2045年、アメリカ合衆国。大気を震わすほどの社会的不安が、この国の空気を粘つかせていた。新種の神経ウイルス「SCAR(Social Cognitive Atrophy Regression)」の蔓延により、呼吸だけでなく思考までもが鈍重になりつつある世界。政府が推奨するワクチン接種率は30%を切り、「実は政府の陰謀だ」「人口削減計画の一端だ」という声がソーシャルメディアでささやかれ、人々は日々、何を信じるべきか戸惑っている。
その混乱のさなか、首都ワシントンD.C.の东側にある小さなベーカリーが、にわかに注目を集めていた。理由の一つは、そこに通うCDC(アメリカ疾病予防管理センター)元上級疫学アドバイザーの男、エドワード・グレイの存在だった。彼は匿名アカウントで「SCARウイルスは人口削減計画の一環だ」と暴露し、瞬く間に反ワクチン運動のシンボルとして祭り上げられていたのだ。
だが、その嵐にさらなる火種を投じた出来事を知る者はまだごくわずかしかいない。ベーカリーの地下倉庫で発見された「ある機密文書」の存在。そして、それを偶然見つけたセレブ法廷カメラマン、ブライアナ・ソングの運命。彼女はグレイが自分の生物学的父親であると知り、その衝撃の中で、さらなる陰謀の証拠に触れざるを得なくなる。
時は同じくして、遠くウクライナから亡命したリーナ・ヴォルコフは、荒れ果てた研究所の廃墟でソ連時代の月面レーダー設計図を手にしていた。そこから検出された奇妙なパルス信号。そして、日本の技術者ケンタ・オオノとの国境を越えたデータ交換が、月面で起きた「白兎-III」着陸失敗の謎を解きほぐしはじめる。そこに潜む人工的な地震波の可能性が、やがてSCARウイルスへの疑念と繋がるとも知らずに。
移民弁護士アミーラ・ジョセフの下には、テロ事件と呼ばれるある案件が転がり込んだ。その被告は貨物トラックの運転手で、追跡した車両のナンバーは閉鎖された筈の検疫施設へ向かっていた。そして金融界のロイ・クラマーがNFTに隠された資金の流れを追うと、浮かび上がるのは宇宙開発企業と一人の上院議員の名前。しかしそこに暗躍するメディア王エリック・マスターズと、プロバスケットリーグの新星コーチ、ダリウス・トレントの計画は、一見派手なニュースキャンペーンに包まれながら、人々を病と恐怖の隔離へと誘導しようとしていた。
月面から地上へ、そしてさらに人々の心の深奥に。連鎖する陰謀の意図を解き明かすために、もはや彼らは立ち止まることなど許されない。やがて全員が向かうのは、ネバダ州の秘密施設——そこにこそ「赤い楯」という名の地殻変動装置の真実が凝縮されている。非情な闇の劇が開幕する時、月食が露わにするのは、人間のエゴの具現か、それとも救済の光か。
2045年5月10日、午前7時。ワシントンD.C.のペンシルベニア・アベニュー沿いにあるベーカリー「リリー&ローズ」。エドワード・グレイはいつも通り入口のベルをくぐった。カウンターでコーヒーとプレッツェルを手にし、片隅の席へと腰を下ろす。外見は白髪まじりの男性。だが鋭い眼光に一度射抜かれれば、ただ者ではないと感じられる独特の雰囲気があった。
彼がノートパソコンを開き、いくつものグラフや論文データを確認していると、背後から女性の声がした。「ここ、いいかしら?」尋ねたのはブライアナ・ソング。まだ20代後半という若さだが、すでに多くの著名裁判でカメラマンを務める程の実力を築いていた。人を惹きつける黒い瞳が印象的だ。彼女はソファの向かいに腰をおろし、スマートフォンをいじりながら、ひどく落ち着かない様子を見せている。
「グレイ博士、あなたに言わなければならないことがあるの」 その一言に、彼は顔をあげた。「正式にはもう博士ではないが……何があった?」 ブライアナは頬をこわばらせた。「あなたが毎日ここへ来る理由、知りたい。私は……あなたと血の繋がりがあると知ってしまった」「何だと?」グレイは動揺を隠せず、持っていたペンを落とした。
このベーカリーの地下倉庫で、ブライアナは偶然にも古い木箱を開けた。その中には「CDC極秘文書」のスタンプが押された資料がぎっしり詰まっていた。医療プロジェクトのコードネームやワクチンの試作に関する細かな記録、そしてその一部にグレイの名前が頻出し——さらには「対象個体B:ブライアナ・ソング。生物学的父:Edward Gray」と明記されていたのだ。
「私がこれを知った瞬間、すべてが変わったわ。グレイ博士、いえ……お父さん。あなたは私に何も言わなかったのね」 店内はまだ朝の穏やかな空気に包まれていたが、この席だけは張り詰めた緊張が支配していた。グレイは唇を引き結び、言葉を慎重に探しながら答えた。「今は詳しく話している時間がない。今日の正午、リーガン国際公園横の記念碑の前で会えないか。そこなら人目が少ない」
ブライアナは迷う様子もなくうなずき、店を後にする。彼女が去った後、グレイは手のひらで額を押さえた。彼は既に自ら発信した暴露情報により社会的信用を失っていたが、この娘の存在だけは守るべきだと心に決めていた。そして、SCARウイルスが内包するさらなる陰謀を暴くためには、機密文書を詳しく読み解く必要がある——そう考え、再びノートパソコンに視線を戻した。
同日、ニューヨーク州北部の移民支援事務所に、移民弁護士アミーラ・ジョセフの姿があった。黒いスーツに自然な巻き髪をあわせる彼女は、ロビーの椅子で待っている男を鋭いまなざしで見つめている。その男はテロ容疑をかけられた被告、イスマイル・ハビーブ。だが彼は混乱した様子で、ただ無実を訴えるばかり。書類には「貨物トラック運転手。容疑:不審貨物の違法運搬」と記されていた。
「あなたのトラックはどこへ向かっていたの?」 アミーラは落ち着いた声で問いかける。イスマイルは震えながら答えた。「ルートは指定されていたんだ。助手席にあった書類に書かれていた通りに運転しただけ……俺は何も知らない。書類には『検疫』とか何とか、わけのわからない言葉が」 この時期、既にCDCが管理する検疫施設は多くが閉鎖されていたはずだ。不審に思ったアミーラは、彼が言うナンバーを照合し、自分のスマートフォンでGPS情報を追跡してみる。すると、夜中にワシントンD.C.郊外の廃棄された施設へと繋がったルートが浮かび上がった。
アミーラはその情報を胸に、弁護士仲間のネットワークを駆使して施設の使用権限を調べる。夜がふけた頃、今や存在しないはずの特別許可証の書式を手がかりに、彼女は一人、レンタカーを走らせてD.C.へ向かった。
一方、遠くヨーロッパの片隅——いや正確にはポーランド国境近くのウクライナ難民キャンプ——でリーナ・ヴォルコフは、エンジンオイルのにおいが漂う簡素なラボでコンピュータ画面に睨みをきかせていた。彼女の細い指は複雑なプログラムのログをすばやく確認し、同時に週に一度の国際通信の準備をしている。 午前3時(現地時間)、彼女は日本の技術者ケンタ・オオノとビデオ通話をつないだ。ケンタは名古屋の人工衛星研究施設からだろうか、薄暗い部屋でスクリーン越しに手を振る。
「リーナ、そっちの進捗は?」 「前に送ってくれた月面探査衛星のシグナル分析、あれを私の持っている旧ソ連時代のレーダー設計図にあてはめてみたの。すると……周波数帯がSCARに関連する神経波と酷似してる。いや、ほぼ一致といってもいいくらい」 ケンタは驚きで目を見開く。「それってつまり、月面で発生した何らかの人工的な波が、SCARと同じ帯域で影響してる可能性があるってこと?」 「ええ。さらに、あの『白兎-III』が着陸失敗した時の地震波データとも重なる部分がある。月の地殻に異常な周波数を照射する装置があるんじゃないかしら。ソ連時代の計画名は『レッドシールド』……たしかそんな暗号表記があったはず」 リーナはそう語りながら、廃墟で見つけた設計図を画面にかざす。そこには旧ソ連のロゴとともに、月面観測基地のような配置図が描かれていた。ケンタはゴクリと唾をのみ込み、すぐに追加データを送信する。「この後データを精査してみよう。月面開発企業の名義の一部に、上院議員が関与しているって噂がある。そいつを突き止める」
翌朝、ワシントンD.C.市内。カメラを肩に担いだブライアナは、リーガン国際公園の記念碑の前でグレイを待っていた。時刻は正午を少し回ったところ。周囲は小学生の遠足グループが行き交い、春の陽気がほんの少しだけ人々の顔を和ませる。 グレイは少し遅れてやってきた。「待たせたな、ブライアナ。落ち着いて聞いてほしい。私はお前を、自身に巻き込みたくなかった。だから隠していたんだ」 ブライアナは唇を噛む。「でももう、そんな言い訳通じないわ。私の中で、大切なものが音を立てて崩れそう。機密文書には何が書かれているの?」 周囲の視線を気にしながら、グレイは言った。「かいつまんで言うと、SCARウイルスは単なる自然発生の疫病ではない。ある連中が、月面から発信される特殊な電磁波と化学的成分を組み合わせて、意図的に人々の神経を蝕もうとしているんだ。そして、その反応を促進させる ‘ワクチン’ もまた真実を覆い隠す道具かもしれない」
ブライアナは鳥肌が立つのを感じた。「そんな馬鹿げた話が……でも、今の状況を考えればあり得なくはないわね」 「問題は、それを推し進めているのが誰かということだ。私は匿名アカウントを通じて暴露をしてきたが、掴んでいる証拠は断片的だ。お前が見つけた資料や映像が必要なんだ」 「わかった。今夜、私の撮影スタジオに来て。地下の倉庫に資料を保管してある。そこで全てを確認させる」
約束を交わした2人はそれぞれの方向へ別れた。陽光の下、再び遠足に賑わう子供たちの声が響く。しかし、彼らの未来に待ち受ける世界は、このままではあまりにも残酷だ。グレイは歩きながら、メッセージアプリを開き、リーナ・ヴォルコフからの連絡を待った。既に国際的な連携が必要な段階に来ている——そう直感していた。
その夜、D.C.郊外の廃棄された検疫施設。厚い鉄柵と警告看板が立ち並ぶ中、門の脇には割れた窓から弱々しく灯りが漏れている。アミーラ・ジョセフは書類上で閉鎖とされているはずのこの施設に、夜陰に乗じて忍び込むことを決意していた。黒いフード付きコートを頭までかぶり、懐中電灯片手に裏口扉をこじ開ける。空気はかび臭く、長らく人の出入りがなかったはずなのに、明らかに最近動かされた物品がある形跡を感じる。
地下へ降りる非常階段を慎重に進み、扉を開けた瞬間、アミーラは信じられない光景を目にする。そこには巨大な培養槽がずらりと並んでいた。その外壁には、ある宇宙開発企業のロゴが刻印されている。そしてパイプや機材の側面には、人間の脳神経を模したような複雑なマーキング——仮にSCARウイルスの研究スポンサーがここで何かを行っているとしたら、あまりに不気味だった。
さらに奥へ進むと、格子状の床下に異様に輝く化学薬品のタンクが見えた。その時、アミーラのスマートフォンに着信が入る。ウェルズ・ファーゴの敏腕証券マン、ロイ・クラマーからだ。「こんな時間に……?」 「アミーラ、急用だ。NFTに暗号化された資金フローを追ったら、大物の名前が出てきた。ダリウス・トレントの父親である上院議員の口座だ。それだけじゃない。宇宙開発企業と結託しているメディア王——エリック・マスターズの存在も」 アミーラは息苦しさを覚えながら培養槽を見つめた。「私の目の前に、その企業のロゴがあるわ。これは一体……」 ロイの声は興奮を隠せなかった。「あなたと僕で、この金融操作を暴こう。SCARは彼らの計画の表看板に過ぎないんじゃないか?」
電話を切った後、アミーラは構内の様子をスマホのカメラで撮影し始めた。もしこれが公になれば、世界がひっくり返る規模のスキャンダルとなるだろう。しかし同時に、命の危険も大きくなる。彼女は決意を固めて施設をあとにした。次のステップは、公的な手段を通じて告発に持ち込むこと——だが、それには強固な証拠が必要だった。
時を同じくして、ニューヨークの有名スポーツアリーナ。プロバスケットボールリーグの新星コーチとして脚光を浴びるダリウス・トレントは、記者会見を行っていた。背丈は190センチを超える。筋肉質だが、どこか洗練されたスーツの着こなしが、メディア関係者やファンの視線を集めている。一方周囲には、常にエリック・マスターズの広報スタッフがつき従っていた。
「ダリウスさん、SCAR生存者の隔離法案を推進するキャンペーンをスタートされると伺いました。狙いは?」 「ええ、人々を安全に守るためには、感染リスクのある方々を速やかに保護区域に移す必要があると思います。これは人道的な措置です」 フラッシュが焚かれる中、ダリウスはまるで本心から語っているように見える。だが、その裏で「SCARの擬似的な恐怖」を煽り、社会を統制したい勢力の存在を、彼自身はどこまで把握しているのか——。
会見の後、楽屋に戻ったダリウスを待っていたのは、司祭服をまとった老齢の男、ファザー・ジョナサン。実父である彼は教会から駆けつけてきた様子だった。「ダリウス、これを……」そう言って手渡されたのは、1938年もののクリケットボール。過去の英仏で行われた親善試合の歴史的遺産だという。ダリウスは不思議そうな顔をした。「父さん、これは?」 ファザー・ジョナサンは静かに答えた。「その中に真実がある。開けてみなさい。君は大きな誤解の渦中にいる。私の息子として、君が暗闇に巻き込まれるのを見過ごすわけにはいかない。『彼らは天の盾を地に錆びつかせた』——聖書の一節だよ」
ダリウスは一瞬声を失ったが、やがてボール内部をX線スキャンする技術者のもとへ持ち込む。すると、中から浮かび上がってきたのは不可思議な設計図。これこそがレーダー干渉装置「レッドシールド」の一部情報だった。月面に設置された地殻変動兵器のような存在——まるで信じ難いが、実の父が警告しようとしているのは、何か昔から存在する陰謀めいた装置らしい。
5月15日、ネバダ州の砂漠地帯。満月の夜が近づき、月食が迫るという報道が流れていた。大都市ラスベガスから車で数時間離れた地点に、政府関連施設が点在している。そこに面積が広大な軍事演習区域があり、その一角に偽装された秘密研究施設が建っているという噂が絶えなかった。
はじめに施設付近へ足を踏み入れたのはリーナ・ヴォルコフだ。彼女はドローンを複数台用意し、怪しい建造物の外周を撮影する。そこで発見したのは、屋上に設置された球形のプレートアンテナ。月への信号送信を想定した構造を持つものだった。それがまさしく「レッドシールド」と呼ばれる装置の一部ではないかと直感した。
続いてケンタ・オオノが合流する。彼は日本から密かに手配したコンテナを携えており、中には小型の月面探査機を改良した制御装置が組み込まれていた。「僕らがこれを打ち上げれば、月面側でレッドシールドを無効化するか、あるいはデータを奪取できる。急務だ。時間は限られている」 リーナはタブレットを見せながら言う。「月食が明日夜だ。それに合わせて電磁波が最大に強まる。その前に私たちが動かないと、SCARの発症率がさらに爆発的に増えるかもしれない」
やがてアミーラ・ジョセフとロイ・クラマーも車で到着した。ロイが内部告発者ルートで集めた資金移動の記録をタブレットに表示し、上院議員とエリック・マスターズが密接に繋がっている事実を皆に示した。「連中は月面地震を演出し、そこから生じる経済混乱で巨万の富を得、社会を牛耳ろうとしている。SCARウイルスはその道具に過ぎない」 アミーラは培養槽の写真を見せ、「人為的にウイルスを培養・改良していただなんて……許せないわ」と拳を握りしめる。
まもなくブライアナ・ソングとエドワード・グレイがやって来た。ブライアナは法廷カメラマンとして培ってきた技術を駆使し、今回の一部始終を撮影・配信する準備を整えている。グレイは低い声で言った。「これまで私が発言してきたことが、ついに全世界へ白日の下に晒される時が来た。法廷ストリーミングと同時に、反証不可能な映像を公開するんだ」
最後に姿を現したのはダリウス・トレントとファザー・ジョナサン。ダリウスはクリケットボールをそっと抱えている。「俺の父親、上院議員がこんなにも邪悪な計画に手を染めていたなんて……。だけど、僕はその連鎖を断ち切りたい。コーチとして人を導く立場にいるからこそ、偽りの隔離法案で人を苦しめるわけにはいかない」 ファザー・ジョナサンは祈るように手を合わせる。「時は来た。あなた方が力を合わせ、迫りくる月食の闇を裂き、真実を示すのだ」
翌晩、月はゆっくりとその姿を欠けさせていた。ネバダ州の砂漠地帯の上空は、淡く赤銅色に染まる月を覆うように薄闇が広がる。施設の警備網をかいくぐり、グレイたちは潜入を開始する。
まずはリーナの操るドローン群が、施設の外部電源を狙って攻撃を仕掛けた。小型のEMP(電磁パルス)弾頭を搭載したドローンが、配電設備を一点集中で破壊。施設が緊急電源に切り替わった隙を突いて、アミーラとロイが内部のサーバールームへ急行した。周囲には武装した警備員がいたが、電源故障の混乱で動揺しており、二人は隠密行動に成功する。
サーバールームでアミーラは手際よく端末をハッキングし、培養槽の実験データをコピー。ロイは持参したノートパソコンでNFTウォレットの鍵を用い、上院議員の口座を凍結するための暗号演算を開始する。「あと少し……もう少しだ……」彼の額には汗がにじむ。モニター上のバーが徐々に進捗を示し、ついに「COMPLETE」の文字が浮かび上がる。
一方、ダリウスは別の通路で父親である上院議員の姿を見つける。背後にはエリック・マスターズの姿までも。「お前には失望したぞ、ダリウス。せっかく良い駒になってくれると思ったのに」エリックが厳かな声色で言う。上院議員は無言のままだ──怒りか恥か、表情が読み取れない。 ダリウスは応じる。「残念だが、俺はあんたたちの操り人形にはならない。地球の人々を苦しめるなんて、誰が許すものか」 拳を強く握るダリウス。そこへファザー・ジョナサンが静かに歩み寄る。「息子よ、あなたが選ぶ道が神の御心に適うならば、何も恐れることはない」 エリックは嫌悪を込めて吐き捨てる。「神だと? そんなもの、この高度情報社会で通用すると思うのか。私が世論を操作すれば、人々はいくらでも信じるものを変えるのだよ」
その背後では、ブライアナがカメラを回していた。すでにライブストリーミングは開始され、このやり取りは世界中の視聴者の目に焼きつつある——特にSNSで拡散が始まれば、一瞬でこの陰謀が明るみに出るだろう。
同時刻、ケンタは施設の別棟にあるロケットランチャー設備に着手していた。彼が持ち込んだ改良版の月面探査機を、強行発射の形で打ち上げる算段だ。月食による空気の不安定さはあるが、ここを逃せばレッドシールドが起動し、次の地震波が起きる可能性が高い。「準備完了……」彼は祈りを込めて発射スイッチを押す。激しい噴煙と衝撃が周囲を包み、探査機は夜空へと飛び立った。
その爆音がエリックと上院議員の気を一瞬奪った隙に、ファザー・ジョナサンが手にしていたクリケットボールを床に叩きつけた。内部に仕込んであった制御装置が、通路全体の電子ドアをロックし、同時に赤い楯=レッドシールドへの送信が停止する。「何を!?」エリックが叫ぶ。「お前たちがその装置を拘束できるとでも思っているのか?」
だが、その瞬間リーナが通信機で叫ぶ。「施設のメイン電源が落ちた! ドローン群が外の変電設備を完全にダウンさせたわ。今がチャンスよ、各自脱出を! ケンタの探査機が月面に到達すれば、レッドシールドは破壊できる筈!」 エリックは焦燥感に駆られた様子で上院議員に目配せする。議員は携帯端末を取り出して指示を送ろうとするが、すでに通信は絶たれ、口座は凍結されている。
あらゆるシステムが停止していく中、ブライアナがカメラを向けた先には、微動だにしないエリックの憤怒の表情と、ダリウスを見つめる上院議員の苦悩の姿が映し出されていた。そして物陰から警備員たちが駆けつけようとするが、既にグレイが手配した民間レジスタンス勢力も侵入しており、にわかに混戦模様を呈する。 それらの一部始終がライブ配信され、間もなく周知の事実となった。エリック・マスターズはもはや逃げ場を失い、やがて現れた連邦捜査官によって逮捕される。
その後、世界中を揺るがした一連の陰謀事件は、チャンネルやSNSを通じて公に暴露された。上院議員の資金洗浄、SCARウイルスと月面地震兵器の密接な関係、そして多数の権力者たちの裏工作。エリックの逮捕によって組織は瓦解し、SCARワクチンの供給ルートも見直しを余儀なくされていくことになる。
だが、SCARそのものが消え去ったわけではなかった。ウイルスに感染した多くの人々は、依然として後遺症に苦しみ、社会復帰に困難をきたしている。政府はようやく正当に動き始め、新たな研究が進められていたが、人々の傷はまだ癒えない。
その中で、あのネバダの秘密施設の電源が落ちたあの日、ケンタが月面に打ち上げた探査機は、レッドシールドを破壊することに成功した。装置崩壊の際に舞い散った微細な宇宙塵が、地球の大気圏に降り注ぎ、極域で鮮やかなオーロラを永続的に照らし出すという現象を引き起こした。夕刻や夜明け時に見える幻の彩光は、人々の希望を象徴するかのように空を飾っている。
リーナ・ヴォルコフとケンタ・オオノの二人は、その後廃墟となった月面基地へ向かう調査隊に参加した。地上は混乱しているとはいえ、月側の陰謀施設の完全消去を確認する使命があるからだ。だが、到着した月面遺構の奥で、二人はじっとりとした電波パルスを新たに検出してしまう。「まだ……何かが動いてる。レッドシールドは_destroyed_、なのに」リーナの声は震えていた。
次の瞬間、通信からは耳障りなノイズが走った。「ここに新たな装置……嘘でしょう……」凍りつきそうな程の不安を押し殺しながらも、リーナとケンタはその先を確かめる決意を固める。SCARが人間のエゴの産物であるとしたら、赤い楯のような兵器は何度でも復活する危険がある。
一方、地球ではダリウス・トレントが手にしたクリケットボールを眺めていた。X線照射で浮かび上がった文字列が、実はまだ続きがあったのだ。「第一シールドは月にあり、第二は汝らが心に宿す」——彼はその言葉を口にする。人が疑念と闇を抱き、エゴを肥大化させる限り、新たなレッドシールドは人々の心の中にも生まれてしまうかもしれない。それがファザー・ジョナサンの懸念する真理だった。
ブライアナ・ソングのカメラが捉えた映像は、世界を震撼させる真実を炙り出し、多くの人々に衝撃を与えた。だがその結末は、単純なハッピーエンドでは終わらない。まさに今この時も、SCARの後遺症と闘う患者たちは、日々の小さな喜びを道標に生きている。彼らの頭上には、レッドシールド破壊によって大気に散った微細な宇宙塵がもたらすオーロラが、まるで永遠の灯火のように瞬き続けている。
ネバダの闇夜、砂漠の風に乗って奏でられる月食の余韻。そこに佇むグレイの姿を、ブライアナのカメラがとらえる。彼の瞼にはうっすらと涙の光が宿り、言葉なくして多くを語る。悔恨と安堵、そして新たな試練への覚悟。あらゆる感情が入り混じったその涙が、カメラのファインダーを突き抜けるように観る者の胸を締めつける。
やがて夜明けが訪れる。数時間後、遠くの空にはまだ淡いオーロラがかかり、まるで人々の罪と贖いを照らしているかのようだった。「人間のエゴが創造する盾は常に脆弱だ」——既に世界中のメディアがそう報じ始めている。だが、それでも生き抜くために、人々は互いに手を取り合うしかない。人類の盾が錆びつくのか、それとも新たな道を示すのか。答えを握るのは、月でも宇宙でもなく、今ここに息づく人間の心の在り方である。
グレイは静かにブライアナへと振り返り、そっと頷く。父と娘の絆は、様々な苦難を経てまた新しく育まれるだろう。リーナとケンタの冒険は続くかもしれない。アミーラとロイの手による金融の浄化はまだ道半ばだ。ダリウスもまた、スポーツを通じて人々を勇気づけるのを止めないだろう。ファザー・ジョナサンはその背を押し続けるに違いない。
終わりなき戦いの先に、微かな救いの光。月がその姿を再び満ち欠けさせるたび、世界は一歩ずつ変わっていく。赤い楯と月食の鎖は断ち切られたようで、まだすべてが終わったわけではない。それでも生きて、真実を求め続ける。その果てにこそ、人類の未来が広がっていると信じて。
赤銅色に染まった月の余韻が消えて数か月後。表舞台からは一旦姿を消したSCARの話題だが、世界各地で神経症状の反復例が散見され始めた。政府や医療機関は「回復傾向にある」との声明を繰り返していたが、真相はまだ闇の中にあった。
ある夏の日、ダリウス・トレントはチームの遠征先であるカリフォルニアのスタジアムで、練習を見守っていた。彼の視線は強豪チームに挑む選手たちよりも、その背後のスタンド席に向かっていた。スタンドの隅には、ある男が静かに座っている。かつてダリウスの父を政治の道へ引き込んだブレーンの一人、ティモシー・クラウドだ。マスターズと上院議員が失脚した今、彼らのブレーンもまた動きを潜めていたはずだが、ここへ来て何を企んでいるのか。
ダリウスは瞳に不安を宿しながら、視線をそらす。「まさか、また新しい陰謀が……」 その呟きはかき消されるようにスタジアムのアナウンスが響いた。
一方、感染者支援グループの中心にいるブライアナ・ソングは、体調を崩す子どもたちを撮影しながら、胸の奥が張り裂けそうになっていた。SCAR後遺症とみられる症状を呈する児童たちは、眠りが浅く、幻聴や情緒不安定を訴えている。「これが、あの陰謀の名残なの……?」 彼女はファインダーを覗きながら、倒れる子どもを看病する母親たちの涙を映し出す。自分が発信する映像が、もっと社会を動かせるかもしれない。そう考えてはいても、行き場のない怒りや悲しみがぐるぐると渦を巻いていた。
リーナ・ヴォルコフとケンタ・オオノが参加した月面遺構調査隊は、旧ソ連時代の地下基地をさらに奥深くまで探査していた。月面には空気がないため、施設内外の破損状況を詳細に突き止めるには時間がかかる。宇宙服越しに滴る自らの汗を感じながら、リーナは慎重に進んだ。
「ここ……明らかに新しい足跡があるわ」 リーナの指が示す先には、砂埃が浅くかぶったブーツの跡が連なっていた。それは人為的な形状で、わずかに基地外へ向かっている。ケンタは通信で言った。「有人ミッションはすでに中断してたはずなのに……まさか別の勢力が? レッドシールドの再生を狙う連中がここに来ているのかも」 二人は科学者仲間に連絡を取りつつ、オペレーションセンターと呼ばれる区画へ向かう。そこでは、使われていないはずのターミナルが微かな電源を保っていた。スクリーンがちらつき、ロシア語と英語、さらには新しいコードネームのような数字列が不気味に輝いている。
ケンタが苦い表情で言う。「このプログラム……SCARの波形に酷似してる。レッドシールドを補完しようとする次世代装置のプロトタイプかもしれない」 「まずいわ。完全に破壊できていないということね」 リーナは動悸を押さえながら、ターミナルから可能な限りのデータをコピーし始めた。許せない——あれだけ多くの人々が苦しんだのに、さらに第二のSCARを生み出そうとする者たちがいるのだ。
そんな中、グレイはワシントンD.C.である会議を開いていた。参加者はわずか十名ほど。その顔触れは、かつて危機をともに乗り越えたアミーラ、ロイ、ブライアナ、そしてファザー・ジョナサンも含まれている。ダリウスはビデオ通話で参加していた。
「みんな、忘れないでほしい。SCARの真の脅威は、人の身体だけでなく心を縛り付けるところだ。あの陰謀が世に暴かれても、人々は新たな陰謀を疑うことなく受け容れてしまうかもしれない」 グレイの言葉に、アミーラはうなずく。「検疫施設跡にも再び動きがあると感じるわ。私のクライアントが、密輸業者系の組織から不可解な荷物の運搬依頼を受けそうになっているの。用途不明の医療装置……絶対に関連があるわ」
ロイは端末を操作しながら、モニターに国際資金の流れを映し出した。「どうやらティモシー・クラウドという人物に繋がる口座が大きく動いている。エリック・マスターズが逮捕された後、資金を分散させていたようだが、ここに来てまた合流し始めている。宇宙分野への投資資金として計上する兆候があるよ」 ファザー・ジョナサンが静かに口を開く。「大いなる闇が再び息を吹き返そうとしているのかもしれないね。私たちはもう一度、人々を欺く ‘赤い楯’ を止めなければならない」
通話画面の向こうでダリウスが歯噛みするように言った。「俺も協力する。他人を利用し、病を拡大させるようなやり方は決して許せない。スポーツを通じて、真実を語り続けてみせる」
全員の意思が共鳴し合う。あの日、ネバダの砂漠で月食の闇を切り裂いたように、今回はさらなる試練の前にもう一度団結するのだ。SCARに象徴される人の心の闇や、レッドシールドに代表される力の乱用と対峙するために——。
会議の最後に、ブライアナは決意を込めて言葉を発した。「もう一度、私はカメラを回し続けるわ。どんな陰謀がうごめいていようと、私たちの見つけた真実を、全世界に広めるために」
グレイはその言葉に静かに頷き、それぞれの顔を確認する。「では、準備を始めよう。今度は月面だけでなく、地上でもより複雑な戦いになる。だがその一歩は、この部屋から踏み出せる。私たちは、あの時と同じく一歩も退かないと誓おう」
窓の外には、夕暮れの光が差し始めていた。降りしきる闇の中でも決して消えない灯火のように、彼らの決意がまた一つに束ねられていく。それは世界を暗黒に染める陰謀に対する、たった十名のささやかな挑戦。しかし、かつて赤い楯の鎖を断ち切った彼らだからこそ、再び立ち向かえるのだ。
そして、この物語はまだ続く。闇が繰り返し訪れるように、光もまた人の心の奥底から湧き立つ。月の満ち欠けとともに、小さな希望の芽はいつか大樹となり、再び世界を照らし出すかもしれない。赤い楯と月食の鎖を巡る人間の可能性は、ここから未来へ、終わりなき旅路を描き出していく。