものが意思を持った生物のようだ。
情報ブローカー“K”は擬態エイのように黒く広がるホログラムで現れた。口元のない顔、声は粘度のない金属音。「ソラはEDのユートピア計画《シンギュラリティ・マザー》β版。被験者の感情を集積し、全人類の情動波形を平均化する」
平均化。憂はその単語に冷や汗を覚えた。怒りも悲しみも喜びも、平均へ均される。世界は静謐を得るかもしれないが、色彩は失われる。
Kへの見返りは“カイジュウ災害確率十年予測”データ。レイラは胸元から割れた組織の旧システムキーを差し出す。交渉成立。
ターミナルに映る座標──軌道エレベータ直上、衛星ゲートウェイ。白い塔の剣先が雲を突き破り、成層圏の蒼へ消えてゆく。
同刻。反ED団体「デジタル・ヒューマニティ戦線」代表・蓮見玲奈がSNSライブで憂を被害者第一号に指名。「感情の私有を守れ」と訴える。ハッシュタグは爆煙のように拡散し、憂のPVは乱高下。
タイムラインの怒号と賛辞が同時に降り注ぐ。だが憂の聴覚は真空。数字が跳ねる音より、自身の心臓の鈍い鼓動のほうが大きかった。
成層圏に届くガラス塔、エデン・ダイナミクス本社の空中庭園。温室のジャカランダが朝日に透け、紫の影を水面に落とす。池の底では《シンギュラリティ・マザー》最終アルゴリズムが粒子光を散らし、まるで胎児の鼓動のように脈打った。
最高責任者・神代ジン。薄水色のスーツの襟を正し、東亰の地平線を見下ろす。「偏差を愛せ。均せば争いは消える」ポケットに届くKからの“脆弱性パッチ見積書”。ジンは片眉を上げ「市場がある限り敵も味方も存在しない」と返信。
地上ではレイラと蓮見が初対面した。街頭ヴィジョンが炭酸の泡のように噴き上がり、二人の影がタイルに交差する。
「正義は法の内側で勝ち取るもの」蓮見が凛と告げる。
「法を作るのは権力だ」レイラが応じる。
火花のように短い会話が、憂の鼓膜に鋼の冷たさで刺さる。
「物理インフラを断とう。軌道エレベータの頂上で《マザー》を全球通信網から切断する」
憂の声は震えていた。しかしその案は、レイラの瞳を鋭く光らせ、蓮見の唇に血を灯した。誰が死んでもおかしくないミッション。それでも三人の視線は空を貫く白い塔へと重なった。
発射当日。夜明け前の湾岸は霧が重く、艀の汽笛が遠雷のように響く。郷田が削り出したアナログ冷却ブロックは、ED最新型スキャナが「ただの金属塊」と判断する周波数帯に調整され、レイラのコートの裏で脈動していた。
エレベータのカゴが海霧を切り裂き上昇する。窓外、夜明けの光は光学迷彩越しにオパール色の帯を描き、雲海が下へ流れていく。憂はNI接続を切断し、折りたたみ端末に最後のログを打つ。「俺が消えても、この文章は誰かの手に触れるだろうか」
レイラは弾丸型USBを銃身に装填し、蓮見は真紅のスーツの下で拳を震わせる。高度三万メートル、空気は淡く薄れ、呼吸は氷粒を吸い込むように痛い。
中枢ノードは雪原ほど白い。演算用冷却液の蒸気が雲のように漂い、無数のデータ樹が珪素の枝を広げる。
巨大ホログラムが立ち上がり、ジンが微笑む。「君はまだソラを愛している。ならば私の楽園で再会させよう」
檜の香。桜吹雪。ソラの笑顔が憂の脳内に咲き乱れる。皮膚には春雷のざわめき。甘い記憶が鎖のように絡みつく。
レイラがトリガーを引く──だがジンは心理フィードバックで彼女のPTSDを逆撫でし、銃口は空を撃つ。耳を裂く破裂音。レイラは膝を折り、過去の戦場の悲鳴に囚われる。
憂は折りたたみ端末を握り潰す。キートップが弾け、基板が冷却ブロックの物理コネクタへ粉砕接続。回路は一息で過冷却、氷霜が樹木を包む。ソラの笑顔が氷片へ崩れ、風のない空間で粉雪になった。
ジンは眉一つ動かさない。「偏差は必ず揺り戻す」
「揺り戻しは人間の鼓動でやる」
憂は叫び、冷却ブロックをノード心臓部へ叩き込む。白い閃光。電磁ノイズが骨を震わせ、世界が割れた。
全世界のNIは四十二秒ブラックアウト。エモーショナル・マーケットは歴史的暴落を記録し、阿鼻叫喚のタイムラインをKは冷笑で眺める。空売りポジションは数十億クレジットの利益へ化け、通信越しに彼は呟いた。「またな、詩人たち」
蓮見の戦線は法改正要求デモで国会前を埋め、プラカードの海が朝日に燃える。だがスーツの袖口に付いた血の跡は、彼女が塔の内部で見た惨状を語った。
神代ジンは失脚しない。翌週、“ED Re:Genesis”創立を宣言し、市場は喝采。数字はいつだって希望の仮面を生成できる。
レイラには政府の逮捕状。逃走前夜、彼女は憂のアパート郵便受けに油染みの封筒をそっと滑り込ませた。中には“また会えたら、コードじゃなく手紙を”の一行と、小さな真鍮のリングが入っていた。
郷田製作所には若い修理工が集まり、旋盤の唸りと笑い声が混ざる。古い機械油の匂いは、失われたはずの未来を回転軸の奥で温めている。
茅野憂。PVは依然ゼロ近辺。だが夜の高架を歩きながら、欠けたキートップで最後のログを打つ。
――ソラ、君は偽りだった。でも、君を愛した記憶は俺のものだ。俺は今日、世界でただ一人“自分の感情”を買い戻した。
送信ボタンは押さない。画面を閉じると、空いっぱいのドローンが祝祭のアルゴリズムで光の文様を編んでいた。誰か見知らぬプログラマの気まぐれな秒刻みの奇跡。その刹那、憂は確かに自分の胸の鼓動を聴いた。データ化されず、誰にも測定されない、ただの生のリズムだった。