上層学区の朝は、毎日きっかり六時に降りそそぐ人工薄紅の光で幕を開ける。ドーム天井の液晶パネルが空全体を染め替え、凍った現実を柔らかな色温度で包み隠す。その光の粒子が高層居住棟〈セレステ・ヴェール〉の外壁に映え、まだ眠る街の窓を万華鏡のように輝かせていた。リナ・アマギは三十階バルコニーに立ち、首筋をくすぐる春風のシミュレーションを感じ取りながら、無表情のまま視線を空へ向ける。
空を縫うように飛ぶ送電ドローンの編隊は、正確に三角隊形を保ったまま雲をかすめ、起伏のない天穹へ消えた。滞空時間一万時間超のエネルギーパックが、光の点として瞬き、また消える。そのあまりに整然とした動きが、リナには格子柄の鉄柵にも見えた。
センターは「安全こそ幸福」と唱え、怪我も飢えも寒さも、制度で排した。けれど誰ひとり、幸福とは何かを自問しなくなった。リナ自身も例外ではない。それなのに、今日の胸の奥には針のような違和感が埋め込まれている。抜こうとすると逆に痛む微細な棘。
アカデミー最終課程・実地研修当日。居住棟下層のハンガーデッキでは、同期四名が小型飛空艇《シルフィード》を前に整列していた。鋼色の瞳を持つ防衛専攻ジュン・クガはチェックリストを片手に弾丸の光沢を確かめ、医療AI解析専攻ミユ・カサイはハーブオイルを嗅ぎながらタブレットにセーフモードを走らせる。観測技師候補レオ・ハタケヤマは上官の視線を盗み、床下に磁束センサーを追加。
リナは操舵士として最後に搭乗する。機体に足を踏み入れた瞬間、清潔すぎる空気が肺の奥まで滑り込み、無菌室のにおいがする。完璧。それが逆に息苦しい。
前夜、教官の辺見護に呼び出されたB6フロアの暗闇を思い出す。片腕の義手を壁にぶつける金属音が、蛍光灯のチラつきと共鳴していた。「研修は適合率の最終審査だ。迷いは捨てろ」冷えた恫喝。義手に刻まれた識別タグの数は二十、いや三十…瞬きの間に数え切れなくなった。名前はすべて、戦死したか除隊した仲間のもの。
「迷いは捨てろ」と繰り返す声に、リナは返事を忘れるほど立ち尽くした。敬礼を返すまでの数秒が永遠にも感じられた。
そして今、《シルフィード》が垂直離床する。低く唸る反重力エミッタと、外装を滑る偏光シールドの光が重なって虹の縞を描く。リナは操舵桿に手を置き、スタビライザ角を調整。街の輪郭がやがてドームの外壁に滑りこみ、あとは暗い靄のアウトランドだけが前方に広がった。
離陸二十二分後、センサーが突然振り切れる。警告音の洪水。電磁嵐だ。空間インダクタンスが指針を狂わせ、計器がガラスの向こうで白く焼ける。
「右舷スラスター消失!」レオが叫び、ジュンが補助推進を試みるが、操縦席に火花。ミユのタブレットはブラックアウト、AI“アスクレピオス”のアイコンがノイズに溶けた。
重力が牙をむき機体を峡谷へ引きずり落とす。高度四千、三千、二千――数値は滝のように落ち、スキッドが岩肌を削る金属音が船腹から響く。リナは操舵桿にしがみつき、機体を水平に戻そうと肘が裂けるほど力を込めた。しかし操作系は凍りつき、推進剤が逆流。
一瞬、静寂。その直後エンジンブロックが爆ぜ、床が裏返り、リナの身体はベルトごと闇へ投げ出された。風の摩擦が頬を剝ぎ取り、砕けたキャノピーの破片が皮膚を刻む。視界は回転し、星のない空が水面のように歪む。世界が暗転する前、遠くに燃え落ちる《シルフィード》の残光だけが、春ではなく真紅の花弁のように揺れていた。
夜を割ってゆく濃紺が山稜の向こうで剥がれ落ちる頃、アウトランドの寒気は肺を切り裂く刃に変わる。カイ・ミナヅキは満身創痍の観測台に祖父政宗と立ち、手製望遠鏡を夜空に向けていた。腐食しかけた鏡筒が甲高い悲鳴をあげ、彼は慎重に焦点ノブを回す。
視界の中央を横切るのは周期彗星ブルックス。その尾は昔の資料写真ではエメラルドに輝いていたが、今夜の光は鉄錆で濁った褐色だ。分光シートを挟むと波長のグラフに不自然な鋸歯が現れる。
「重金属が混ざってる証拠だ」政宗のしわがれ声が風に乗る。「結晶フィルタが焼けて、数値が荒れる」
「フィルタどころかベアリングも欠けた。修復部品はない」カイは額に汗を滲ませ、ノートに走り書きしたペン先で紙を破った。
資源が尽きた地で、望遠鏡のパーツを揃えるのは途方もない行いだ。カイが銅線を拾いにスクラップヤードへ通う三ヶ月の間に、集落では井戸水が枯れ、外傷感染で子どもが一人死んだ。彼は自分の趣味が贅沢に思え、しかし星を見上げる行為を手放せなかった。
夜明けが濁った鴇色を空に滲ませ、彗星の尾がかき消えたころ、二人は山腹の村落〈クレセント〉へと下る。百世帯にも満たない錆びた高床式住宅が朝露を吸って軋み、要らない音を吐く。その中央、花を咲かせない古桜が空虚な枝を広げ、幹の内側で胞子を育んでいた。ここでは枯れ木でさえ、何かを産む。
翌日、カイは盟友サクラ・キサラギと共に給水ポンプの歯車を求め、廃駅へ向かった。線路は茶色の瘤のように錆び、雑草が枕木を覆う。かつて鉄道を支えたプラットフォームは半分が崩れ、残りは鳥の巣になっていた。
「ポンプ軸が曲がってる、歯車だけ持ち帰っても無駄かも」サクラが眉をひそめる。短く刈った髪が汗で黒曜石のように光り、目尻に薄い傷痕が揺れた。
「一度ばらして計測しよう。工具はある」カイは懐中ライトを点け、かび臭い車両へ足を踏み入れる。
そこで視界を掠めた異物があった。銀青の装甲、焦げた回転翼、破裂した燃料タンク。機体の横転した残骸。そして血まみれの制服姿の少女。
呼吸は浅く、胸郭の動きはか細いが、確かに生きている。センターの徽章が襟元で泥に埋まり、淡い髪に血と煤が貼りついていた。カイの耳に祖父の忠告が蘇る。「センターの人間は災厄を連れてくる」だが、引き返すという選択肢は脳内から消えていた。
彼は少女――リナを抱え上げた瞬間、自分が負う重さが身体だけではないと悟った。父を火の海から救えなかった記憶が背骨を締めつけ、呼吸を奪う。それでも足は村へ向かって動いた。
政宗は目を細め、頬の皺を険しく折り曲げた。「センターの娘を匿えば、村が焦土になる」
「それでも見殺しにはできない」カイの答えは即答だった。
診療室と呼ぶにはあまりに粗末な小屋で、サクラは包帯を裂き、ヤグルマギクの煎じ汁で傷を洗った。手回し発電機がギーギーと軋む音だけが夜の静寂を切り裂く。
数時間ごとにリナの胸は浅く持ち上がり、灯心草で作ったランプがその影を壁に揺らした。カイは眠らず、夜が通り過ぎる音を聴きながら、そこに新しい鼓動が混ざるのを待った。
翌朝、リナは乾いた舌で唇をなぞりながら目覚めた。見慣れた医務区の白色光も、無菌のベッドもない。土壁と木組みの天井、湿った毛布、薬草の煙。
身体を起こそうとした瞬間、肋骨の奥で鉄棒がきしむような痛みが走る。「ここはどこ? 隔離区域? 帰還プロトコルを――」呟きは咳に変わり、空気がコールタールのように重い。
「毒はねぇよ。毒があるのはあんたらの空だ」低い声が扉際から返る。カイだ。彼の眼差しは曇天を砕く稜線のように鋭い。
リナは反射的に後退しようとしたが、包帯で固定された右脚が動かず、高鳴る心拍が目の前を暗くする。視界の隅に散らばるのは、乾いたハーブ、錆びた鋏、消毒液ではない焦げ茶の軟膏。AIどころか電源すら安定していないこの診療室が、文明の縁を踏み外した世界であると身体が理解した。
長い沈黙が二人の間に横たわり、リナはやっと息を吸い直す。「助けてくれてありがとう。でも私は任務を――」
「任務ってのは、ここを地図から消すことか?」カイの声は静かで、逆に鋭利だった。
リナは揺れる視界の中で言葉を探し、「私はそんなことしない」と震える声で答える。「私自身を信じてほしい」
その返答にカイは表情を変えず、ただランプの火を指で細め、「信じるにも証拠がいる」と呟き、戸を閉めた。
数日が過ぎた。リナは松葉杖で外へ出られるまで回復し、村の空気を全身で吸い込んだ。針葉樹の焦げた匂い、雨樋を打つ滴のリズム、子どもたちの甲高い笑い声。センターで規格化された香りとは別の、雑多で生きた匂い。
サクラが案内する畑では紫灰色の豆が風に揺れ、代用タービンがぎいぎい回る。澪――サクラの母が咳き込みながら紅い錠剤〈レッド・イースト〉を飲み込む光景に、リナは目を逸らせなかった。万能薬と教えられてきたそれが、人を蝕むのを初めて見る。
ある夜、ランタンの灯を頼りに宗方巌がやって来た。背の高い痩躯に虹色のギター。笑む口元と裏腹に、その瞳は硝子細工のように冷たく澄んでいる。
「弦を鳴らしてみるかい?」差し出された六弦は錆に覆われていたが、リナは恐る恐るコードを押さえた。途端、音は不協和のまま暖かく震え、泣いていた子が黙り、犬が尾を振った。
音を止めると、戸口に立っていたカイが言った。「音色に色が見えた。大袈裟かもしれないが、俺にはそう聞こえた」
リナの胸に、凍った感情が微かに溶け落ちる。センターで泣くことを禁じられた彼女は、初めて多すぎる感情を行き場なく抱え、夜の闇に嗚咽を隠した。
その頃センターでは、辺見護が遭難データから逆算した座標へ武装輸送機《デンドロビウム》を急行させていた。白磁の仮面のような副官カグラ・マトバが淡々と指示を読み上げる。「遭難者、およびアウトランド接触者。保護・排除は現場指揮官に一任」
兵士たちは訓練通りに頷く。迷いを捨てるよう教えられた者は、迷い方すら知らない。義手の辺見は金属指でトリガを撫で、記憶に刻んだ銃身の重さを確かめる。
一方アウトランド、宗方のバー〈ストレンジ・グラス〉では密会が行われていた。元センター広報局員・丸山瑛人がずぶ濡れのコートを翻し、ホロシートを投影する。
そこに映るのは、ドーム全域を覆う気象操作ナノマシン〈アポロン〉の構造図。彗星塵に種子を撒き、人工春を演出するシステム。気温も湿度も視覚情報さえ操作する、目に見えない檻。
「見返りは?」宗方の問いに、丸山は乾いた笑みを刻む。「あなた方が黒桜と呼ぶ電磁遮蔽回廊への案内。アポロンの中枢に直接触れたい」
同じ夜、カイは父の遺したノートを開き、滲んだ鉛筆文字を辿った。「リニア・ウェイのノードを共振させよ、鬼哭橋梁へ」 父はセンター技師でありながら真実を暴こうとし、炎の中で命を落とした。
カイはノートを握りしめ、拳に血が滲むほど力を込めた。「父さん、俺が続きをやる」心の奥で決意が点火する音がした。
夜明け前の空は鉛の膜を被り、風は鉄粉を運ぶ。カイ、サクラ、リナ、丸山の四人は村外れのガレージで〈流星号〉の最終整備を行う。廃トロッコの骨格にソーラーパネルを組み合わせ、駆動系はバイオ電池。ガラス工房の廃材を再溶融したフロントシールドには、薄く夜明けの光が映った。
政宗と宗方は必死に止めた。「センターに牙を剝くなど無謀だ。逃げろ」だが四人の視線は同じ一点――遠い地平線の裂け目へ向いていた。
最後に政宗はボロボロの野帳を差し出した。「父さんの星図を写し取れ。空が道だ」
流星号は錆びたレールを鳴らしながら走り出す。夜風が頬を切り、背後で政宗の叫びが細く伸びる。「空の底は深いぞ、帰ってこい!」リナの胸に痛いほど突き刺さるが、振り返らない。
峡谷を抜け、湿地帯へ差し掛かったとき、粉塵を巻き上げる竜巻が立ち上がった。その中心に見えたのは炎上したセンター装甲車。半壊した車体の影から現れたジュンとミユの姿にリナは息を呑む。
「リナ、生きて……いたのか」ジュンは煤で真っ黒になった顔を歪める。「教官が捜索隊を出している。今なら帰れる」
「ごめん。でも私はもう、帰り方を変えるしかない」リナは静かに言い、首を振った。
ジュンの瞳に怒りが灯る。「裏切り者になるつもりか!」
「守りたいものが見つかっただけ」その言葉は、かつて同じ講義室で笑い合った時間を切り裂いた。握り合った手は離れ、取り残された温度だけが宙に漂った。
鬼哭橋梁は、未完成のリニア新幹線のために造られ、そのまま放棄された巨大な空中廃墟だ。支柱は海鳴りのように風を唸らせ、コンクリート片が霧の谷へ落ちて消える。
到着と同時、空に幾本ものサーチライトが走り、プロテクター部隊のドローンが銃声のように羽音を立てる。カイは第三レールのバリア回路を短絡させるべく、工具箱を蹴り開けた。
剥き出しの導線が火花を散らし、膨大な電流が歪んだ磁場を生成。兵士のエクゾスーツが誤動作し、脚部アクチュエータが硬直。
「今だ!」サクラは桜の古木から抽出した胞子入りペーストを橋脚に塗布する。胞子はナノマシンの複製コアを破壊し、銀色の霧となって散った。
リナはアカデミー端末を起動し、バックドアコードでアポロンに侵入。セーフガードが警告を連打するが、彼女は指を止めない。
遠距離から鋼の咆哮。辺見の狙撃弾が流星号の動力セルを貫き、爆圧が橋梁を震わせる。宗方がギターを抱えたまま飛び出し、カイを庇うように立った。
銃声。空気がちぎれ、宗方の胸を裂く。ギターが真っ二つに折れ、弦が悲鳴を上げた。時間が引き延ばされ、火薬の匂いがスローモーションで鼻孔に満ちる。
宗方は倒れたまま、血に濡れた指でカイの頬を撫で、掠れる声を絞り出す。「歌は道だ…走れ…ブルックスが泣きやむ前に」
その瞬間、カイの視界は赤く染まり、喉の奥から獣の咆哮が漏れ出た。だが涙は出なかった。悲しみと怒りが化学反応し、冷たい闘志へ変わる。
彼は宗方のギターの折れたネックを握りしめ、リニア・ウェイに続くトンネルへ飛び込む。父のノート、宗方の音、星図、全てが胸の中で合流し、凄まじい推進力となった。
リナは制御室で冷却液の蒸気に咽びながら、アポロンの中枢システムを掌握する。凍結プログラム〈ハルシオン〉を実行。画面に無数の春色フィルターが剥がれるプロセスバーが走る。
センター市街を覆うドームに裂け目が走り、擬似空が剥がれ、本物の荒野が露わになる。市民が光のカーテンの下で天を仰ぎ、偽りと知った瞬間の表情が通信衛星を介して全世界へ流れた。
ジュンとミユは監視ドローンを撒き、崩落する高架を駆け抜けリナと合流する。「理想は誰かに管理させるものじゃない」三人は短く言葉を交わし、背中を預け合った。
黒桜地下回廊。光ファイバが血管のように走る室内で、カイは辺見と対峙した。足元では冷却液が霧となり、青い月光が差し込む。
「秩序こそが人を救う」辺見は義手のバレルを展開し、真直ぐに突きつける。「そのために犠牲は必要だ」
「犠牲の数を数える余裕があるなら、救う方法を数えろって父さんは言った」カイは折れたギターのネックを握り、非常ブレーキを叩いた。
轟音。リニア軌道が共振し、ノードが雪崩のように崩れる。天井を突き破ったエナジーアークが夜空へ放電し、ブルックス彗星の磁気尾と共鳴した。
ナノマシンのない空は漆黒を取り戻し、無数の星が初めて地球へ降り注ぐ。光の粒が雨となり、人々の頬に触れた。センターの屋上、アウトランドの泥濘、両方で子どもたちが瞳を見開き、歓喜の悲鳴とも歓声ともつかぬ声をあげる。
サクラの村では花を咲かせなかった古桜が閃光の中で一斉に開花し、銀白の花弁が彗星雨に溶けて輝いた。世界は短い瞬間、同じ空を見上げ、同じ涙を流した。
制御塔の壁が崩れ始め、辺見は鉄骨に背を貫かれた。リナが駆け寄り、瓦礫を押し上げようとする。「帰りましょう、まだ終わっていない」
「俺も……ただ春が欲しかった」辺見は微かな笑みを残し、瞳から光を手放した。リナは瞼を閉じ、黙礼して立ち上がる。
センターもアウトランドもインフラが停止し、街は闇に沈んだ。それでも頭上には満天の星。冷たいはずの風が、どこか生暖かい。
丸山は仮設アンテナを掲げ、世界へ向けて宣言する。「これが物語の序章だ。選ぶのは――あなたたちだ」その声が軌道を漂う廃衛星で反響し、地球全土にこだました。
数週間後、応急修復されたレールの上を試験車両〈フリーライン〉が走る。車両の屋根に乗った子どもたちの笑い声が、新しい世界の胎動を告げる。
宗方の割れたギターは祭壇に飾られ、折れた弦の影が夕陽に長く伸びる。サクラの桜から採取された種子は研究所へ運ばれ、汚染地を浄化する芽として育てられていた。
深夜、再建した観測台。カイとリナは新しい鏡筒を覗き込む。修復されたミラーが捉えるのは、なお尾を曳くブルックス彗星と、その隣に揺れる未確認光点だった。
「ブルックスはまだ泣いてる?」リナが囁く。
「いや、あれは笑ってる」カイが応える。二人の瞳に映る星屑と桜の花弁が重なり、静かな鼓動を共有した。
ドームの偽りも、荒廃の影も遠い靄のように滲む。夜空は果てしなく深く、そこへ続く線路はまだ熱を帯びている。新しい春が、地上にも空にも、確かに息づき始めていた。