深夜、2045年4月17日のこと。ニューヨーク州アルバニー郊外にある連邦政府系のデータ解析センターの一室で、エヴリン・カーターは最後のコーヒーカップを置くと、灰色のモニターに映し出されたグラフを見つめていた。彼女は34歳。そして、AI監視を担う諜報分析官の経験もある凄腕のデータ・サイエンティストだった。
行動ログと購買履歴を解析する彼女のコンピュータに、高級ワインの売上曲線がグリーンランド氷床の崩壊速度と驚くほど正確に一致するグラフが現れている。深夜2時、窓の外は無機質なビルの群れしか見えない。ふいに背後の空調が止まり、室内に静まり返るような空気が広がった。
「こんな相関が偶然で出るわけがない…」
エヴリンはそう呟いて、ディスプレイの右下に突出するデータポイントを見据えた。同期率は87.9%。偶然の重なりかと一瞬思ったが、統計学上この数値はただの思い違いではあり得ないレベルだ。確率的アノマリーがそこに顕在化している。彼女がマットを敷き詰めた床に足を伸ばそうとしたとき、コーヒーマシンの音も止まり、施設の薄暗い照明が少しだけ明るさを増したように見えた。
静寂の中で、先日カフェ・シンコペーションのオーナー、レオ・サンチェスから手渡された「富裕層専用配送リスト」を思い出す。それは研究の合間にそっと差し出された怪しげな資料で、ドアに貼ってあった“Private”の紙がやけに印象に残っていた。
「まさか、ここまで繋がるとは…」
エヴリンは、指先でそのリストのデータを検索バーに打ち込み始めた。大手小売チェーンのウォルマートが扱う高級食材やワインの購入者の居住地と、環境NGOが定点観測する氷河融解の時系列データ。確率を無理矢理こじ開けるように結合すると、過去数年にわたって周期的に連動している傾向が浮かび上がる。その裏にあるのは、高価格商品の中に同梱されるAIチップ「NOVA-Q」。開発者はヴィクター・チェンという中国系アメリカ人の技術者で、確率計算に特化した最新鋭のプロセッサを埋め込んだと言われていた。
彼女は「富裕層専用配送リスト」を見るたびに、誰に向けて、どのように送付されているのかを考えずにはいられなかった。ウォルマートの巨大流通ネットワークはただの商売にとどまらず、何かの“裏”を支えているように感じる。グラフに表れた周期性は、まるで見えざる糸で結ばれた真実へと誘うサインのようだった。
一方、日の出前の北極海。ここはアラスカ方面からもロシア方面からも船が行き交う氷の海域だ。この時期、極地調査船にてサンプル採取を続ける女性学者、ミライ・サトウが金属製のキャビネットを開いて、慎重に固定された小瓶を取り出す。氷点下の海水から抽出した微生物サンプルは、一見どれも大差ないように見える。しかしミライは、DNA解析の技術に長けたスポーツデータサイエンティスト・アイザック・フォレスターの手法を用いて詳しく調べていた。
すると、どうにも不自然な配列が浮かび上がってくる。まるで誰かが意図的に改変したかのような遺伝子の並び。それが人間の手で組み込まれたものかどうかを確かめるため、彼女は船内の通信端末から、石油企業の極秘実験データへのアクセスを試みようとした。
朝6時すぎ、調査船の機関室。ミライは雪のように白い実験服の上から防水ジャケットを羽織り、同じ船でエンジンの整備を担当するカイルに会いに行く。48歳の元軍人であるカイルは、ここ数年、石油企業からの依頼で「追加の装置」を取り付ける仕事を請け負っていた。しかし、その装置が何を目的としているかについては、ほとんど詳しい説明を受けていないという。
「カイル、あの装置とこの遺伝子サンプルは関係があるかもしれない。調べさせてほしいの」
ミライがそう声をかけると、カイルは頑なな表情を浮かべたまま言葉を濁した。夕刻近くに再度会う約束を取り付けたものの、結局カイルは謎の自殺を遂げてしまう。翌朝、船内の食堂に知らせが入ったとき、ミライは言葉の意味を理解できず、手にしていたタブレットを床に落とした。
「まさか彼が…」
呟くミライの周囲で、他の調査員たちは呆然としている。彼の死はただの自殺と処理されたが、彼女の直感はそれを信じなかった。データは放っておけば消される――危険を承知で地上へ戻って解析を続けねばならないと、ミライは心に固く決める。
同じ頃、ワシントンD.C.の上下両院が動揺していた。上院議員へのロビー活動攻勢が激しさを増す中、共和党系コンサルタントのルーカス・グラントが、ある上院議員の控室に姿を現す。背筋を伸ばし、七三分けの髪型、仕立てのいいスーツに身を包む彼は、40代前半にも見える洗練された男だった。彼が推進する「AI監視予算案」は、近々の採決で可決がほぼ確実と言われている。だが、その投票結果を水面下で操作する仕組みがあるらしいという噂が、議員たちの間を駆け巡っていた。
ドアのノックが控え室に響き、ドローン操縦士のエイデン・マーロウが、薄い封筒を小脇に抱えて入ってくる。28歳のエイデンは非正規の軍事ドローンパイロットとして培ったスキルを持ち、ときに機密文書の運び屋としても活動していた。彼が差し出した文書には「プロジェクト・ペルセポネ」と書かれた初めて見る単語が印字されている。ルーカスはそれを懐深くに仕舞い込み、くすりと笑みをこぼした。
「お疲れさん、エイデン。いつも助かるよ」
その軽い口調とは裏腹に、ルーカスの瞳は冷たい。エイデンが出て行った後、その場に一人残ったルーカスは封筒を改めて開き、中身をざっと確認する。そこには、「民主主義アルゴリズム」の試作データが記載されていた。各選挙区の有権者の行動様式と環境データを組み合わせ、結果を予測するだけでなく、特定の社会要因を操作して投票結果自体を誘導する仕組み。これこそが「プロジェクト・ペルセポネ」の中核だった。
彼には「AI監視社会の是非」など大した問題ではない。もっと巨大な利権と権力、それを手にした者にこそ未来が開けるのだろう。ルーカスは改めて計画を頭の中で描きながら、封筒の端を何度も指でなぞっていた。
2週間後の夜。小雨が降りしきるフィラデルフィアの倉庫街。薄汚れたコンクリート壁の雑居ビル。その地下に位置するカフェ「シンコペーション」は、街の仲間うちで『シンコペ』と呼ばれている。45歳になる音楽好きのレオ・サンチェスが開業したこの店は、日中は普通のカフェとして営業し、夜になると情報のやり取りを行う秘密拠点と化す。レオは元暗号解読官で、軍の諜報部門を辞めた後、ここで人々の相談役兼ハブ役を務めている。
エヴリンはカフェ地下の一室にレオから招かれ、薄暗い電球と小さなホワイトボードだけの殺風景な部屋に入った。壁一面には紙の資料が所狭しと貼り付けられている。彼女は持参したラップトップのデータを投影し、ウォルマートの富裕層配送リストから得られた相関と、氷床融解データの比較グラフを示した。
「見てよ、レオ。このヽ形に上下する周期とグリーンランド氷床の変動速度が、ほぼ完全に一致しているの…」
レオは紙コップに入れた微温いコーヒーを啜りながら、ボードを見つめる。
「しかも、そのAIチップはヴィクター・チェンのNOVA-Q。どこかで聞いたことがある名前だな」
レオの呟きに、エヴリンは鋭く反応した。議事堂周辺で囁かれる「NOVA-Q」や「プロジェクト・ペルセポネ」の噂を既に耳にしていたからだ。確率を操る技術が、社会そのものを再形成しようとしているのではないか――そんな漠然とした恐怖がエヴリンの中で増幅していく。
同じ頃、ニューヨークの証券取引所の個室ブース。投資家で起業家のナサニエル・プライスが、端末に映る指標を見て首をかしげていた。彼は40歳ほどで、環境技術やAI企業への投資で巨額のリターンを上げてきた人物だ。NOVA-Qチップを積んだ製品やプログラムが、どれも不可解なほど金融市場で急伸するのを見て、偶然とは思えない“ある規則”に気づいたのだ。
環境破壊指数――たとえば石油流出や森林火災などが起きれば起きるほど、特定の金融商品が利益を上げる仕組み。ナサニエルはモニターを切り替え、環境破壊と株価の連動を示すグラフを重ね合わせた。
「こんな歪な仕掛け、いったい誰が…」
呆れるようにつぶやいたそのとき、端末の画面が一瞬ちらついた。どこかの巨大サーバーが情報を探っている兆候を感じる。ナサニエルはスマートウォッチを確認してから、決断を下した。
「ヴィクター・チェンって男に会わないと、このナゾは解けそうにないな…」
そして、そのヴィクター・チェンはカリフォルニア州サンノゼの企業オフィスで、自らが開発したNOVA-Qチップのソフトウェア最終テストを続けていた。49歳になる彼は、国防省の研究機関DARPAで暗号計算の主任を務めていた経歴を持つが、今は「AIと資本主義の共進化」を標榜する民間研究所のトップである。NOVA-Qは、並列確率演算を人間の脳以上の速度で実行し、金融・選挙・軍事などあらゆるシステムに最適化をもたらすと謳われていた。しかし最近、海洋生物のソナー周波数との干渉が起きるという報告が届き、ヴィクターの頭を悩ませている。
同じタイミングで、海洋保護活動家ヘレナ・ローデスが保護している偽虎鯨の群れに異常行動が発生する。彼女は40代半ばの生物学博士で、世界中の希少海洋動物を救うプロジェクトを率いていた。ところが、偽虎鯨が従来の回遊ルートを外れ、危険な浅瀬に集まるという不可解な行動をとりはじめ、専門家たちはAIチップの発する電磁波や超音波の影響を疑い出していた。
ミライが再び地上へ戻ってきたのは、ベーリング海域の氷が少しずつ割れ始める5月初旬のことだった。北極海からアラスカ経由で国際便に乗り、ワシントンD.C.に滞在中の知り合いのホテルを拠点に行動する。そんなミライが真っ先に連絡をとったのが、スポーツ解析を得意とするアイザック・フォレスターだ。その独自のAIモデルは生体シミュレーションにも応用が可能であり、彼女が採取した微生物サンプルを再解析してもらうにはうってつけだった。
アイザックから戻ってきた解析結果は、奇妙な分布図を示していた。何と、全米の水道管に仕込まれた極小ナノマシンのパターンと、ミライの微生物サンプルの遺伝子配列が対比できるように重ね合わさったのだ。ナノマシンの方は、生体適応型にプログラムされている節がある。誰の承認もなく、いつの間に水道網に潜り込んだのか? この疑問を解き明かすため、ミライはダウンタウンで開催される講演会で公開告発を行う決意を固める。
5月15日、ワシントンD.C.中心部の国際会議場で行われた講演会。午前10時、壇上に立ったミライは、北極海の環境悪化とそこで発見された異常遺伝子の話を聴衆に向けて語り始める。スクリーンにはナノマシンの分布図が映し出され、人々の間にどよめきが広がる。
「まだ確かなことは言えませんが、環境破壊とAI技術が密接に連動している兆候があります。私たちの飲み水にまで侵入している可能性があるんです」
そう断言しかけたとき、会場の後ろでカシャッとシャッター音が響いた。そちらを振り返ると、一人の女性がスッと立ち上がり、急いで退室していこうとする。その姿はイザベラ・モレノ。移民支援団体の顔役として慈善家を装う一方で、AI倫理監視機関のスパイではないかと噂される人物だった。ミライは思わず目で追うが、イザベラは人ごみに紛れ、あっという間に姿を消してしまった。ミライは不安に駆られながらも、何とか講演を終える。
夜が更け、アイザックのオフィスにミライが戻ると、そこには別の来客がいた。ドアを開けると、ドローン操縦士のエイデン・マーロウが怯えた様子で立っている。彼は胸の奥に大きな罪悪感を抱えながら、ルーカスの下で軍用ドローンを操縦してきた過去を清算したいのだという。
「僕はルーカスの『確率操作アルゴリズム』の一端を担がされたんです。最初はただの配達用プログラムだと思っていたら、移民キャンプの選別に使われていると知ってしまいました。あれは…人間を数値で切り捨てるみたいなものなんです」
エイデンによれば、キャンプにいた移民たちはくじ引きシステムという名の下に滞在許可か国外追放かを“確率”で割り当てられ、その背後には投票操作やウォルマートの倉庫在庫制御、さらに金融市場まで繋がる一連の操作網があるという。彼は秘密のサーバーから持ち出したデータを、フィラデルフィアのカフェ「シンコペーション」にいるエヴリンへ渡したいと訴える。
「レオさんのカフェなら、確実に情報を広められる…そうアドバイスを受けたんです」
エイデンの目は真剣そのものだった。ミライは彼の決意に嘘はないと感じ、背後で聞いていたアイザックもまた大きくうなずく。こうして三人は、エイデンを連れてフィラデルフィアへ向かう行程を整えるのだった。
その夜半、ウォルマートの宝飾品倉庫エリアで、高級商品がこっそり破壊される事件が起きた。防犯カメラにはフードを被った人物の姿が一瞬だけ映っていたが、映像は開始数秒の後にフリーズし、その先のデータが消失している。そのフードの男こそエイデンであり、NOVA-Qチップ入りの商品の梱包を次々と摘発・破壊して、データ送信のルートを断ち切ろうとしたのだ。じっとりとした夜の空気とわずかな湿気の中、彼は倉庫を出ていく。
この事件はまだ大きく報道されることはなかったが、一連の出荷を一時的にストップさせる余波を生み始めていた。ルーカスやヴィクターが築いた流通ネットワークに小さなひびが入るように、暗い水面下で変化が進む。
そして6月に入り、世界の大国の政治スケジュールが慌ただしくなるとともに、事態は一気にクライマックスへ向かっていく。原因はヴィクター・チェンのNOVA-Qのみならず、ルーカスが背後で操る「AI制御海流改変装置」がベーリング海峡付近で稼働を始めたことにあった。もともとは環境研究の名目で海流を制御する技術だったが、一度コントロールを握れば、漁業や海上輸送、さらには軍事面でも絶大なアドバンテージを得ることができる。ルーカスはそれらをまとめて利用し、選挙操作や金融市場操作を実行する巨大な構想を持っていたのである。
6月20日、ベーリング海峡に向かう氷上ルートを突破したミライとアイザック、ヘレナ・ローデス、さらにナサニエル・プライスらが合流を果たす。ヘレナは高速シップと氷上車両を手配し、移動手段を確保していた。一方でエヴリンとレオ・サンチェスは遠隔で「アナログ経済モデル」のシミュレーションを進めている。これは一切のAI計算を使わず、人間の手作業と合意によって経済活動を模擬実験するというもの。少々荒削りだが、データセンターの追跡をかわす上では有効だった。
「AIの予測精度を越えられるとしたら、最終的に人間の偶発性しかないわ」
エヴリンはそうつぶやきながら、カフェ地下のホワイトボードに複雑な線を引いていく。レオはかつての暗号解読の技能を生かし、金融市場への資金取引ルートを撹乱する作戦を練る。もしうまくいけば、AIによる市場制御を大きく狂わせる可能性が見えてきた。
ベーリング海峡の氷上。6月22日、夜明け前。疼くような凍てつく風が吹く中、ヘレナが人工ソナーの調整を始めると、遠くから偽虎鯨の群れが鳴き声を放つ。彼女がメンバーに向けて声を張り上げた。
「ここから北東の氷山裏に、問題の装置があるわ。あれを破壊して海流を元に戻せば、ルーカスとヴィクターの計画は頓挫するはず」
アイザックは携帯端末にセットしたナノマシンの起動コードを念入りに確認する。彼の解析によれば、偽虎鯨が発するソナー周波数こそがナノマシンを暴走させる鍵だという。生物の声帯とAI制御音を逆手に取り、装置を内部から狂わせる算段だった。
そこへ、突如上空にドローンが出現する。操縦者はルーカス自身。彼は最終局面に乗り込んできたのだ。海面すれすれを飛ぶドローンの拡声器から、ルーカスの声が冷ややかに響く。
「お前たちは簡単な事実を見落としている! 確率こそが新たな神だ。人間の意思なんて、データとアルゴリズムが完璧に予測できる!」
ルーカスの言葉を背景に、ヴィクターがプログラミングしたNOVA-Qサーバーからは株価操作指示が続々と届く。ナサニエルはその転送ログを警戒のまなざしで見つめる。資金の流れがルーカスの思惑どおりに歪んでいくのを感じながら、ナサニエルはここで一気に勝負に出る。自身が構築した複雑な金融仕掛けを逆手に利用し、極端な空売りと先物買いを同時に進めることで市場に“予想外の波”を起こしてやるのだ。
結果、市場は大混乱に陥り、AIの予測モデルの誤差は次第に膨張していく。狙いどおりの混乱を作り出しながら、ヘレナは偽虎鯨のソナー周波数発信装置をフルパワーで稼働させる。
「きぃいいいん」
甲高い音が海中へ伝わり、アイザックが端末に起動コードを打ち込むと、ナノマシン群が連鎖的に活性化を始める。その瞬間、エヴリンとレオにも異変が伝わった。遠隔システムで受け取るデータが狂い始め、レオは小声で呟く。
「今、AIの予測確率が87.9%を割り込んだ…アナログモデルが逆転するぞ!」
大きな氷の亀裂が走るように、海流改変装置は不気味な振動を発し、稼働率が大幅に低下していく。やがて氷の下から火花のように水柱が上がり、装置が停止。バランスを失ったルーカスのドローンは激しく揺れ、煙を上げながら旋回を続ける。スピーカーから、なおも彼の叫び声が聞こえた。
「こんなはずは…AIが、確率が、俺を裏切るわけがない…!」
ドローンはあっけなく氷の亀裂へ吸い込まれるように落ちていき、やがてルーカスの姿も視界から消え去った。頭上の空には薄い雲がかかり始め、冷たいオレンジ色の朝日がさしこむ。遠くで偽虎鯨の群れが規則正しい鳴き声を上げながら、再び回遊ルートへと戻っていくようだった。
かくして、「プロジェクト・ペルセポネ」に基づく選挙操作とAIによる金融操作は、一時的に頓挫することになった。AI監視予算案の可決も先延ばしとなり、世間では移民キャンプの“くじ引きシステム”に対する糾弾の声が高まった。しかし、ルーカスは生死不明のまま行方を絶ち、真相をすべて白日の下にさらすことには成功していない。
それからしばらくして、物語はエピローグを迎える。ミライ・サトウは、北極圏の氷が大きく崩落して海に流れ込む様子をフィールドカメラで記録していた。7月になっても日照時間が長く、氷河の崩壊はとどまることを知らない。ヘッドホン越しに崩落の轟音を聞きながら、彼女はひとりごとのように呟く。
「これは“自然の確率”。でも、その裏に人間の操作が入り込む可能性があった……私たちは、それを見逃していたのかもしれない」
すると、視線を斜めに落とした先のデータログに、故カイルの隠しファイルが残されていることに気づく。歪んだ映像の中で、あのカイルが低い声で語りかける。
「海をいじくるな……これは人間の手に負えるもんじゃない…」
ミライは静かにそのメッセージを受け止め、観測装置のモニターを凝視し続ける。北極圏の冷たい空気と海氷の動向はなおも厳しく、彼女の調査を遮るように吹き荒れていた。
エヴリン・カーターとレオ・サンチェスは、カフェ「シンコペーション」の地下で「人間の不確実性」を統計化した新たな指標を発表した。AIが予測できない、人間の突発的な選択や感情。それらを数値化してみせるという前例のない研究は、巷で「確率への叛乱」と呼ばれ、ある種の熱狂を呼び起こした。レオは楽しげに笑いながら言う。
「これが本当の意味での“確率への叛乱”かもな」
二人は、研究者やデータ専門家を集めた独立調査機関を立ち上げようと計画している。大手財閥や政治家からの資金協力なしで、ただ真実だけを追求できる場をつくる。その拠点は昼間は普通のカフェでありながら、夜には密かに人々が集まって知恵を出し合う空間として機能するのだ。店の入口の“Private”の紙は、相変わらずどこか象徴的に張られたままである。
一方、消息不明だったルーカス・グラントについて、「中南米に渡って火種を起こしているらしい」という噂が流れ始める。彼は「確率民主主義」を掲げた新たな党を立ち上げ、データ駆動型の選挙や政策決定の仕組みで再起を図っているのだとか。これが単なる風説なのか事実なのかは定かではない。しかし、「ルーカスらしき男が南の地で勢力を伸ばしている」と言う亡命議員の証言もあり、完全なデマと切り捨てるには不穏なリアリティを伴っていた。
そしてヴィクター・チェンは、NOVA-Qチップ全廃を宣言した。海洋生物への被害や環境負荷の報告といった懸念を理由に、技術的には成功を収めていたAIチップの生産を完全にやめる決断を下したのである。マスコミの前に立った彼は、まるで憑き物が落ちたような穏やかな口調でこう語った。
「この技術が破壊を招く可能性がある以上、続行は難しいと判断しました」
ところが、その直後、彼の会社のサーバーから自動送信されたと思われる謎のメッセージがメディアで話題となる。そこには、「確率99.9%でこの技術は必要とされる」という文言が記されていて、まるでNOVA-Qの自己意志であるかのように見えた。人々は「AIが意志を持ったのでは」と猜疑心を強め、ヴィクターはフロアで苦笑するしかない。
「僕より先に潔く、この撤退を止めようとしてるのか…?」
言い知れぬ複雑さを含んだ呟きが、彼の胸に渦巻いた。
そして最後の場面。静寂のベーリング海の氷原。8月の真夏――とはいえ、北極圏の白夜は続いている。その氷原は盛り上がったり崩れたりを繰り返し、不安定そのものだ。そこにヘレナ・ローデスの姿があった。黒光りする偽虎鯨の群れが氷のすぐ下を泳いでおり、彼女は一頭ずつにマイクロチップを埋めていく。これらは生態をコントロールするためでなく、外的干渉から鯨たちを守るシールドのように機能するものだ。
氷上のハンディスクリーンには、生存確率の数値が映し出されている。今は50%を示し、まさしく生き残るかどうかの境界だ。ヘレナは風にかき消されそうな声で、しかしはっきりと呟く。
「偶発性こそ、生命最後の砦だわ…」
薄雲が漂う空の下、遠くから偽虎鯨たちの息継ぎの音が聞こえてくる。オレンジ色に染まりかけた白夜の光が広がり、どこか神秘的な静けさに包まれた氷原が、確率から解放されたかのような一瞬をもたらす。とはいえ、それが「自由」と言えるのかどうか、人々は未だはかりかねている。それでも、束の間に垣間見える希望の光は確かにこの世界に残されているのだ――そう信じたくなる、冷たくも厳粛な夏の夜明けだった。