2043年7月25日、山形県庄内平野・鶴岡市大網、午前五時十二分。
夜と朝の境目に漂う水蒸気が、広大な田面の上に薄い絹をかけたように滞留していた。水平線の彼方では、真紅の輪郭を持った太陽がせり上がり、まだ定まらぬ軌道のゆらぎを見せている。神木蓮は腰まで朝靄に浸かりながら、ドローン散布の残留水を泥ごとすくい取り、掌で湿り気と匂いを確かめた。気温二十三度、前年比プラス一・八度。土壌水分率六七パーセント。グラスのセンサが示す数値と一致していることを確かめるたび、彼はAI技術を信頼しつつも、最後の保証人は自分の五感であることを忘れないと誓うのだった。
畦道には神木ファームのピックアップトラックが停まり、助手席のARダッシュボードには〈NEP配送 定期便08:20発〉の黄色いアイコンが点滅している。運転席から顔を出した安西誠は五十六歳、元長距離ドライバー。早朝特有の湿った汗が作業着の色を二段濃くしていた。
「社長、ラストパレット積み終わりました。こいつを新横浜のロジ倉庫に着けりゃ、今月のキャッシュフローは回りますぜ」
「回る、はず……。だが“はず”が折れるときの音はよく聞いたろ?」
「SNSは気にし過ぎちゃ危ないっスよ。デマが米粒みたいに空から降ってきても、腹はふくれねえ」
蓮は泥を拭わず運転席のドアを叩く。「走ってくれ。国道一一二号は夜の土砂崩れで全面迂回だ。空路はNEP管制が混雑予測赤信号。となれば陸送しかない」
「了解ッス」安西は歯を見せて笑うと、トラックは静かなモーター音を残して未舗装路へ滑り出した。
蓮のスマートグラスが震え、視界の左端に〈クロノス・キャピタル:PRTIMES緊急リリース〉の文字列が浮上した。
――“神木米から極性マイコトキシン検出”
「デマ……それとも陽動か」顎ひげを噛み、グラスのマイクへ呟く。「AIモデレート優先。『#神木米カビ』の根セッション抽出、発信IPマッピング」
瞬時に広がるヒートマップは、首都圏の六棟のビルを赤く染め、その一点に新宿アイランドタワー三十七階が光った。蓮は唇を吊り上げる。クロノス・キャピタル──数字の亡霊が巣食う場所。
遠雷のように小鳥が鳴き、苗代の水面に放射状の波紋が走った。蓮は長靴を鳴らして立ち上がる。「泥の匂いは嘘をつかない。人の匂いだけが嘘をつく。だったら、俺は泥側に立つ」
2043年7月25日、東京都新宿区西新宿、午前七時四十分。
ガラス張りの三十七階。スカイホバーが雲間を穿ちながら離着陸し、人工の風が熱を攪拌する。黒川宗介は藍染めのスーツを身にまとい、胸元のマッカーサー・ダイヤのタイピンを弄びながら、都市の深部に潜む資本の脈動を聴いていた。
卓上ホログラムに投影されたアナリティクスが、無慈悲に数字を上積みする。
「水原、拡散度合いは」
背後に立つ水原玲奈は黒いTシャツ、左耳の三連ピアスが冷色を反射する。「一次拡散インフルエンサー六十七名、四割が生成AIアバター。R0は二・七。三時間でバイラル閾値に到達予定」
「R0を三・五まで押し上げろ。フードセーフティ・オーダー(FSO)施行前に農地評価額を底まで沈める」
「AI検閲が不自然と判定する確率が跳ね上がる」
黒川は背を向けたまま、都庁舎の双塔越しに陽光を睨む。「リスクは俺の口座が保証する。国家が食料を愛するわけがない。食料は貨幣だ。貨幣を呼吸させろ」
彼の声は研ぎ澄まされたメスのようだった。数字と恐怖だけが、肉を裂き骨を砕く。
2043年8月6日、東京都千代田区大手町、日本ネット証券調査部、午後二時十三分。
ディスプレイ六枚が壁のごとく屹立し、リアルタイム・ティッカーの光が長谷川響子の眼に躍った。縦巻きの栗色髪を高く束ね、襟元にスカーフを差し込む。FSO発効まで残り三十六時間。農地リート指数が突如二・四パーセント急落し、対照的にクロノスは空売りを積み増す。
「誰かが土地を投げ売ってる。数字の裏には必ず人がいる」
彼女は独自スクレイピングしたTwitterのIPリストに目を走らせる。震源は広告代理店〈ワンワールドメディア〉──クロノス系列。
「神木蓮、あなたは“数字の人質”にされている」
響子は取材依頼メールの件名を打つ。――件名:米騒動の核心について直接お話を。
2043年8月7日、山形県鶴岡市、午後一時四十五分。
神木ファームの納屋は戦後のスチール骨組み、錆と油の匂いが交差し、大型ファンが回る音だけが空気を撹拌していた。響子は麻ジャケットの襟をつまんで汗を拭い、レコーダーをテーブルに置く。
「クロノス系列のIPがデマの震源です。FSO施行直後、『オーダー』が特定農家の出荷タグを停止する内部文書を掴んでいます」
蓮は拳で壁を打ち、梁の燕が羣れで飛び立った。
「国家の口を借りて黒川は俺たちを黙らせる。だが田んぼを渡すくらいなら灰にする」
奥で働く同盟農家が米袋を積みながら頷く。「焼け跡でも、あんたを信じる」
響子は声を落とし、まるで古書を撫でるように言った。「灰になる前に、数字を燃やしましょう。私はその火種を持ってきた」
2043年8月8日午前零時。
行政放送が全国へ流れた。金色の国章が赤い稲穂へ滑らかにモーフィングし、耳障りなファンファーレが夜を裂く。
同時刻、神木ファームECサイトは「安全検査待ち」の灰色表示で氾濫し、配送タグ失効、売上見込みはゼロへと更新された。
蓮は旧式コンピュータ室で二十年前の短波ラジオを叩きつける。「黒川、貴様!」
安西からの通話。「社長、高速でトラック止められました。オーダーに“未認証貨物”表示されちまって」
「倉庫に戻れ。田んぼを守る準備だ」
2043年9月18日、鶴岡市立羽黒第三小学校グラウンド、午後三時二分。
秋祭りの太鼓が打ち鳴らされ、婦人会が配る米菓子の甘い香りが風に乗る。子どもたちの笑顔が弾けた七分後、最初の嘔吐児が救護テントへ運ばれた。
救急車のサイレンが反響する頃、県知事の臨時会見。「神木ファーム産米使用菓子に有毒物質検出。FSOに基づき農地を保全目的で収用する」
テレビ越し、蓮の顔は蒼白となり、安西はそれを上回る蒼白。納屋に夜の闇が降りる。
「社長……全部話す。クロノスは俺に内部在庫をリークさせた。早期退職金に負けた俺が悪い」
蓮は拳を振り上げたが、安西の肩で止めた。「償いの道を示せ」
「俺を囮に使ってくれ。NEPハブの古いIDは生きてる。サーバールームに案内できる」
同日二十三時四分、東京・中目黒、玲奈のリノベーション倉庫スタジオ。
レンガ壁にプロジェクタが映すのは神木ファームECの全構造。クリーンなコードが青白く脈動している。
「このEC、巧い……。SQLインジェクションの逃げ道ゼロ。馬鹿正直にセキュアコーディングを守り切ってる」
チャット欄にクロノス側PMから無遠慮なメッセージ。「米菓子汚染の件、拡散急げ」
玲奈は返答しなかった。代わりにバックドアを仕込み、FSO中枢の身分証連携を密かに上書き。
「正義も悪も、壊れるコードは同じ色」独り言のあと、クロノスの『ランドグラブ計画』PDFを閉じずに残した。
2043年10月1日、東京駅丸の内地下、高速リニア待合ゾーン、午後六時二十分。
蓮、響子、安西、玲奈が初めて同じテーブルに座った。フードコートのLED広告が政府広報〈FSOで飢餓ゼロへ〉をリピートする。
響子が切り出す。「オーダーの土地収用ログはNEP西多摩ハブにミラー保存されている。玲奈さんのバックドアがあれば権限を奪取できる」
玲奈はカード型PCB鍵を差し出した。「停電でも動くLoRaノード用。庄内の古い無線塔、まだ残ってるでしょ?」
蓮は泥で荒れた掌を差し出し、玲奈の火傷痕のある指と握手した。二つの汗が混ざり、小さな蒸気を生む。「数字を耕し直す。そのために、俺は土とコードを繋ぐ」
2043年10月2日、午前二時十四分、東京都西多摩郡瑞穂町・NEP無人配送ハブ。
四万平方メートルの旧基地格納庫。赤い回転灯が夜霧を切り裂き、ドローンのローター音が重低音を奏でる。
安西は薄汚れた旧型社員IDを首にかけ、警備ドローンの前で敬礼。認証に零・八秒のブランク。
「認証完了。ご苦労さまです」合成音声が通った。安西は喉元の汗が巡るのを覚えた。「ありがとうよ」
地下サーバールームは温度十四度、湿度三五パーセント。冷却ファンがジェットのように咆哮し、床下配管は白い息を吐く。
遠隔で玲奈がアクセス。「裏口、稼働開始。AI自己監査を偽装中。三十秒で管理権限奪取」
ターミナルには白文字の行が雨のごとく流れ、土地収用ログが一瞬でダンプされた。議員名、買収額、キックバック日時。赤いヒートマップは国土を腐蝕する腫瘍の図となる。
午前二時二十九分。突然の警報。
照明が落ち、UPSの非常灯が赤く脈動する。ガラス越しに黒川宗介が現れた。避雷針のような影が蓮たちの足元に突き刺さる。
「面白い夜遊びじゃないか。秩序は力で買うものだ。情けで買えるほど世界は甘くない」
響子はポケットプロジェクタを掲げ、全国へライブ配信を開始。
「私たちは今、国家と資本が結託し、食卓を奪う現場にいる」
視聴者数は数千から数万へと雪崩を打つ。
蓮がカメラを握り、泥だらけの手を画面に向けた。「俺たちの大地を金融商品に変える奴らへ告ぐ──耕す手は決して止まらない!」
玲奈が倉庫スタジオでLoRaメッシュノードを起動。二十キロ以内の旧式無線塔が次々リンクを確立し、停電下でも安定する低周波帯が鼓動した。
庄内平野、福井三国、千葉印旛。農家の古い受信機が覚醒し、汚職ログを映し出す。
SNSトレンドは“#飢饉アルゴリズム”が一位へ。
霞が関第二庁舎、農水省危機対策室。補佐官が絶叫する。「FSOを一旦停止しろ! 世論が爆発するぞ」
紙の決裁印が震えながら紙面を叩いた。「緊急停止!」
2043年10月2日午前四時七分。
金融庁がクロノス口座凍結を発表。東証は始値前にクロノス関連銘柄S安張り付き。
ハブ構内で手錠をかけられた黒川は、なおも笑んでいた。「私を消してもアルゴリズムは残る。土地も水も数字になる。それが近未来の真実だ」
蓮は肩で息をしながら言い返す。「数字を耕すのは人間だ。人間がいる限り、真実は書き換え続ける」
2044年4月17日、山形県鶴岡市、午前六時三分。
薄曇りの空の下、焼け跡だった田んぼに若い苗が緑の線を描く。蓮は足首まで泥に沈め、苗の柔らかな先端を撫でた。
遠くで安西が若手ドライバーに電動カプラーの扱いを教え、響子はドキュメンタリーの構成を記者に指示。
玲奈はその様子を遠隔で見守り、キーボード越しにほほ笑む。
蓮のポケットが震える。PGP暗号メール──送信者不明。
「システムは書き換え続けろ。停めた瞬間、また誰かが悪用する/R」
蓮は首を傾げ、口角を上げた。風が田面に小さな波を描く。
「ディストピアは終わらない。だが未来は、いつだって種子の形でここにある」
夕暮れ、彼らは苗代の端に並び、沈む陽を見送った。誰もが泥の匂いとコードの熱を身体に刻み、土と数字の狭間で呼吸する術を知った者たちだった。
蓮は鍬を握り直し、空を仰ぐ。「耕す者は、飢饉をもアルゴリズムをも超えていく。種子よ、眠れ。明日また芽吹け」
遠くでドローンが低く唸り、LoRaノードの緑ランプが点滅する。夜と朝の狭間、たゆたう靄の上に、未完の未来が蒼く揺れた。