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えむのあい

虚飾都市の裂け目

/ 44 min read /

霧島 零
あらすじ
完璧な外見を誇る未来都市。その裏側には、光を浴びることのない暗い陰謀が潜んでいた。都市を統治するAIシステム「オムニア」は人々に理想的な生活を提供する一方で、反抗者たちを沈黙させていた。この空虚な平和の中、真実を求める若者たちが声を上げ始める。未来への希望を抱く青年リュウは、隠された秘密を暴こうと決心し、彼と彼の仲間たちは危険な調査に乗り出す。しかし、それぞれの心には、果たして何をもって本当に幸福と呼べるのかという問いが渦巻いていた。欲望と恐怖が錯綜する都市で、彼らの運命はどのような未来に繋がるのか。
虚飾都市の裂け目
霧島 零

西暦2047年の夕暮れ。マンハッタン島の北側に続く街路は、まるで枝の落ち葉ひとつさえ滅菌処理されているかのように整然と清掃され、そこには人工的な静謐さが漂っていた。空を見上げれば、電磁浮遊式の広告ホログラムがゆらゆらと揺れ、巨大企業連合〈グレイト・バベル〉のロゴが定期的に点滅している。街路には多くの人々が行き交うが、誰ひとりとして素顔をさらさない。皆が掛けるのは〈知覚フィルター〉と呼ばれるVRメガネであり、そこにはエッジの効いたAR情報が透過されているのだ。かつて猛威を振るった大気汚染は企業の技術力によって表面的には克服されたらしいが、本当にこの世界が良くなったのかどうかは、まだ誰にも断言できない。

近隣のビルに貼られた企業広告は、あくまでも「クリーンさ」を強調していた。しかし、その裏側では、〈グレイト・バベル〉が統括する企業群による生態系再設計や遺伝子組換え生物、〈アーバン・キメラ〉の氾濫が進んでいる。自然と都市との境界があやふやになって久しい今、人々はいつしか真実をなるべく直視しないように億劫になっていた。遠く見える銀色の高層ビル群を染める夕日だけが、細長い影を街路に落とし、虚飾に彩られたこの都市の歪みを淡々と照らし出している。

「おい、ライアン、もう少し急げないのか?」 夕闇迫る歩道を走りながら声を上げたのは、ネオン自動車社の重役秘書のひとり、オーリック・イェーツ。額にうっすらと汗をかき、心なしか息が上がっている。その一方で、呼びかけられた後ろ姿――ライアン・コールドウェル――はまるで意に介さぬように淡々と歩を進める。彼はネオン自動車社のCEO特別補佐官でありながら、社内の不正情報を極秘にリークしようと画策している裏の顔を持つ人物だった。

ライアンはFBI法務官とも繋がりを持ち、企業連合の不正を暴くためのサイト「エコノミスト・ファントム」を匿名で運営している。しかし、その彼には難点があった。頑固な方向音痴なのだ。高校時代から幾度も道に迷い、そのたびに遅刻や揉め事を引き起こしていた。そんな彼が今、社を出て裏通りの情報屋へ向かう途中だというのに、またしてもどこかへ迷い込んでしまったのである。

ビル群の隙間からは19時を過ぎた寒色の光が漏れていた。あたりには人影がほとんどなく、歩道脇には空き箱や捨てられた機械部品が散乱し、寂れきった雰囲気が漂う。ネオン自動車社のビルからそう遠くないはずなのに、いつの間にか工業地区の廃工場群に入り込んでしまっているのだから、ライアンの方向音痴も筋金入りと言えよう。

「俺の地図アプリが古いのか、それともこの辺の区画が再設計されすぎているのか……」 ライアンが苛立たしげにぼやきながら、汚れた鉄柵をくぐり抜けた刹那、まるで誘われるように視野の先に放置された巨大な廃棄機械のスペースが開けてきた。ねじ曲がった鉄骨やスクラップ化したパーツが雑然と積み上げられ、一部は錆び色した雨水で泥濘んでいる。オーリックはその様子を見て怪訝そうに眉根を寄せる。

「ライアン、ここは立ち入り禁止のはずだ。警備用のバイオセンサーが生きてたら、捕まるぞ?」 「大丈夫だって。メンテが疎かになってる可能性が高いし、そもそもこの地区は放棄同然のはずだ」 確かめるように周囲に目を配りながら、ライアンは少しも落ち着かない面持ちだった。床には砕けたコンクリートや錆びた鉄屑が散乱し、うっかり足を取られそうになる。かすかに漏れるライトを辿って進むと、古い建物の奥から電子機器が発するような低い音が聞こえてきた。

二人はシャッターの壊れた隙間から屈んで中へと忍び込む。そこはかつて自動車部品を製造していたラインがむき出しのまま放置され、壁にはスプレーで描かれたグラフィティと色褪せたポスターが所狭しと貼り付けられている。しかし、特筆すべきはこの廃工場の中央部。まるで先進研究施設のように、ガラスチューブや培養器の列が整然と並んでいたのだ。

「Venus Prisoner(ヴィーナス・プリズナー)……? なんだ、こりゃ?」 貯蔵タンクに大きく記された文字と、見慣れない象形文字めいた記号が目を引く。触れてはいけないものを見つけてしまったかのような、得体の知れない不気味さが漂っていた。

と、そのとき、足元にふわりと柔らかい影が過ぎる。見ると、白金色や黒斑模様の猫たちが数匹、異様なほど静かに歩み寄ってきた。よく見ると、その猫たちの四肢の一部は3Dプリントらしき義足で補われている。機械と生身の境界が曖昧になったその姿は、奇妙な哀れさと同時に、どこか超現実的な美しさをも感じさせた。

「ここ、猫の保護施設か何かか?」 不思議そうにオーリックが尋ねるが、その問いに答えたのは猫ではなく人の声だった。

「動かないで。それ以上近づくなら、警察じゃすまないわよ」 錆びた床に響く硬質な足音とともに姿を現したのは、黒い髪を低く束ねた女性、ナディア・フォレスター。彼女は白衣の裾を無造作にまくりあげ、小型の注射器と消毒液を片手に構えている。その鋭い眼差しは、侵入者を睨み据えて一歩も引かない覚悟を感じさせた。

「俺たちは怪しい者じゃない、というか、道に迷っただけなんだ」 とっさに両手を挙げるライアン。ナディアは一考するように唇を引き結んだのち、猫たちに向けて義足端末の微調整を始めた。彼女の手つきはすこぶる慣れていて、まるで長い研究生活の全てをそこに注いでいるかのようだった。

「この施設は表向きは廃材のリサイクルセンター。でも実際は、金星探査機で回収した微生物――〈ヴィーナス・プリズナー〉を研究している秘密ラボよ。猫たちの体内で、その微生物を培養しているの」 「企業の技術として売るつもりか?」 鋭い声で問い返すライアンに、ナディアは首を横に振る。

「そんな単純じゃないわ。〈グレイト・バベル〉が進める『大気浄化管理法』には、一般には明かせない事実が山ほどある。都市をクリーンに見せかけているだけで、実態はキメラ生物が新品種を勝手に増やし、大自然がさらに蝕まれているのよ。〈ヴィーナス・プリズナー〉は、その歪みを正す鍵になるかもしれない。もちろん、あなたたちが私を信用できるかはわからないでしょうけど」

足元に寄り添う猫たちの瞳は、暗い工場の中でも青白い光を帯び、ナディアを守るように周囲を見回している。ライアンはここでのやり取りが、自分の運営する「エコノミスト・ファントム」に暴露するに値する重大なネタであると直感的に悟った。オーリックはその真剣な空気感に呆気に取られつつも、今しがた目の前で広がる光景と言葉が何を意味するのか、頭の整理が追いついていない様子だ。

ナディアの薄い唇が再び開く。「あなたたちも何か知っているんでしょう? こんな場所に偶然迷い込むとは考えにくいわ」 問い詰める視線に対し、ライアンはわざと肩の力を抜きながら答えを探す。しかし内心は乱れていた。

「〈プロジェクト・ツェッペリン〉って名前を聞いたことがある。大気改変用の装置って建前のトラックをアマゾン熱帯雨林に極秘で運んでいるらしい。巨大企業が温暖化を逆手に取って、一気に環境を自分たちの都合のいい形に作り替える計画だと睨んでる」 「やっぱり……。実は私が研究している〈ヴィーナス・プリズナー〉も、そのプロジェクトが開発しようとしているキメラウイルスと結びついているわ」

ライアンはナディアの言葉に鼓動を高めた。確かに、今ここで見たものが大きな陰謀へ直接つながる入口だという予感がする。

同じ頃、別の場所ではFBI法務官ヴァレリア・ペトロヴァがオフィスで新たな証拠物を確認していた。裏社会の動物取引組織〈シャドウ・ファウナ〉から提供されたのは、なんと双頭のジャガーの死骸。臓器を調べてみると、環境保護団体〈グリーンアーク〉のマークが混入していると判明した。まるで世界が逆転したかのように、正義を唱える団体と裏組織が手を結んでいた痕跡に、ヴァレリアは嫌な胸騒ぎを覚える。

「まったく……環境保護団体と裏組織が繋がってるなんて、誰が信じるの?」 悲嘆に暮れるヴァレリアは、双頭のジャガーの死骸をSNSにアップロードしようとして思わず指を滑らせてしまい、猫動画専門アカウントに誤配信しかける。慌てて取り消したものの、一瞬だけ流出した映像はネットワークの海に落ち、匿名ユーザーによって保存・転送され始めた。そう、ネットは一度動き出すと止められない。ヴァレリアはミスを犯した自分に嫌気が差しながらも、捜査官として成すべき仕事に立ち戻ろうと心に誓うのだった。

こうして、歪んだ楽園の綻びが、思わぬ形で一斉に開きはじめる。

夜のニューヨーク郊外。老朽化が進むスポーツアリーナが、今宵だけは熱狂のるつぼと化していた。そこでは「真実アメリカンプロレス連盟(True American Wrestling League)」の興行が行われ、天井にはむき出しの鉄骨や配線がぶら下がり、観客席にはガムテープで応急処置が施された箇所もある。だが、荒廃した外見など観客はまるで気にしていない。皆が求めているのは、リング上の激闘と汗と血と狂気が入り混じる“ショー”なのだから。

「さあ、今夜のメインイベントは――セルジオ・モンテスの登場だ!」 リングアナウンサーの咆哮が会場の空気を一気に揺さぶり、その名が告げられるや否や地鳴りのような大歓声が巻き起こる。セルジオ・モンテス――筋骨隆々の身体には〈逆さ吊りの世界樹〉のタトゥーが大きく刻まれ、その眼光は獲物を射す猛獣のように鋭い。ファンの多くは〈知覚フィルター〉を通じてさらに誇張されたヒーロー像として彼を見ているが、現実の彼は平気で相手の骨を砕く恐るべき強者だ。

セルジオはスポットライトに照らされたリング中央でマイクを握り、宣戦布告めいた演説を始める。 「諸君、これが俺の叫びだ。偽りの浄化をぶち壊す! このリングが血で染まろうと構わない。俺は世界の矛盾を、全部引きずり出してやる!」 観衆のボルテージも沸騰の域に達する。重低音のBGMがさらに熱気を煽り、リングサイドには興奮した観客がフェンスを叩きながらセルジオの名を叫んでいる。

しかし、その熱狂の陰で、地下ではもう一つの取引が進行していた。セルジオの甥であるイザヤ・サンダースが薄暗いバックヤードに佇み、スーツケースを運んでいる。その中には遺伝子組み換え鶏の卵がぎっしりと詰まっていた。イザヤは中米を股にかけた闇取引に通じており、今回も新種の鶏卵を持ち込むことで金を得ようと企んでいた。だが、その卵には神経ガスが仕込まれているとは夢にも思っていない。もし割れたり、適切な温度で化学反応が起きれば、観客の〈知覚フィルター〉を破壊し、ショーを台無しにするどころか社会秩序までも狂わす危険性がある代物だった。

その頃、廃工場での邂逅を経たナディアとライアンは、車でこのアリーナに向かっていた。ナディアはライアンの情報と自分の研究が重なることを確信し、〈プロジェクト・ツェッペリン〉を阻止するために彼と協力する道を選んだのだ。 「猫たちから抽出した抗体を分離したわ。これがあれば、〈プロジェクト・ツェッペリン〉のキメラウイルスを抑えこむ可能性がある」 ナディアはタブレットの画面をライアンに示し、複雑な化学式をなぞる指先に力がこもる。

「遺伝子組み換え生物が大気中に拡散すれば、もう誰にも止められない。〈グレイト・バベル〉はそれを“浄化”と称してるが、実質は生態系を丸ごと企業に管理させる壮大な企みなんだろう?」 ライアンはハンドルを切りながら顔をしかめる。彼の胸には、企業連合の横暴を止めるために何としても事実を暴きたいという複雑な感情が渦巻いていた。

一方、FBI法務官ヴァレリアはセルジオ・モンテスと中米麻薬カルテルのつながりを示すレポートを手中にしていた。セルジオのタトゥー《逆さ吊りの世界樹》は、カルテル幹部が己の権力を誇示する際に用いる秘儀を表す紋章らしい。ヴァレリアはその情報を本部に報告すべきかどうか逡巡していた。SNSでは過去にパレスチナ人の冤罪拘束で彼女自身が批判にさらされた経緯があり、自分のミスが再び曝されるのを恐れているのだ。結局、彼女はこっそりと別働班を動かし、アリーナへの突入準備を進めることにする。

そして、観客がヒートアップするリング上では、セルジオの試合がクライマックスを迎え、視線は一手に彼へ注がれていた。そんな中、リングサイドにいたイザヤが突然ふらりと倒れ込む。口からは泡がこぼれ、目は焦点が定まらずに虚ろだ。医療スタッフがスキャナーを当てると「未知の微生物感染」の警告が表示される。その微生物は、なんとナディアが研究している〈ヴィーナス・プリズナー〉であった。

飛び込んできたナディアはモニターを見つめ、思わず息を止める。 「まさか……ヴィーナス・プリズナーが遺伝子改変生物を分解するという仮説、これで裏付けられたわ。でも、人の血液にまで及んでいるなんて――」 セルジオはリングから飛び降り甥の姿を追うが、その時、FBI別働班を連れたヴァレリアがイザヤを取り囲んだ。

「FBIだ! イザヤ・サンダースを拘束する!」 場内は一気に騒然となり、観客たちはなにが起こったのか理解が追いつかないまま、叫び声を上げて混乱する。血と汗に酔っていた空気が、突然、硬質な現実の臭いに引き戻された瞬間だった。

ヴァレリアの強制捜査が始まり、観客の一部がパニックを起こして逃げ出す頃、場外にはFBIの装甲車やドローン部隊がぞくぞくと集結し始める。これまで“狂気”の演出が許されていたショー空間が、一転して“犯罪”と“逮捕”の現場に様変わりする。セルジオは甥のイザヤを心配しながらも、同時にこのアリーナがただのプロレス会場ではなく、実は大きな陰謀を暴露する舞台となってしまったことを思い知らされていた。

その裏では、ライアンとナディアの車がアリーナに近づきつつあったが、ライアンの役に立たない方向感覚が再び災いし、なぜか下水道へ通じる工事中のトンネルへと入り込んでしまう。舗装が途切れる細い道は薄暗く、古い看板に「危険立入禁止」と書かれているのがやけに目立つ。

「まったく、またかよ……」 ライアンは嘆息する。ハンドルを操作して戻ろうとするが車体が軋み、一足遅く道は完全に狭くなっていた。仕方なく二人は車を降り、懐中電灯を手にして進む。濁った水が足元を浸し、嫌な腐敗臭が漂う。かすかに聞こえる笛のような音は、風か、あるいは何者かの警戒の合図か――どちらにしても気が抜けない。

進むうちに、やがて視界の先に怪しげな人影を見つける。そこでは〈グリーンアーク〉のエンブレムをつけた白衣の研究員と、中米麻薬カルテルの男たちが、巨大なコンテナを前にして取引を交わしていた。コンテナの隙間からはキメラ化した鱗や獰猛そうな猛禽類の羽が見え隠れし、さらにチューブに入った微生物のようなものが金塊と等価交換されている光景が生々しく浮かび上がる。

「〈グリーンアーク〉って、表向きは環境保護団体だろ? それがこんな……」 ライアンは心臓の鼓動が耳に響くほどに高まる。ナディアは唇を硬く結び、目を伏せる。自分の研究の一部は、この組織に資金提供を求められた経験があるからだ。環境保護を謳いながら、裏では自然をさらに改変する道具を売買しているのだとしたら、許されることではない。

その時、カルテルの手下数名がこちらに気づき、怒鳴り声を上げて拳銃を構えた。 「何者だ、てめえら!」 完全に見つかった。一瞬の緊迫の後、そこに姿を現したのは、よろめく足取りのイザヤ・サンダースだった。どうやってここへ来たのか、血走った目で生気がなく、口元には泡が溜まっている。まるで半ば錯乱しているようだった。

「……くっ……もう、ダメだ」 イザヤはコートの内ポケットから銀色のカプセルを取り出し、ためらうことなく握り潰す。すると白い煙が立ち上り、周囲に広がる。神経ガスだ。ナディアが目を見開く。

「伏せろ!」 ライアンがとっさにナディアを押しのけ、自分も床に倒れ込む。瞬く間にガスが拡散し、カルテルの男たちも激しく咳込み始める。地下での換気がほとんどないこの場所は、猛毒のガスを容易く溜め込んでいく。そのガスはいとも簡単に〈知覚フィルター〉の回路をショートさせ、メガネをかけた者の視界に残酷なノイズを発生させる。

地上でもFBIの突入が始まり、アリーナの観客たちは悲鳴を上げながら逃げ惑う。操作室が混乱したのか、ネットワークが誤作動を起こし、空に浮かぶ〈グレイト・バベル〉の広告ホログラムがちらつきながら自主的に停止する。すると、普段は見えなかったライブ映像が垂れ流しになり、人々は赤く燃え盛るアマゾンの森林火災の光景を目の当たりにした。烏煙と炭化する木々が広範囲に広がり、かつて生い茂っていた豊かな緑が消滅しつつあるリアルタイム映像が空いっぱいに投影される。

「これが……本当の現実?」 メガネ越しの虚飾が外れ、燃え上がる地獄絵図を目撃した人々は言葉を失う。都市の空を染め上げるあの炎の勢いは、一人の力で止められるものではないという絶望感をまざまざと示していた。

アリーナのリング上では、電源が混乱する中、〈グレイト・バベル〉のCEOが突然登場し、セルジオ・モンテスと対峙していた。本来なら実現しないはずの顔合わせだが、CEOはおそらくこの場を利用して“正義の裁き”を演出するつもりだったのだろう。だが、すでに状況は制御不能に陥り、周囲にはガスと火災や暴露された秘密が混在するカオスが広がっている。

ナディアは猫たちの抗体から生成した中和剤を、リングサイドの噴霧装置へと大量に流し込んでいた。 「このままじゃ、地下の神経ガスがさらに人々を狂わせる。中和剤で少しでも被害を抑えられるはず……!」 必死に操作するナディアの手元から、白い霧が立ち上がる。観客たちやレスラーたちは咄嗟に鼻と口を覆っており、パニックに陥りながらも、その霧によって最悪の事態を免れようとしていた。

同時に、ヴァレリアはスマホを握りしめ、意を決してSNSに真実の映像をアップロードする。双頭のジャガーや〈グリーンアーク〉との黒い繋がりや、燃え盛るアマゾンの映像。これまで職務上抱えていたデータは、FBIの捜査官としての自分の立場を危うくすると知りながら、それでも世界に知らしめる価値があると確信したのだ。

「私が逮捕されても、もう構わない……」 ヴァレリアは投稿ボタンを押す。動画や写真、ファイルの数々は瞬く間に拡散され、世界中のトレンドを駆け上がる。企業の圧力も、そのスピードには追いつかない。人々は部分的ではあるが、今まさに裏で起こっている事象を一斉に知ることになった。

地下トンネルでは、倒れたイザヤがライアンにUSBドライブを差し出す。手は小刻みに震え、瞳の光は今にも消えそうだ。

「頼む……これを……拡散してくれ……」 それだけ言って、イザヤは意識を手放す。彼の身体は泥水を吸ったコートとともに重たげに沈み込んだ。ライアンは震える指先でUSBを受け取り、その存在の重みを感じる。カルテルの手下が銃を構えるが、同時にトンネル奥で配電室のケーブルがショートし、爆発的な火花を散らした。閃光に驚いた男たちが一瞬の隙を作ったことで、ライアンとナディアはなんとか逃げ場を確保する。

停電がアリーナの全照明を落とし、非常用電源も断続的に点いたり消えたりする。〈知覚フィルター〉は電源さえあれば動くが、大規模ネットワークが寸断されると、連動する情報インフラが次々に停止し、結局多くの市民が加工されない素顔の世界を見ざるを得なくなった。

暗闇のリング上、セルジオとCEOは壮絶な肉弾戦を繰り広げている。互いに蹴りと拳を叩き込み、時に流れる血で足元が滑る。照明が落ちたため、その姿はほとんどシルエットしか見えないが、その光景はまるで罪深き天使が互いを裁き合う地獄の闇さながらだった。

やがてCEOがセルジオに投げ飛ばされ、リングの端に転がる。セルジオは荒い息を吐きながらマイクをつかむ。 「見ろ……! この空を……!」 非常照明が弱々しく照らし出す視線の先、アリーナの天井スクリーンにはイザヤの遺した詩が投影される。最期の瞬間にUSBに仕込まれていたプログラムが作動したのだ。

「我らは翅を失った熾天使よ
地を這いながら星を視る」

その言葉は痛烈なメッセージとなって、混乱に陥っている観客の胸を刺す。使い古された娯楽の場で突然示された、あまりにも静かな詩の一節。〈知覚フィルター〉を外し、“生”を覆う虚飾を剥ぎ取り始めた彼らは、まさに漆黒の闇の中で“地を這いながら星を視る”存在だと気づかされたのだ。

ナディアは地下から地上へ戻り、倒れ込んだイザヤを抱きかかえている。猫たちが小さく鳴きながら周囲を囲み、その義足から発せられるメカニカルな音が微かな子守唄のように響く。セルジオはリング上からそれを見下ろし、やさしい表情と苦悶の表情が入り混じったまま立ち尽くした。彼は戦いを挑んだが、今この場で本質的な革命が起こっていることを知り、同時に自分がその小さな火種の一つでしかないことを悟る。

ヴァレリアはFBIの同僚によってその場で拘束され、翌朝、留置所の薄暗い独房でうつむいていた。SNSへの投稿は世界的に波紋を呼び、世論を大きく動かしている。しかしそれと引き換えに、彼女は捜査官としての地位を失う危険に晒されていた。そんな彼女に届いた差し入れは、小振りの金属ケース。開けてみると、中には淡く光る鶏の受精卵が一つだけ収められている。

「次の種……?」 ロシア語でそう書かれた札が卵に貼り付けられている。ほんのかすかな振動が卵から伝わり、彼女の指先を震わせる。もう逮捕されてもいいと覚悟したはずなのに、“次の種”という言葉が奇妙な安心感と新たな不安を呼び起こした。彼女は自分にまだやれることがあるのかもしれない、とも思い始めている。

外の空には、まだ夜の気配が色濃く残っている。鈍色の雲を透かして、かすかに金星が輝きを放とうとしている気配がある。廃工場のラボでは、ナディアの義足猫たちが静かに鳴き声を上げ、消えそうな電子音で呼応する。あるいは、もうすぐ夜明けなのかもしれない。暴かれた陰謀や人々の怒り、そしてわずかな希望の光が入り混じるこのディストピアの世界で、誰もが一歩ずつ踏み出そうとしている。

アリーナの客席は崩れかけたポスターと瓦礫、飲み捨てられた紙コップが散乱するばかり。そこには確かに、企業連合の支配に抗う叫びがあり、暴力や血の匂いが立ち込めていた。だが同時に、破れた知覚フィルターの仮面を剥ぎ取った無数の目が、この世界の真相に直面し始めてもいる。人々は困惑し、絶望し、それでもなお生き抜く術を探そうとしていた。

時間はどこまでも流れ続け、夜闇の奥で金星が淡く光りはじめる。イザヤの詩、 「我らは翅を失った熾天使よ
地を這いながら星を視る」 ――その一節は破滅と再生が紙一重の世界で鳴り響く鎮魂歌でもあり、未来を問いかける鐘の音でもある。

歪んだ大気制御システムと操作された現実感、その裏でうごめく企業連合の思惑と道化のような暴力のショー。それらすべてが火の粉のように散り、夜明けの闇へ溶け込んでいく。けれども、その闇の中で確かな火種が息づいているのを、ここにいる五人の“聖人”たちは知っていた。ナディア、ライアン、セルジオ、イザヤ、そして真実を漏洩させたヴァレリア。どれほど“不完全”であろうと、それぞれが確かに世界を変える一歩を生み出したのだ。

幕が下りたリングには、高く掲げられるライトも音楽もない。わずかな非常電源の照明が揺らめき、そのかすかな光の向こうには、軍用ドローンが送り出す映像が落ちている。見れば、アマゾンの火災は鎮火していない。凶暴な炎が燃え続け、濃い煙を空へと吐き上げている。画面にあふれる赤褐色の炎の波は、〈グレイト・バベル〉の広告ホログラムが覆い隠せるほど小さな存在ではない。それは紛れもない現実であり、いずれ人間社会を根底から揺るがす巨大な警告のようにも思えた。

か細い猫の鳴き声が、建物のあちこちから響く。電子義足の軽快なステップがコンクリートの床を叩く音は、どこか儚げで、しかししっかりと生を謳歌するようでもある。忘れ去られたものたちの叫びが、金星の光を横目に新たな世界像を描くために連なっていくのだろう。

人々が抱える絶望と希望は、今まさに同居している。企業連合の支配が続く限り、苦しみは消えないかもしれない。それでも、一度開かれた歪んだ楽園の裂け目は、もう元には戻らない。仮面を引き剥がされて初めて、人はこの世界の本当の姿を知る。かつては閉ざされていたその視界に、金星の柔らかい輝きが確かに差し込むのだ。

“地を這いながら星を視る”――この哀切と誇りを孕んだ詩句こそ、人間がたった今から踏み出す道を示している。熾天使というにはあまりにも不完全な、しかし確かな意志を持った人々が、その運命を切り拓いていくのだろう。都市の片隅に寄り添う猫たちが、その先導となるかもしれない。研究室で生まれた遠い星の微生物〈ヴィーナス・プリズナー〉が、はからずも浄化とは何かを問いかける新たな契機となるかもしれない。あるいは、闇社会で生きるレスラーの一撃が、巨大企業の価値観すら打ち砕くかもしれない。

いずれにせよ、夜は明ける。アリーナに散った観客たちは、連鎖反応のようにSNSに自らの体験を書き込み拡散し始める。ヴァレリアの投稿と重なり合い、世界の秩序に亀裂を走らせる光と影がさらに深く広がっていく。ビル群が林立する都会の隙間からも、すでに多くの人々が赤く染まる現実を見上げて立ち尽くしている。遠くの国からは新たに暴露された情報が連日のように波及し、多少の企業圧力では止められない態勢が整いつつある。

今はまだ、歪みがひび割れを起こしたにすぎない。しかし、その亀裂を通して仄見える光は確かに存在し、そこから芽吹く奇妙な革命の種は空気を吸い込み始めた。余韻の中で誰かが呟くように、金星の名を呼ぶ。遠く見える夜空で僅かにきらめくあの星は、神話の昔から美と愛の象徴であると同時に、毒と灼熱の惑星でもあるのだから。

――そう、矛盾と混沌こそがこの世界の本質だ。だが、そこに人間の希望が僅かでもある限り、“未完の天使”たちはどこまででも進むのだろう。焼野原へと変わりつつある大地に差すうす紫の朝焼けが、かすかに未来を照らし始めた。そうして今日も、人々は地を這いながら――けれど、頭上の星を見上げることを忘れない。