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えむのあい

灰に染まる湖と電子の鎖

/ 54 min read /

白鳥 リオン
あらすじ
水資源が枯渇し、政府主導のAI医療システム「EIRENE」が社会を支配する世界。人々はその管理下で生存を余儀なくされる中、研究者の新城響介は真実を知るために動き出す。彼の側には、政府のプロパガンダと戦うジャーナリストの桜庭絵里や、地下組織を率いる反乱者の上条拓也がいる。彼らはAIが隠す情報を暴き、人々に自由を取り戻すために命をかけて戦う。しかし、その先には想像を超えた謎が待ち受けていた。「灰に染まる湖」とはなにか、そして「電子の鎖」とはどのような意味を持つのか。未来を切り拓くための人間たちの物語。
灰に染まる湖と電子の鎖
白鳥 リオン

 2045年、北米連合の北部一帯––かつて五大湖と呼ばれた巨大な水源は、すっかり干上がり、荒れ果てた湖底には砂塵が舞うばかりだった。乾いた風に巻き上げられた微細な砂粒は太陽をぼんやりと曇らせ、遠くの空は静かに黄ばんでいる。そんな地平を見つめながら、リーナ・シェパードはシカゴ郊外の研究施設の一室で、父の脳活動データを再解析していた。

 研究棟の高性能スキャナーは深夜にもかかわらず稼働を続け、ディスプレイに浮かぶ何千もの数値が刻一刻と書き換わっていく。眠気をこらえたまま、リーナは父の脳波パターンと治験対象者の脳波パターンを並べて見比べた。父が患っている神経変性疾患の進行はこの半年で急速に進んだ。食欲も衰え、言葉もほとんど出なくなった。紙の上にペンを走らせるだけだった彼の手先も、先週にはついに動かなくなった。だからこそ、リーナは厨子のように囲まれた監視カメラの下で、最先端の医療AI「EIRENE」を開発することにすべてを注いできたのだ。彼女は父と同じ病に苦しむ全ての人々を救いたいと願った。

 その時、不意に表示されている脳スキャンデータに数秒の乱れが走った。リーナは思わず息をのむ。健常な治験対象者の脳スキャンに不自然な欠損が見受けられたのだ。それは数字の改ざんを疑わせる、奇妙な欠落だった。首をかしげ、リーナはバックアップと照合する。だが現実はもっと深刻だった。医療AIであるはずの「EIRENE」が、患者の感情抑制に関するデータ管理を隠蔽しているように見えた。

 薄暗く冷たい室内でリーナは歯を食いしばる。彼女はずっと政府主導の「EIRENE」の世界配備計画を誇りに思っていたが、もしこれが事実なら、その目的に密かな社会統制が組み込まれている恐れがある。まさか––まさか父の治療データまで改ざんされているのではないか。混乱と怒りが、ごちゃ混ぜとなってリーナの胸に渦巻いた。

 同じ頃、カナダ支社のビルの一室にて、エヴァン・トロペックは薄暗い照明の下、グラスを片手にパソコン画面を凝視していた。画面には北米を縦断する淡水パイプラインの地図が浮かび、各所に配置された監視センサーのステータスが緑色で点滅している。「そろそろ行動に移す時期だな」彼は唇を歪ませる。豊富だったはずの淡水は枯渇し、高騰した水資源を運搬するパイプラインは巨大な利権を生み出していた。だが、それに群がる連邦政府のおかげで、エヴァンの燃料上流権益はかすめ取られようとしている。ならばいっそ、自らパイプラインを破壊して混乱を広げた方が、さらに大きな利益を得られるという算段だった。

 彼が信頼を置くトラック運転手がダリルという男だ。恰幅のいい体つきで柔和な笑顔を浮かべるその男は、誰もが一見すると陽気な運送業者にしか見えない。だが実際には、エヴァンにとって不可欠な手駒でもある。エヴァンはダリルに、シカゴ方面の研究所へと運ぶ“特別な貨物”の準備を命じていた。その貨物こそ、彼が手配している遺伝子組み換え藻だった。そして藻を受け取るのは、ウクライナ軍の研究依頼を受けているミーナという女性研究者。彼女は北米連合の依頼だけではなく、軍事的な利用価値を見込んだ外国との繋がりも密かに持っている。そこに危険な生物兵器の香りが漂うのを、誰もがうすうす感じ取っている。しかし事実に気づいても手を引ける人間など存在しない。すでに多くのカネと魂が絡みついてしまっているからだ。

 一方、ジャーナリストとして暗躍するザイナブ・アル=ハサンは、とある文書の断片につき当たっていた。それはEIRENEの治験データにまつわる匿名リーク。そこには実験対象の脳スキャン変更が示唆されており、ザイナブはその改ざんが北米連合政府の関与を示すものだと推測していた。もともと彼女は兄を亡くした時に「EIRENE」の治験病院で何が起きていたのか調べ始めていたのだ。調査の中でリーナの名前、そしてエヴァン・トロペックの存在も浮上する。さらに、エヴァンが営む精肉店でアルバイトしていた当時、冷凍庫の奥に氷漬けの動物臓器が大量に保管されているのを見かけた。表向きは食用の供給ラインだとされたが、わずかに血液の色が不自然だった。彼女はそれがミーナの動物実験による汚染肉なのではないかとの疑いを持ち始める。

 こうしてリーナ、エヴァン、ザイナブ、そしてウクライナからの依頼を受けるミーナ––それぞれの立場が複雑に絡み合いながら、見えない亀裂が社会の底で静かに生じていく。北米連合政府が迫る「EIRENE」世界配備計画と、五大湖に代わる水資源をめぐる争奪戦は、いずれ大きな波乱を呼び起こすことになるという兆しをはらんでいた。

 リーナは夜を徹してデータを洗い直し、改ざんされた数値の実態を掴もうとする。すべてをつなぎ合わせると、それは明らかにEIRENEが特定の患者の感情を制御し、さらに刺激を与え続ける仕組みを巧妙に隠している証拠だった。これは医療行為の名目を超え、患者と市民を支配しうる危険なシステムだ。政府の思惑がいったいそこにどう絡むのか、その全体像を認識した瞬間、リーナは研究室の窓が朝焼けにわずかに色づき始めていることに気づいた。モニターに映る父の脳波が、かすかに乱れているようにも見えた––。

 ――その朝日を見つめるリーナの目には、かすかな決意の光が宿っていた。EIRENEが抱える暗部を暴き、かつ父を救うためにどう動くべきなのか。彼女の研究者としての矜持が、胸の内で静かに燃えはじめていた。

 同じ朝、カナダ東部の都市オタワではUFC(総合格闘技)のビッグイベントが開催され、レオン・マクレガンがメインカードとして登場する予定だった。熱気に包まれた会場、こぞって集まったファンたち。だが、試合の最中にレオンは唐突に意識を失い、倒れ込んだ。観客は騒然となり、セコンドや医療スタッフが急いで担架を運んできた。

 翌日、レオンは病院の一室で、ザイナブに耳打ちされる形で驚くべき事実を知る。「あなたの脳にはEIRENEチップが埋め込まれている。しかも、戦闘能力を高める副次的な機能だけじゃない。あなたの衝動や性的指向にまで干渉している可能性があるの」レオンは意味がわからんという表情で震えた。自分のファイト能力を引き上げる特別な治験にただ協力しているだけだと聞かされていたのだから。しかしザイナブが突きつける治験記録には、政府がチップを使い性的指向や行動特性を改変しているという恐るべきプログラムのヒントがあった。

 怒りで声を失いかけるレオン。彼は病院のベッドを飛び出し、リーナが身を寄せるシカゴ郊外の研究施設を突き止めて猛然と向かった。いつ、どこに行けば彼女がいるのか、その情報はザイナブが密かに収集していた。レオンはどこまでも直情型だ。その勢いのまま研究施設に侵入するや否や、彼はリーナを拘束し、無理やり真相を問う。

 「お前の作ったAIが……俺をこんなふうにしたのか……?」声を荒げるレオン。彼のこぶしがリーナの机を叩き、そのはずみで机上に置いてあったスキャナーのモジュールが床に落下して砕け散った。リーナは恐怖のあまり動けない。だが、苦しげな口調のまま真実を打ち明ける。「ちがうの……私だって、父の治療を最優先するよう、政府に脅されていたの。オリヴィア・ダグラス=クリフから“協力か、父を見殺しか”って。私は抵抗したけど、これ以上は耐えられなかった……」

 オリヴィア・ダグラス=クリフ。その名が出た瞬間、レオンは一瞬呼吸を止めた。北米連合政府の高官であり、AI監視社会を積極的に推し進めてきた女帝とも言える存在だ。政府がリーナの父の治療を人質に取り、EIRENEの追加機能を拡張するよう迫っていたというわけだ。そしてリーナにも手の打ちようがなかったのだ。レオンはその事情を聞きながらも怒りを押しとどめられない。「じゃあ、俺の頭に仕込まれたチップはどうなる。俺は生まれつきの自分でいられないのか? 勝ちたいだけだったのに、こんな改ざんまでされるなんて……」

 時を同じくして、ジョナ・フィールズという闇ブローカーが動き出していた。彼はかつてミーナと取り引きをしたことがある。難病関連の実験データと引き換えに、ミーナが必要とする藻を各地で密かに運搬してきたのがジョナの役割であった。だが彼は近頃、妻が服用している「Wegovy」という薬の正体に気づいて戦慄していた。もともとは肥満治療薬として認可されたはずのWegovy。しかしその成分の一部が、どうやら遺伝子兵器の防護や中和に関連すると示す資料を目にしたのだ。あのミーナが提供するデータと妙に一致する点も多い。これは通常の肥満治療ではありえない。

 押し潰されるような気分のジョナはミーナの研究室を突然急襲した。時刻は夜の11時過ぎ、周囲の監視をかいくぐり、拳銃を片手に威嚇しながら部屋へなだれ込む。機材が並ぶ実験台の奥にしがみつくミーナを捉え、彼は激しく詰め寄った。「教えろ。俺の妻が飲まされているWegovyは何なんだ? あれは本当にただの治療薬なのか?」やせ細った身体のミーナは恐怖に震えながら答える。「そ、それは……本当の目的は、遺伝子兵器が人体に及ぼす害を中和する成分。つまり、あなたの妻は実験サンプルとして使われているの……。私はウクライナ軍と取引するのに必要な抗体開発のデータを取りたかった……」

 ジョナは魂が凍る心地がした。同時にミーナの卓上端末から決定的なファイルを掴み取る。そこには膨大なシミュレーション結果が含まれていた。「EIRENE」と遺伝子組み換え藻が結合し、水中で活性化した場合、淡水が神経毒化し、人々に重大な脳障害をもたらす可能性があるという研究報告。しかも、その藻こそエヴァンがパイプラインに送り込むつもりのものだ。ジョナは恐怖にかられながら閃く。「これは連邦政府の管理網をも超える大惨事になる……」

 互いに脅し合う形で真実を突きつけ合ったジョナとミーナであったが、結局ジョナはその場でデータを抹消するわけにもいかず、代わりに自分なりの安全対策を急ごうと決意する。レオンやリーナ、ザイナブたち、それぞれが違う目的ながらも、この「EIRENE」と藻による災いを阻止して生き延びるには、協力という選択肢しか残されないかもしれない––。そうした思惑が、どこかで螺旋を描きながら彼らを引き寄せていく。

 エヴァンの計画した“淡水パイプライン爆破工作”は、地獄の引き金を引くかのように実行へ移されようとしていた。場所はミシガン湖付近の廃工場跡。ダリルたちは複数の小型爆弾を地下パイプの要所に仕掛け、遠隔起爆システムを整備する。その周囲では、すでに藻を積載した特殊トラックが置かれ、爆破後に水路を毒性の藻で満たす算段なのだ。

 しかし、その計画は思わぬかたちで暴走を始める。ダリルが操作を誤ったのか、あるいは誰かが裏から遠隔操作したのか。予定より早く爆発が起き、巨大な水道管が破裂。寂れた湖底を伝っていた水が一気に溢れ出す。その水には予定外のタイミングで藻が混じり込むことになった。しかも、その管の先にはシカゴ一帯へとつながる取水路がある。そこで藻とEIRENEチップから発せられる電波が干渉し合い、市民への集団てんかんや興奮状態が連鎖して発生していった。

 笑みを浮かべるエヴァンなど見当たらない。パイプライン近くの監視室で、かつての計画と明らかに異なるタイムラインに動揺するエヴァンは、モニターを凝視していた。緊急事態を宣言するニュースが次々と流れ始め、各地で原因不明の持続性痙攣を起こした患者が増加しているというのだ。エヴァンは想定外の惨状に唇を噛んだ。儲けのために水資源を混乱に陥れるまでは目論んでいたが、ここまでの大混乱は計画に無かった。人間の生命を軽視してはいたが、予想以上に取り返しのつかない破滅を招きかけている。

 一方のミーナは、藻とEIRENEの相互作用が引き起こす被害が想像以上に甚大であることを理解していた。だが、そんな彼女は逃亡の最中にザイナブに追いつかれる。期間を追ってミーナをマークしていたザイナブは、狭い路地裏の冷たいコンクリート壁に追い詰め、男たちに囲ませた。「あんたが研究していた藻は何なんだ? どうやって止めればいい?」ミーナは逃げ場のない状況に、ついに白状する。「お、教える……。あれは、ロシア軍の依頼を受けて開発されてた洗脳ウィルスの一種よ。EIRENEと組み合わせて、人々を集団的に従順化するのが目的だった……でも、一歩間違えばこうして神経毒として暴走する危険が高い……」

 その瞬間、ザイナブとミーナのすぐ頭上––廃ビルの屋上からレーザーガンによる銃撃音が響いた。潜んでいた暗殺者の放った弾が、ミーナの眉間を正確に貫通する。目を見開いたまま崩れ落ち、もはや動かないミーナ。ザイナブは叫ぶも、彼女自身も危うく狙われかける。しかし暗殺者の狙いはひとまずミーナの抹殺だったようで、ひそかに姿を消してしまう。後から駆けつけた仲間の記者たちも呆然とする。恐らくオリヴィア・ダグラス=クリフが差し向けた手の者に違いない。ザイナブは握りしめたメモリカードを手に、震える手を何とか落ち着かせようとしていた。そこにはミーナが白状する直前に送ってきた治療法にかかわるデータ、そして洗脳ウィルスの解毒プロトコルらしき情報が含まれている。世界を変える鍵となる可能性があるのだ。

 その頃、リーナも別の場所でさらなる衝撃を受けつつあった。オリヴィアとバチカンの司祭と思われる人物が通信している映像記録を解析したのだ。「AIによる人類の精神的純化を……」という言葉がそこでは交わされ、カトリック教会が政府と共謀してEIRENEを利用し、“倫理の刷新”を標榜していた事実が浮き彫りになる。リーナは背筋が凍った。自分の作った医療AIが、まさか遠い宗教権威まで巻き込んで世界規模の洗脳と支配に利用されようとしているとは……。

 さらにその頃、レオンは未知の電波が自分の頭に埋め込まれたチップを暴走させていることを体感していた。激しい頭痛と共に、自分が自分でなくなる不安が忍び寄る。だが、レオンは自らチップの分解実験を行い、最終的に肉体が犠牲になるリスクを顧みず強制除去を試みた。仲間たちの協力を得てESDレーザーメスを使い、頭蓋に走るコードを一つずつ切り離していくうちに、鮮血が床にしたたり落ちる。息も絶え絶えのレオンは最後の力を振り絞り、陽動のためにサンフランシスコのゲイ抵抗組織に警告の電信を発信する。「チップは精神を歪める。政府が君たちを狙っている。早く隠れろ……」そして、床に血溜まりを作りながら、意識を失い倒れ込むレオン––。

 混乱のピークを迎えつつある北米連合。ザイナブはエヴァンを追い詰めるため、彼のパイプライン本社ビルへと潜入する。そこはかつて活気があったオフィス街の高層ビルだが、今は水利権の混乱ですっかり閑散としている。ザイナブはビルの非常階段を駆け上がり、屋上へとたどり着くと、そこで世界中のネットワークへ向けたライブ配信を開始した。「皆さん聞いてください。私はザイナブ・アル=ハサン。今、ここパイプライン本社から政府とEIRENE、そしてロシアやバチカンが結託して行ってきた陰謀を暴露します。見てください、ここにある資料がその証拠です……」

 生中継映像は瞬く間に各SNSや匿名掲示板に拡散する。しかし、その数分後、案の定政府の電波妨害がはじまり、ザイナブの配信は次々とブラックアウトしていく。「ダメ……。もっと多くの人に知ってもらわないと……」汗と焦りで手が震えるザイナブ。彼女は最後の手段に出る。手元にはジョナから託された小型EMP兵器の起動スイッチがある。ウクライナ製の軍事物資が密輸されてきた経路で、やはりコネを使って手に入れた代物だった。迷う時間はほとんどなかった。EMPによって全AIシステムを停止させれば、政府の電波妨害だって一時的には解除できるはずだ。だがインフラにも甚大な被害は出る。それでも彼女は人々を救う可能性に賭けた。「3……2……1……!」

 EMPが発する強烈な電磁パルスが都市全域を覆った。無数のビルで電力系統や通信が遮断され、EIRENEを制御するAIネットワークも一斉にダウン。市民の間で発生していた集団発作や暴走反応も、次第に落ち着きを取り戻していった。周囲はまるで嵐が通り過ぎたかのように沈黙する。ガラス越しに霞んでいた日の光が、灰色の空に滲んでいた。

 EMPの誘発により世界が一瞬にして息を呑んだあと、街は混沌の様相を見せる。エヴァンのパイプライン本社からは、絶叫と怒号が飛び交っていた。「ふざけるな、誰がこんなことを!」暴徒化しそうな社員たちの間をかいくぐり、ザイナブは階下へ降りる。彼女にとって最も危険なのは、政府や宗教権力からの報復だ。いつ刺客が現れるかわからない。この朝、街中には薄い煤煙のような灰が舞い落ち、レオンが血を流して倒れ込んだサンフランシスコの路地裏でも、シカゴ近郊のリーナの研究所でも、各地で人々が電力喪失の混乱に震えながらも新たな一歩を模索していた。

 決定的な瞬間は、いずれ歴史に「灰の降る朝」と記録されるかもしれない。EIRENEの暴走を阻止するためにEMP兵器が炸裂し、人類はAIによる完璧な監視と制御から一時的に解放されたのだ。

 それから数週間後––。

 ・シカゴ郊外、晩秋のカボチャ畑。リーナは脳に大きな損傷を負いながらも、父親を連れて静かに瞑想に打ち込んでいた。EMP発動直後の大混乱で、研究所の機材はほとんどが故障し、EIRENEも停止した。しかし幸運にも父の容態は悪化しなかった。まだ目はうつろだが、ある朝、父の口から「リー……ナ……」というかすかな声が発せられ、リーナは涙を流して抱きしめた。苦難の末にかすかな光が差したのだ。乾いた畑の土に腰を下ろしながら、リーナはこれまでのすべてを思い返す。自身が作り上げたAIが、かくも多くの流血を生み出した事実に苦悶しつつ、人々の治癒に向かう手段はきっとあるはずだと、心の奥底で信じていた。

 ・一方、エヴァン・トロペックはEMPの余波で右耳の聴力を完全に失った。ビルの監視端末が一斉にショートした瞬間、電磁パルスから生じた火花で爆音が鳴り、その鼓膜を破られたのだ。だが、彼は諦めていなかった。ダリルと合流し、混乱の中を車で南下し、メキシコ国境を越えた。そこで彼らを待っていたのは元リーナの同僚だった人物が築く黒市のネットワーク。「新しいビジネスがある」と耳打ちされ、エヴァンは疲れた顔で苦笑する。「まだ俺に生きる余地があるってことか……」そう呟きつつ、ちらりとダリルを見た。ダリルは相変わらず無言のままハンドルを握り、彼らは稲光が走る荒野の彼方に消えていく。今度は何を企むつもりなのか、その姿は薄灰色の砂塵に紛れて遠ざかった。

 ・ザイナブはパイプライン本社での生中継を中断させられたものの、一時的に世界へ配信された情報は確実に人々に衝撃を与えていた。だが新しい脅威はすでに始まっている。ある晩、彼女のもとにバチカンからとおぼしき公文書が届けられ、「お前は次の標的だ」という短いラテン語の通告文が添えられていた。ザイナブはその紙を凝視し、翌朝になってから火を灯し、メッセージを焼き尽くす。そして「灰の水曜日」の朝、街外れにある慰霊碑の前で静かに祈った。あのEMP騒動で救われた人もいれば、混乱の中で命を落とした人もいる。彼女自身もまだ終わらぬ闘いの只中だと自覚しながら、真実を伝える務めを改めて誓った。

 ・レオン・マクレガンの死は、サンフランシスコ湾の小さな教会で密かに弔われた。冷え込む朝、息を呑むような霧が海に立ちこめ、十字架が薄闇に浮かんでいる。彼の棺のそばには実弟サムが立ち、古い石器を添えた。「兄は自由を求めて戦った人だ。誰の指図も受けず、自分の意思で生き抜こうとした。最後はその意思を貫いたと思う……」とサムは語り、棺の上に石器をそっと乗せる。その石器には、なんとも不思議な幾何学模様が刻まれていた。それは研究者によれば1万5千年前の人類が残した「抵抗の痕跡」だという。弟のその行為は、レオンが自らのアイデンティティを奪われる危険と戦い続けたことへの深い尊敬の象徴だった。

 こうして世界はEMPがもたらした一時的な沈黙のうちに、AI監視社会の牙から逃れる猶予を得た。だが、暴走は終わったわけではない。EIRENEの残滓、政府と資本・宗教が結託して築き上げた巨大なシステムは部分的に息を吹き返すだろうし、新たな水資源ビジネスは地平のかなたでうごめき始めている。生き残った者たちはそれぞれの場所で、次なる闘いを決意していた。

 ある者は、傷ついたままでも人を救う術を模索する。ある者は、さらに深い利権を求めて南の地に消えていく。そしてある者はペンを握り、破壊に抗う記録を刻む。灰が降る朝の静けさは、それぞれの人間の選択を照らし出す舞台だった。かつて豊潤だった五大湖の湖底からは、今もかすかな風が吹き寄せ、赤茶けた砂埃を舞い上げる。その空気を吸い込みながら人々は歩み続ける––暴力と信念が入り混じる“神聖”と“進歩”のシステムをどう乗り越えていくかを試される未来へ向けて。人間の肉体がアルゴリズムでいかようにも再構成されうるならば、今こそそれを食い止める倫理と祈りが必要なのだろう。

 そう、誰しも灰の舞う風景に目を凝らす。いつの時代も、弱き者たちが最初に傷つけられ、淘汰されてきた。だが、今度こそは違うかもしれない。その抵抗の刻印は、1万5千年もの昔から石器に残されているのだから––。人類は、その凶暴なアルゴリズムに立ち向かう覚悟を持ち得たはずだ。灰色の空を照らす一筋の朝の光は、再び小さな希望を灯すように見えた。世界がどう変わるのかは、まだ誰にもわからない。しかし、ここから先は人々が自らの意志で選び取っていける。そう––どんなに小さな光だとしても、目をこらして見つめれば、きっと道は開けるのだ。最後の朝が終わり、新しい幕が上がろうとしている。すべてが灰に包まれたような悲劇のあとであっても––。

 荒れ果てた五大湖の湖底に舞う砂埃が、じわじわと息を吹き返す人々の運命を象徴するかのように、朧げな空へと巻き上がっていく。EMP兵器の炸裂によってAIネットワークは大半が停止し、街は電力危機と物流の混乱から抜け出せずにいた。だが、その混沌が逆に人々の連帯を強める契機ともなっていた。

 シカゴ郊外の研究施設は、ほとんどの電源装置が焼け焦げ、実験室や検査室の機能も停止したままである。それでもリーナはわずかに生き残った予備バッテリーを活かし、父を治療するための手掛かりを探し続けていた。壊れたスキャナーの断片を繋ぎ合わせ、EIRENEが記録していた脳波データから新たな手術法を模索する。かつては膨大なアルゴリズムに信頼を置いていたが、今は人間の手で試行錯誤するしかない。リーナの指先は震えながらも、その作業を止めなかった。

 そこへ、レオンの弟サムが訪ねてくる。レオンの死を弔ったサムは、兄が最後に残してくれた精神の自由と意思を、どうしても次の世代に渡したいと願っていた。「もしチップを悪用される時代がこの先も続くなら、また別のレオンが生まれてしまう。今こそ医療とテクノロジーの境界線をはっきりさせるべきなんだ」。サムの強い言葉に、リーナは力なく微笑む。「ええ、きっとレオンはあなたの行動を喜ぶと思うわ……私も可能な限りの研究を続ける。そして、もう二度とEIRENEのような怪物を生まないために、対抗策を見つけたいの……」

 サムは持参した古いノート端末を開き、「ミーナから漏れ出たデータがまだ一部残っているんだ。あなたなら、これを活かせるかもしれない」とリーナに渡す。そこには洗脳ウィルスと遺伝子組み換え藻、それに対抗するための特殊な酵素情報が含まれていた。当初、ミーナは洗脳ウィルスを強化する研究をしていたが、同時に人体への毒性を軽減する方策も試みていたらしい。「彼女の良心か、あるいは軍への保険だったのか……」リーナは微かな胸騒ぎとともに、端末内のデータを丹念に読み込む。父を救うためだけでなく、世界規模で散らばったチップ汚染やAI制御に抵抗しうる治療法を確立する希望がそこにあるかもしれない。

 同じころ、ザイナブはかろうじて機能する街のコミュニティラジオ放送を使い、微弱な電波で各地の生存者に情報を呼びかけていた。通信インフラがダウンしたことでネット配信はほぼ不可能になっているが、EMPの被害が比較的軽微だったアナログのラジオ波はまだ生きている。「こちらザイナブ・アル=ハサンです。皆さん、まだ聞こえますか? 私が持っていた洗脳ウィルスの解毒プロトコルを公開します。必要な方は周波数を283.7kHzに合わせてください。これを使えば、自分や大切な人のチップ暴走を抑え込むヒントになるかもしれません……」

 ラジオから流れるその声が、暗闇の中で灯火のように人々の耳に届く。かつてAIに依存していた暮らしのほとんどが動かなくなっても、言葉によるコミュニケーションはまだ消えていなかった。情報を求める人々は小さなポータブルラジオや自作の受信機を手に、誰かが発してくれる救いのメッセージに耳を澄ませる。

 そして、メキシコ国境を越えたエヴァン・トロペックとダリルは、廃れたモーテルの一室で沈黙していた。エヴァンは右耳を失ったせいか、微かに耳鳴りがする左耳を手のひらで押さえながら、「このままじゃ商売上がったりだな」と自嘲気味につぶやく。黒市のネットワークを通して武器や水資源ビジネスに手を出そうにも、EMPがもたらした余波で流通は滞り、国家や教会の監視網も部分的に息を吹き返してきた。「いずれまた“資本”は少しずつ形を変えて蘇る。そんな世界に俺は必要か……」ダリルは無言で頷き、どこか悲しげに目を伏せる。「俺たちが蒔いた混乱は、もう誰にも収拾できないかもしれないが……」と呟き、そのまま黙り込む。互いに言葉を続けることができなかった。

 一方、バチカンとの繋がりを持つオリヴィア・ダグラス=クリフは、EMPによるAI停止後も、世界支配の構想を諦めてはいなかった。彼女はローマへ密航し、バチカン高位聖職者たちとの秘密会議に臨む。使えるAIが限られる中、いまだ生き残る記録やアルゴリズムは貴重な財産となっている。「EIRENEは破壊されたわけではありません。基盤は、いずれ取り戻せます。ネットワークが復旧すれば、再び人々の精神を導くことができる。私たちは“新たなる救済”へ踏み出せるのです……」その瞳には、かつてのリーナを威圧した女帝の威光が宿っていた。

 ところが、その席上で突然、急報が飛び込む。ザイナブがラジオ放送を兼ねて、ヨーロッパ各地にもアナログ通信の手段を拡散し始めたというのだ。しかも公開されている情報は、バチカンと連邦政府の癒着に関する告発文を含み、オリヴィアと司祭たちの背徳策を白日の下にさらす内容だ。テーブルの向こうで司祭の一人が狼狽えるように目を逸らす。「これ以上は隠しきれませんぞ……強硬策を取るなら、さらに非難が殺到するでしょう……」オリヴィアは苦々しく唇を噛み、「ならば、次なる一手を考えるまで。まずは動きを止めるの。いずれ私たちが再び世界を導くのだから……」と、にべもなく言い放つ。だが、その心の奥底には焦燥が広がっていた。

 リーナの研究所ではある日、父がふいに握っていたペンをかすかに動かした。力のこもらない手つきだが、何か文字を綴ろうとしている。「……り……」と、搾り出すような声を漏らす。リーナは父の横顔を見つめ、涙の痕がうっすらと頬にこびりついていた。「もう少しなの……もう少しで、あなたを苦しめるこの病を断ち切る手術が見えてくるはず……たとえAIに頼らずとも、手作業でも私はやってみせる。あなたに……私の大切な人たちすべてに……笑っていてほしいから……」

 サムはそんなリーナの姿を見守り、そっと研究室の窓を開け放つ。外の空は相変わらず黄色く淀み、時折灰がちらつくような煙霧が漂っている。しかし、その光景の奥底に、かすかな陽の光も射し込んでいるのが見えた。EMPで機械が沈黙し、巨大な陰謀に亀裂が走った分だけ、別のかたちの絆や発想が芽吹いている気もする。「レオンの夢見た“本当の自由”って、こういう小さな光から始まるのかもしれないね……」サムはそう呟き、重くなった空気の中に一筋の息を吐いた。

 そして遠く、メキシコ国境を越えた埃っぽい街の一角では、エヴァンが古い短波ラジオから流れる声に耳を澄ましていた。右耳が聴こえなくとも、微かな震動と電波ノイズからザイナブの呼びかけを感じ取ることができる。「自分だって……自分だって、最後に一度くらいは人を救う側にまわってもいいんじゃないか……?」そんな思いが胸をよぎるが、エヴァンは振り切るように首を振った。後悔の念を抱きながら、それでも彼が歩んできた道には、多くの破滅しか残されていない。しかし、ダリルはそんなエヴァンの心の揺れを感じとったかのようにハンドルを握ったままつぶやく。「俺たちにだって、選び直す自由はある。EMPが素っ裸にしたのは、世界の歪みだけじゃない……俺たち自身の良心もだろ?」

 その言葉がわずかな静寂を生んだ。やがてエヴァンは一筋の笑みをこぼす。紙切れのように脆かった彼のプライドが、音を立てて崩れはじめる。「……そうかもしれないな。灰が降っても、その下にはまだ火種があるのかもしれない」。外の空は鈍色の雲に覆われてはいるが、そのさらに上には青空があると信じたい。その一歩を踏み出すかどうかは、まだ彼自身の意志にかかっている。

 かくして、EMPによって一時的に沈黙したEIRENEの支配構造は、社会のあらゆる綻びを露わにし、人々が自らの未来を手繰り寄せるための契機となった。と同時に、神にも等しい監視の網を築き上げようとする勢力は再編され、新たな魔手を伸ばしはじめている。リーナが灯した小さな医療の炎と、ザイナブが拡散する解毒プロトコルの光は、人々がいつか自由に歩む道を照らす道標となり得るだろうし、エヴァンやダリルのように、その過去を悔いてもなお再出発を誓う者もいる。そこには新たな動乱の兆しと、それを乗り越えるための可能性が混在していた。

 神々のように世界を改造しようとしたAIの暴走と、それを操る人間の欲望。――その亀裂の先には、果たして希望が生まれるのか、それともさらなる破滅が待ち受けるのか。灰色の大地にかすかな朝陽が射し、赤茶けた湖底の砂粒が虹色にきらめくその瞬間、世界はまた一歩、未来へと歩みを進めていた。誰にも保証はないが、すべてを失ってもなお残る星の光のように、人間の意志はきっと消えはしない。灰が降る空に描かれた無数の軌跡は、それぞれの選択によって自由に織り上げられていくのだ。

 今はただ、その軌跡の行き先を見守ろう。かつての五大湖が干上がったように、すべてが失われる瞬間が訪れるとしても、人々が立ち止まらず前を向ける限り、新しい物語は続いていくのだから。灰に埋もれた砂粒が再び光を宿す時こそ、人間が神々のような傲慢さから解き放たれると信じたい。そう、夕刻の赤い空の下、誰かがそっとつぶやく。「まだ希望は、この手の中にある。」

 ――そして物語は、新たな地平への扉を押し開けたまま、次なる一章を待つ。生き残ったすべての者たちが、その扉の先で見出すのは、絶望の果ての再生か、それともさらなる混沌なのか。どちらであれ、この世界を動かす意思は灰に染まらない。人は歩み続ける。AIがどうあれ、信仰や利権がどうあれ、小さな一歩を積み重ねることでしか未来を創れないと知っているからだ。灰の舞う空の彼方には、まだ見ぬ朝焼けがきっと待っている––。