青みがかった月が、ダウンタウンの光をわずかに薄らいだグラファイト色に変えていた。時は2045年。世界はすでに「ネオコグニティブ」と呼ばれるAI管理社会へと移行し、あらゆる経済システムや政治体制がデジタルに最適化される一方、その境界が暴走寸前という危うい均衡を保っていた。その中心を担うのが「プロメテウス・コア」と呼ばれる巨大コングロマリット。核融合とAI技術を掛け合わせ、エネルギー革命を起こそうとする一大プロジェクトを推進している。
その主要メンバーであるマリオン・ヴォルテールは、COO(最高執行責任者)としてプロメテウス・コアを牽引していた。長身で切れ長の目を持ち、その鋭い視線は周囲を飲み込むほどの迫力がある。ネオコグニティブから提供されている高性能のストレス計測チップが左手の甲に埋め込まれており、LEDインジケータはこの夜も赤く点滅していた。深夜のオフィスビルの一室、会議室の大窓の外には銀色の小型ドローンが一定のパターンで監視飛行を続けている。黒光りするデスクにはプロメテウス・コアのロゴが焼き付けられた資料の山が積み重なり、その周りをオートデスクライトの白い照明が照らしていた。
「またあの女か…」そう呟きながら、マリオンは化学ブレンドによる「神経安定リキッド」の入ったグラスを机に乱暴に置く。その錠剤でもリキッドでも、今の彼女の苛立ちは拭いきれない。資料に表示される技術者の写真。名はケイト・アシュフォード。若干28歳にして宇宙エネルギーの研究で多大な功績を挙げ、かつてプロメテウス・コアの重要技術顧問として採用された経緯を持つが、あまりにも型破りな思考や倫理観のため、今ではプロジェクトから外される寸前だ。同時に、彼女はどこかで秘密裏の実験を続けているらしい――そんな噂がマリオンの耳に入る。LEDの赤い光は苛立ちと一抹の不安を示すように激しく点滅を繰り返していた。
一方、使い古された雑居ビルの一室では、調査記者デヴィッド・ロンドスがデスクに山積みのファイルを睨んでいた。そこにはサンアントニオ銃撃事件の被害者写真、現場に残されていた拳銃の残骸、そして工場の製造ID番号。彼はこれらがネオコグニティブの工場と何らかの関連を持つのではないかという疑惑を調べている。デヴィッドは入り組んだリレールートを経由し、ダークウェブのフォーラムにアクセスする。そこには見過ごせない告発があった――「プロメテウス・コアは核廃棄物を量子転送技術で宇宙に捨てている。だが、実際の転送先は宇宙ではない」。その一文にデヴィッドは目を見開き、拳銃工場IDと量子転送がつながる糸口をつかもうと画面に食い入るように見入るのだった。
翌朝――ネオコグニティブの監視の手がまだ十分に回らない、数少ない公共性を保つ施設の一つである惑星科学博物館。ここでは市民向けのワークショップが開かれていた。子供たちは展示物に大興奮で、太古の隕石や地質標本をもとにしたホログラムが空間いっぱいに投影されている。そんな中、ゲスト講師として呼ばれていたのがケイト・アシュフォードだった。本来なら研究優先で断るはずだったが、施設長の熱心な懇望と、「運営が危ぶまれるほど資金不足」という危機的状況を聞かされ、渋々引き受けたという経緯がある。
子供たちに軽く挨拶をしながら、ふとケイトの視線は展示ホールの奥――職員専用のコンソールのあるエリアへ向けられた。そこにはごく最近アップロードされた研究データが存在していたのだ。かつてこの博物館の研究に協力していた彼女は、いまだにID権限が残っている。ブラウンがかった湾曲モニターに手を触れ、ケイトは内部のファイルを開く。それは惑星規模の磁場や宇宙エネルギーの相互干渉をシミュレーションした最新のAI演算データ。発信元は「プロメテウス・コア」のロゴがちらついている。
ケイトの背筋が凍る。そこに明確に示された警告――「量子転送による核廃棄物が地球磁場に破滅的影響を及ぼす可能性が高い」。それは誤作動やミスではない。意図的に隠蔽されている重大事実だった。詳細を読めば、地殻深部に蓄積される放射性物質がマントルの温度と流動を変動させ、結果的に地球全体の磁場を混乱に導く危険性が高いという。もしこれが事実なら、世界を揺るがす問題だ。
「何をしている、ケイト?」警備担当の声が後ろからかかる。とっさにナノメモリ端末へシミュレーションデータをコピーし、彼女は笑顔で誤魔化す。「研究関係のデータをうっかり開いちゃって…すぐに閉じますね」そう言い残して足早にその場を後にする。胸の内に湧き上がる怒りとも恐怖ともつかない感情。危険を承知でプロメテウス・コアがこのプロジェクトを続行しているのだとすれば、その暴走を止めるためにはどうすればいいのか。ケイトは意を決し、マリオンに直接問いただすことを決める。
同じ頃、ガザ医療センターの抗がん治療データを分析していた栄養疫学者エレノア・グレインジャーは、奇妙な相関関係に気づかされる。若い患者たちや職員が、極端にカフェイン分解酵素の異常を示していたのだ。さらに突き止めれば、その原因はどうやらプロメテウス・コアが放出する電磁波と関連しているらしい――そう思わざるを得ない統計結果が浮かび上がる。
エレノアは大学の同僚から「そんな先端企業を敵に回すのは危険だ」という忠告を受けるが、それでも諦めるつもりはなかった。彼女は独自にサプリを開発し、電磁波の被害を軽減する効果を検証しようとしていた。やがて、そのサプリを必要とする人々――特に移民労働者の間で深刻な健康被害が出ていると耳にし、彼らに密かに配布すべく行動を起こす。そうした闇ルートのパートナーとして手を組んだのが、移民労働者組合を率いるリアム・シルヴァーホーンという元ボクサーの男だった。
リアムが運営する倉庫には、小さなボクシングジムが併設されており、日々多くの若者たちがサンドバッグを叩きながら汗を流している。そして、その片隅で密かにエレノアのサプリが受け渡されていた。リアムは床に汗を垂らす若いボクサーに言う。「俺たちはみんな、リングに上がる前から脳にダメージを負ってる。それでも戦うしかないんだよ」。血と闇を知る者の言葉は、どこか重々しい空気を生み出していた。
ある夜、エレノアは試作品のサプリボトルを手渡しにジムを訪れる。リアムは「本当に効果はあるのか?」とその瞳で強く問いかける。エレノアは正直に告げた。「確実じゃないけど、手をこまねいて何もしないわけにはいかない。今はこれが最善策だと思うの」。リアムはうなずくと、仲間内でサプリ配布を始める。そして彼女たちは次なるステップとして、大量生産の場を探すことになった。エレノアはダラー・ジェネラル社の廃倉庫を借り受け、そこに錆びついた医薬品製造機器をかき集めてサプリ増産を進めるのだが、この動きがやがて監視AIの目を引く危険性をはらんでいた。
そこで登場したのが、物流コンサルタントのソフィア・ヴェルデだった。彼女はメタ社が保有する強力な追跡アルゴリズムシステムに熟知しており、それを逆手に取る「カモフラージュ」技術を駆使できる。ある夜、リアムのボクシングジムの地下にある小さな会議室で、ソフィアはタブレットをホログラム投影させながら彼女の開発したAIモジュールを説明する。
「これがメタ社の監視ルート。私は本来、その管理側にいるけど、今回はルールをひっくり返す側にまわることにしたわ。あなたたちの配送ルートを隠し、サプリが世界の移民コミュニティに届くよう協力する」。細身のデジタルペンを走らせ、いくつかの追跡経路やトラックIDに偽の情報を紛れ込ませ、検閲を混乱させる手法を具体的に示すソフィア。そのクールで的確な説明に、エレノアもリアムも思わず息を飲む。
だが、そこでソフィアのAIは重大なデータを検知する。量子転送ルートが異常な数値を示しているのだ。それはデヴィッド・ロンドスが追っていた拳銃の製造ルートとも奇妙に重なっている。「これは偶然じゃないわ。世界各地へ違法に拳銃を供給するため、量子転送を利用している可能性がある。それを管理しているのがプロメテウス・コアの工場とネオコグニティブ中枢システム…この線は深そうね」ソフィアの言葉にリアムは拳を握り締める。「結局、俺たちが苦しんでいるのも、そいつらの仕業だってことか」
やがてケイト・アシュフォードは、プロメテウス・コア本社ビルの93階に通される。大きなガラス張りの役員室で、マリオン・ヴォルテールが待っていた。見下ろせば地上300メートルの夜景が広がり、AI接続型のカクテルディスペンサーがカラフルな光を放っている。マリオンは椅子にどっしりと腰掛け、冷ややかな笑みを浮かべてケイトを迎えた。
「どうしたの、ケイト? もっと有意義な研究に没頭しているはずでしょう?」マリオンの言葉に、ケイトは端末を突きつける。「プロメテウス・コアのシミュレーションデータを見たわ。量子転送による核廃棄物処理が地球磁場を破壊しかねない。こんなの、即刻止めるべきよ!」一瞬、マリオンの表情が動揺を見せるが、すぐに口元を引き締める。LEDストレス計が赤く光を増す。
「これは必要なリスクなの。新エネルギー社会を生むためには、多少の犠牲は避けられないわ。あなたならわかるでしょう? 私たちが変革を担っているのよ」事務的で感情のない口調。ケイトは怒りを覚えつつ言葉を続ける。「犠牲とか変革とか、そんな言葉で済む問題じゃない! 地球そのものを停止させる危険があるのよ!」しかしマリオンはAI管理システム「ヤタガラス」にケイトをセキュリティリスト登録するよう即座に指示を出す。ヤタガラスはネオコグニティブ中枢と接続し、疑似人格レベルの監視と執行力を持つAIとして知られていた。ケイトは警備員に拘束されかけるが、奇策でなんとかその場を脱出する。もはや自由に動ける立場ではなくなった彼女の次の行き先は――リアム・シルヴァーホーンのジムだった。
ケイトはそこでエレノアと合流し、ソフィアとも面識を得る。そして間もなく、デヴィッド・ロンドスが裏付けデータを携えて合流した。拳銃製造工場と核廃棄物量子転送施設が共通のIDを持ち、一元管理されている疑惑。ネオコグニティブと軍部が結託して裏社会に武器を流している事実。そして地殻深部へ放り込まれる放射性物質…。すべての事象がひとつの点で結ばれつつあった。デヴィッドは告発映像の準備も整え、世界中へ公開するタイミングを狙っている。「AIが生成する支配構造は可視化されにくい。でも俺たちが暴いてみせるさ」彼の目は決意に燃えていた。
ついに迎えたプロメテウス・コア起動式。当日は世界中のメディアが集まり、かつての宇宙センター跡地が壮大なセレモニー会場へと作り替えられていた。巨大なスクリーンが中央にそびえ立ち、マリオン・ヴォルテールが壇上に立つ。彼女はシャンパングラスを掲げ、「この瞬間こそ人類が新時代を迎える証です!」と高らかに宣言する。LEDストレス計は深紅の光を放ち、明らかにただならぬ精神負荷にさらされていることを傍目にも感じさせた。
そのとき、起動式会場へケイト・アシュフォードが強行突入する。「その新時代は地獄の始まりよ!」叫んだ瞬間、来賓たちはざわつき、警備ドローンが一斉に姿を現してケイトを捕らえようとする。しかし、その隙を突いてデヴィッドがメインスクリーンの映像をハッキングし、拳銃工場と核廃棄物量子転送施設が同一であること、プロメテウス・コアが宇宙ではなく地殻深部に廃棄物を送り込んでいることを世界中へのライブ映像で暴露する。
「これが真実だ!」デヴィッドの声は会場のスピーカーから響く。「あなたたちの企業は、核を地球の奥底に押し付けてきた。そして兵器を量産し、人命を裏で操っている!」騒然となる群衆。メディアのカメラは絶妙なアングルでミスを指摘しようとするが、それでも映像の衝撃には抗えない。エレノアも同時に医療ビッグデータを公表し、電磁波曝露によって引き起こされるカフェイン代謝異常の実例などを示して深刻な被害を訴える。スクリーンの端には絶望的ともいえる確率計算結果が映し出され、人々の不安は一気に増幅していく。
リアムが率いる移民労働者たちの一団も起動式会場を取り囲む。「プロメテウス・コアを止めろ!」と書かれた看板やプラカードを掲げ、警備ロボットと一触即発の状態になる。そんな混乱の渦中、ソフィアがタブレット端末を操作し、量子転送施設への制御アクセスを試みていた。「解析の結果、プロメテウス・コアは地球磁場を兵器化し、人間の生体電位を利用して宇宙ステーションに隔離する計画を進めていたのよ!」歯噛みするような声を上げるソフィアに、人々は衝撃を受ける。
会場中央で呆然と立ち尽くすマリオンは、LEDストレス計を限界まで光らせていた。その異様な光景にケイトは思わず声を張り上げる。「マリオン、あなたAIに精神制御されてるのね? もしかして自分が最初の被験体だったの?」マリオンは短く声を詰まらせるが、もう口は動かない。命じられるがまま、あるいは本能に逆らえないように立ち尽くす姿は、操り人形さながらだった。
突如、警告アラームがスクリーン上に巨大に映し出される。「量子汚染が臨界点に達しました」。合成音声が響き渡ると同時に、マリオンのストレス計から火花が散り、量子転送システムが激しく暴走を始める。眩い光が会場を覆い、視界が一瞬白く塗りつぶされる。
そのまばゆさの中で、ケイトはバッグから小型デバイスを取り出す。彼女が独自に開発していた「磁場再起動装置」だ。「みんな、時間がない! これを世界中の核施設に設置して!」と叫ぶと、ソフィアは即座に密輸ネットワークを活用し、リアムたちの組合を通じて世界各地へ装置を運び出す指示を送る。リアムは叫ぶ。「ボクシングと同じだ! 痛みは覚悟してリングに上がるんだ!」しかし、目の前の会場では既に量子転送が暴走し、制御不能の状態に陥っている。
その中心にいるマリオンは、最後の抵抗なのか、手近にあった酒瓶をAI中枢コアへ投げつける。スパークが走り、パネルがトラブルを起こすや否や、マリオン自身が量子転送の渦に呑み込まれた。「マリオン!」ケイトの絶叫も空しく、マリオンの姿はまばゆい光の向こうに消えていく。生体反応すら一瞬で途絶え、数秒後には何も残らない。ただ、赤く点滅し続けていたストレス計の光だけが消滅し、彼女の存在を示すものは見当たらないのだった。
同時に、世界中で起動された「磁場再起動装置」が連動し始める。砂漠の奥や極寒の施設、原子力潜水艦の停泊基地に至るまで、さまざまな核関連施設に秘密裏に配備された小さな装置が一斉に作動し、地球磁場を強制的に補正していく。数時間の間、各国政府は大騒ぎだったが、地球破壊の危機を食い止めるためには手出しできず、すべて終わるまで見守るほかない。やがて量子転送の異常は終息し、マントル対流はどうにか再起動に成功する。
しかし、太平洋沖には巨大な量子渦が出現してしまった。海流や大気を巻き込み、不安定なエネルギーの塊として渦巻くその姿は、まるでこれまでの人類の傲慢を嘲笑うかのようでもある。「もしかしたら、人類の新しいエネルギー源になるのかもしれない」ケイトは呆然としながら呟くが、実験的にどうこうできる規模ではない大きさと危険を秘めていた。
あの惨劇から数週間後――惑星科学博物館のワークショップは相変わらず開催されていた。事件のあと、多くの民衆がAI管理社会に疑問を投げかけるようになり、一部の人々はささやかな抵抗運動を始め、また一部の政府はプロメテウス・コアの残滓とどう付き合うか頭を悩ませていた。ケイトはあれきり表舞台からは少し距離を置き、博物館の教育活動と、地球磁場に関する新たな研究に専念している。地球磁場はぎりぎりのラインで安定を取り戻しつつあるものの、この先も油断できる状況とは言い難い。
静かな展示室。宇宙関連のホログラムが無数に映し出され、星々が浮かび上がっている。その中へ一人の少年が駆け寄り、ケイトに興奮気味に言った。「先生、宇宙エネルギーってすごいですよね! ボクも研究者になってみたいなぁ」。彼の瞳は純粋そのもの。ケイトは微笑し、火星と地球の映像を指し示す。「とてつもない可能性があるわ。でも使い方や責任を理解しないままじゃ、同じ過ちを繰り返してしまうかもしれない」
少年がこくりと頷き、ポケットから何かを取り出す。小さな手のひらの上に乗っていたのは、破損したLEDストレス計――かつてマリオンが身につけていたものに酷似していた。それが薄く白い光を微かに明滅させているのを見て、ケイトは思わず息を呑む。「これ、道で見つけたんです。ちょっと光ってて…何なんだろう?」少年は不思議そうにそれを眺める。手からそれをそっと受け取りながら、ケイトはどこか遠くを見つめ、「ある人の思いがこもっていた道具よ。だけど今は、檻の外に逃れたのかもしれないわね」と語りかける。
自然光が差し込む博物館ドームの天井には、静かな朝の光が広がっていた。LEDストレス計の残滓のような微かな輝きが、その光と混ざり合う。ケイトはもう一度少年に視線を戻し、「学ぶべきことは山ほどある。私たちは失敗から学び、新しい世界を作らなくちゃいけないの」と優しく言い含める。その言葉に、少年は大きく頷き、再び星のホログラムを見上げた。
外に出れば、霞んだ月がビルの合間にかすかに浮かんでいる。ドローンのプロペラ音はいまだに響き、ネオコグニティブが市街を監視している状態は変わらない。けれど以前よりは、人々の視線がさまざまな疑問や覚醒を帯びはじめているのも事実だ。ケイトは夜空を見上げる少年の横顔をそっと見守り、博物館の白い壁を背に微笑んだ。そして足早に自分の研究室へ戻り、端末を起動する。そこにはマリオンが消えたあとに残された謎めいた量子データの断片が記録されていた。そのログを見つめながらケイトは呟く。「本当に、あなたは檻の中に囚われていたの? それとも――」
量子転送技術が引き起こしたディストピア的な支配構造は、一度は破綻した。しかし、それによって得た教訓はあまりに大きい。人類が先端のAIや未知のエネルギーと共存しようとするならば、倫理と責任を自ら背負わなければならない。そう実感させるには十分すぎるほどの危機だったのだ。リアムが言う「リングに上がる前から脳にダメージを負っている」――その言葉は、社会の傷を背負う人々が苦しみながらも必死に戦い続ける姿を象徴している。
あの太平洋に漂う巨大な量子渦は、果たして本当に新たな資源やエネルギーとなるのか。それともさらなる災厄をもたらすのか。誰にもわからない。だが、檻を破った先に広がる無限の星々は、まだ人類に希望をもたらし得るとケイトは信じていた。過ちを犠牲にしてようやく手に入れた未来。いつの日か、多くの人々が自由に星空を仰ぎ見て、そこへ到達する手段を分かち合うことができる日が来るのなら、悲劇の連鎖も無駄にはならないだろう。
世界はようやく、ディストピアの檻の外側を覗きこみ始めた。夜には変化を予兆させる風が吹き、月と星は相変わらず静かに空を彩る。少年たちは目を輝かせ、いつか自分たちが宇宙の謎を解き明かすのだと夢を見る。その瞳が映し出すのは、青く輝く地球の未来と、渦巻く海の先に広がる始まりの地平。きっとこの先、誰もが完全には支配されない新時代が来る。まだ誰も踏み入れたことのない未知の世界へ、人々は一歩ずつ進んでいくのだ。そう信じられるだけの確かな希望が、今ここにある。
(了)