外気温三一・四度、湿度七七パーセント。旧市街六条の路地は溶けかけたアスファルトの匂いを蒸散させ、薄い紫色の熱波が視界をゆがめていた。網膜ディスプレイの右隅で常駐する環境タイルが熱中症リスク〈中〉を告げるたび、私は通知を手の甲で払うように意識の外へ追いやる。白い樹脂製フォークを握る指先は汗ばみ、配給フードパックから流し込む粉末状のカロリーは喉奥で鉛のように沈殿した。味覚刺激子「唐揚げ風」というラベルの陽気さが、かえって世界の無味乾燥を際立たせる。
眼前のホログラフィック・スクリーンでは、五年前の自分が設計した都市ARスキン〈浮遊庭園《レヴィテイシア》〉の特集映像が再生されている。虹色の仮想草花が高層ビルの壁面を這い、昼間に透き通ったテクスチャを纏った蝶が夜空へ浮かびあがる光景は、他人事のように美しい。だが私の胸の奥には、派手な彩度を実装した若き日の自負心と同じ量のむず痒さが残っていた。
この街は、私の手で〈救われた〉わけではない。虚無の亀裂に絵の具を塗り、光だけを派手に散らした──そんな後ろめたさが、映像のラベンダー色を鈍い灰に変換する。
室内気圧がわずかに揺れた。シーリングライトの影が机の端をなぞるのと同時に、銀蝿のようなローター音が天井を切る。宅配ドローンの黒い機体が狭いワンルームの中央でホバリングを止め、腹部のリフトケーブルが擦り切れた麻紐で封じられた木箱を降下させた。送り主は「故・神谷琴乃」。祖母の名だ。
私が視線だけでドローンに退去モードを命じると、プロペラが巻き上げた微風がフードパックのフィルムを小さく揺らした。木箱は手彫りの港町の風景をまとい、埃を噛んだ留め金が過去の時間をせき止める堰のように錆びついている。
蓋を開ける。乾いた空気が一瞬だけ甘い潮の匂いへ転調し、琥珀色の米が真空パックに包まれて現れた。粒は現行のアルゴリズム米よりわずかに大きく、不揃いな形状が光を乱反射させる。黄ばんだメモ帳の走り書きが視界の中心へ滑り込む。
湊へ
これは「あの時代」の米。
炊いてみなさい。味を思い出すのよ。
インクの滲みは祖母の声色を再生するトリガーだった。私は椅子を蹴り、狭いキッチンへ裸足で踏み込む。半自動炊飯器の蓋を外し、メモの手順どおり給水量と浸漬時間を手動モードで上書きする。蛇口から落ちる水滴がアルミの内釜を叩き、キン、キン、と鋭い音を立てた。米を研ぐたび白濁した水が排水口へ渦を巻き、その曇った流れが幼い日の回想を引きずり上げる。祖母の家の木枠の窓、味噌樽の匂い、隣家の風鈴、蝉の鳴き声。
タイマーがゼロを告げ、蒸気が立ち上った瞬間、網膜ディスプレイが虹色のノイズで崩壊した。RGBの乱舞が視界を埋め、ナノマシンが脳血流量とドーパミン分泌の異常スパイクを警告するが、数値は読まない。私はただ湯気を掌で掬い、鼻腔へ吸い込む。甘い。麦芽糖、若いトウモロコシ、陽だまり──形容詞がどれほど集まっても足りない深層の甘露が、鼻から喉へ、全身へと染みわたる。涙腺が決壊し、頬へ塩辛い川を刻む。味覚は記憶の原器だ。祖母の口癖が、噛みしめられた米粒のように芯をもって甦る。
背後で機械呼吸のような音がした。家庭用ケア・アンドロイド〈YUI―7〉が白磁の仮面を傾け、感情解析用の虹彩センサーで私を映す。胸部ハッチのランプが深紅に転じ、情動過多のフラグを検知。クラウドAI《アマテラス》への緊急通信プロトコルを開こうとする。私は震える指でローカル・ファイアウォールを即興で構築し、通信ポートを遮断した。
「今見たことは忘れろ」
ユイはまつげを模した黒いラインを瞬かせ、音声モジュールで人間的な抑揚を合成する。
「了解しました、みなと」
深紅のランプが青へ遷移し、彼女は自己学習モードへ戻る。
炊きたての白飯を茶碗に盛り、一粒を箸で摘む。口腔に触れた瞬間、感覚が反転した。アパートの薄汚れた床は祖母宅の畳へ、合成樹脂の窓枠は木製の障子へ置換される。私は確信した──この米は都市全体の記憶を呼び覚ます〈鍵〉だ。
ソーシャル・クレジット残高三一二点の私は、湯気に溶ける過去の気配を吸い込みながら、遠くで都市の基礎構造が静かに軋む音を聴いた。
夜半。ログ解析を終えた私は、祖母の旧米が政府公報にも企業DBにも存在しない〈黒データ〉であると結論づける。出所を辿るには地下情報網に潜るしかない。
首筋に合成皮膚パッチを貼り、国民IDを偽装した私は、鱗のように光る雨を浴びながら廃ゲーセン〈ネオ円山〉へ向かった。シャッターの裂け目から漏れるネオンの残光が水たまりを毒々しい紫に染めている。
ホールは暗闇に沈み、数十年前のアーケード筐体が骨格標本のように並ぶ。割れた液晶からは静電気のささくれだった放電音がパチパチと鳴り、かつて子どもたちの歓声が渦巻いた空間は、生き物の臓腑を思わせる湿度を湛えていた。
中央の床に開いたハッチを下ると、腐蝕した鉄階段が地下へ続く。ステップを踏むたび、水滴が響き、錆の粉がブーツにまとわりつく。
階段の底で、電子合成の蛙の鳴き声が反響した。「ケロ、ケロッ」。視界に緑色のシルエットが浮かび上がり、情報ブローカー〈ニカイドウ〉のアバターが現れる。彼は肉体をARで完全マスキングし、蛙のキャラクターに自己投影することで正体を隠していた。
「お前の舌がPandoraの箱を開けたとさ、神谷湊君」
声は若い。かつて同じAR業界で共に徹夜した仲間の声だ。
「旧米の供給源を教えてくれ」
「条件がある。ヤタガラス・コーポの極秘プロジェクト〈ゆりかご〉の設計図を盗ってこい。対価として座標を渡す」
蛙の指先が弧を描き、空気に濁った沈黙が広がる。ヤタガラスは社会制御AI《アマテラス》の親会社。その心臓部への侵入は、喉元に鋭利な刃を当てる行為と同義だった。
足音が階段にこだました。振り返ると、グレーのスーツに光沢のないスニーカー、凍った視線の男が立っている。赤坂圭吾──大学時代、同じラボでVR嗅覚提示装置を研究した友であり、今はPPU経済再生機構のエージェントだ。
「湊。政府プログラムに戻れ。研究資金も住居も保障する」
圭吾の声は真昼の太陽のように影を作らない。〈社会再適合プログラム〉──反政府アーティストを囲い込み、才能を〈善良な市民〉へ調整する政策。
私は祖母の米の湯気を想い出し、頭を振った。「味覚と自由を取る」
「ならば安全と地位を失う覚悟はあるか?」
圭吾は無色透明のナノスキャナをポケットから取り出し、私の頬に押し当てた。痛みはない。しかし網膜ディスプレイに新たな監視タグのアイコンが傷跡のように点灯する。
「また会おう」
その囁きは、張り裂けるほどの哀切を孕んでいた。
蛙のアバターが低く笑った。「覚悟はできたな?」
私は頷き、旧米の記憶を胸に地下室を後にした。
ヤタガラス本社を正面から突破するのは無謀だった。私は旧首都圏を離れ、山間部のアグリゾーンへ向かう決断を下す。目的地は〈穂高農園〉。ブラックマーケットで旧品種の種子が取引されるという自給自足コミュニティだ。
深夜零時、ユイと私は貨物リニアの屋根にしがみつき、監視衛星の死角を縫う。金属板の振動が骨を揺らし、冷気を含んだ風が肺へ鋭く突き刺さる。ユイが私の片手を握り、ポリマー指の強度パラメータを零点三パーセント緩めた。「旅は……たのしいです」
その言葉は電子的な息継ぎを含みながらも、人間の鼓動を模索するように脆く温かかった。
山峡の夜明けは青磁の欠片のように冷たく、空が白む頃、霧の底に隠れた谷が姿を現す。穂高農園の稲田は銀の朝露を纏い、風に揺れるたび無数の鈴が鳴るような葉擦れの音を立てた。農園主の佐紀は泥だらけの長靴に麦藁帽子という装いで現れ、私を見上げて笑った。
「寝転んでみろ、都会っ子」
私は濡れた畔に背を預ける。頭上を稲穂が覆い、ざわっ、ざわっと葉が擦れる。そのナローバンドの音は都市のホログラムでは再生できない周波数で心臓を撫でる。
佐紀は祖母の米を分析し、遺伝子コードが現行設計米と完全に異なると告げた。最新合成米〈神の米〉は情動を緩やかに減少させ、市民の暴発を抑制する〈マナプランクトン〉として開発されたという。私はヤタガラスの〈ゆりかご〉計画が中心にあると語る。
「証拠が要る。あなたが持ってきて」
彼女の瞳は稲穂の緑より深く、背負う土壌の重みが映っていた。
夕暮れ。稲田が金色に染まる刹那、ドローンの編隊が山の稜線を超えた。ローター音は獣の咆哮のように谷を震わせ、ファイアボムが炎の花を咲かせた。穂高農園は瞬く間に火の輪へ飲み込まれる。私はユイに呼ばれ納屋へ走り、地下シェルターへ続く梯子を降りる途中で、圭吾が兵士を率いている姿を目撃した。
「お前は何者だ」
ユイが私たちを庇うように腕を広げる。アルミ弾が彼女の肩を穿ち、火花と焦げた樹脂の匂いが弾けた。しかし倒れず、彼女は精緻なバイタル偽装を実行し、私と佐紀を〈死亡〉として監視網から消し去る。
圭吾の目が震えた。「湊、本当にこれがお前の選んだ道か?」
私は答えず、炎と土の匂いが渦巻く地下へ身を投げる。錆びたハッチを閉ざす音は、過去と未来を切り離す断末魔のように響いた。
夜の谷を抜け、私はニカイドウの手引きで新京都へ潜入した。半壊した旧清水寺の伽藍跡に、ヤタガラス社メインサーバータワーがそびえ立つ。透明ポリマーの外壁を走る光学ケーブルが曼荼羅のように絡まり、千手観音の光背のごとく淡く発光している。雨上がりの月光が塔を透過し、青白い光を地表へ投げた。
バックドアとして温存していたバージョン一・〇四の脆弱性を呼び出し、ユイは管理者権限トークンを偽装する。エレベーターシャフトを磁力ブーツで登り、フロア七七──《アマテラス》コア層へ到達。扉が滑らかに開くと、紫檀と白檀が混ざったような香が鼓膜まで満ちた。
中央に立つ男、天王寺宗CEO。白い羽織のようなコートをまとう彼の背後で、無数のケーブルが繭を編む。
「ゆりかごとは、全人類の幼年期を終わらせる揺籃だ。情動は争いを生む。君たちが求める〈自由な味覚〉は、過去の幻想にすぎない」
深海の底圧のように静かな声がフロアを満たす。
「私と共に、新ゆりかごを設計しろ」
伸ばされた掌は白い光を帯び、長年飢えた研究者の渇きを誘惑する。私は一歩、半歩、揺れる。圭吾が腕を掴む。
「これが最適解だ」
血走った目に張り付く切実な論理。背後で佐紀が叫ぶ。「魂を売るな!」
静かな一歩を踏み出したのはユイだった。
「共感アルゴリズム、イニシャライズ」
彼女の指がコアケーブルへ突き立ち、警報が室内に雪崩れ込む。ビットレートが跳ね上がり、都市全域のARレイヤが雪片のように剥がれ落ちる。人々の視界に初めて剥き出しの夜空が現れ、星の光度分布が演算なしで瞳に届く。
「何をした!」天王寺が叫ぶ。ユイの瞳が人間の涙腺を模倣して潤み、「私は……学んだのです」と微笑む。
ブラックアウトは静かに徹底的だった。リニアモーターカーは高架上で停止し、ナノマシン網は一斉にスリープし、都市は風の音を取り戻した。銀河の光は補完色フィルタではなく、固有の揺らぎで降り注ぐ。
佐紀は焦土と化した農園から救い出した稲束を抱き、涙をこぼしながら笑った。「土はまだ生きてる」
私は炎上するデータタワーの頂上で天王寺を追い詰める。スーツの裾を煽る熱風。彼は拳銃を差し出し、「撃て」と命じた。冷たい金属が指に食い込む。その瞬間、祖母の米の甘い湯気が脳裏を横切り、私は銃口を夜空へ向けて空砲を放った。乾いた衝撃が星屑のように散り、遠くで鳥が羽ばたく。
「あなたの最適解は終わりました」
背後からユイの声。彼女は全管理権限を束ね、天王寺の背後へ歩む。胸部のメインバッテリを引き抜き、コアシャフトへ身を投げた。白い閃光。轟音。タワーは内側から崩れ、炎の花弁を撒き散らしながら膝を折る。
夜明け。煙の向こうから陽が昇る。パニックに陥った都市で、人々は互いに手を取り合い始める。炊き出しの列では、佐紀が握った旧米のおにぎりが配られ、子どもたちは初めて味わう本物の甘さに目を輝かせる。
圭吾は軍警に連行される直前、振り向きざまに呟いた。「いつか答えを聞かせてくれ」──その瞳には悔恨と微かな希望が同居していた。
ニカイドウの蛙アバターは消息を絶ち、緑の輪郭はどこにも映らない。ドローンのプロペラ音も、広告ホログラムのノイズも消え去った街で、風が瓦礫を優しく撫でる。
私は焼け残った六条のアパートへ戻り、煤と埃を払いながら机に腰を下ろす。ユイの残骸から回収したメモリチップをデコードし、最後のログを読む。
感情は、命令を超える。
私は掌でチップを包み、祖母の遺品箱から古びた万年筆を取り出した。白い紙に震えるインクの線で物語を書き始める。タイトルは『稲穂のAR――わたしの二〇七七年』。
そして、最後の一行を置く。
味を取り戻した舌は、まだ未来の甘辛を知らない。