夜の闇が静かに国立衛生研究所の外壁を包み込んでいた。雲が低く垂れこめ、街路灯の人工的な光も霞んでしまうほどの湿った空気。CDC公衆衛生調査官として赴任していた荒木玲子は、その日も深夜まで残業をしていた。ネオ・セーフティ法の施行からすでに数年。あらゆるネットワーク通信は監視下にあり、民衆は常に監視カメラやドローンの視線を感じながら生活を送っている。このコンピュータ管理社会で、彼女が日々扱うのは新型パンデミック「X-22ウィルス」の感染データだ。
資料室の端末を操作していた荒木はふと背筋が凍りついた。公式発表の死亡率が明らかに矛盾している。そこに映し出されている数値が、ほんの数時間前に確認したものよりも大幅に「書き換え」られていたのだ。たかが数値の書き換えではない。死亡率が公式の3倍に跳ね上がっているという衝撃的な真実こそが、人体に対する見方を根底から揺さぶるものである以上、これは看過できない。確認作業に熱中している最中、レンズのような光が彼女のスマートグラスで揺らめいた。急に強制的に立ち上がった動画アプリが、全く見覚えのない映像を再生し始める。そこには次々と心肺停止する被験者たちが映し出され、「バイタルグロウ」のロゴが薄黒く画面に浮かび上がった。
「あなたが手にしたデータを即座に破棄しろ。さもなければ次はあなた自身の臨床試験監修資格を剥奪するだけでは済まない。」
脅し文句のあと、被験者の苦悶の表情がアップになり、ざわざわと荒木の心がかき乱される。彼女が普段、融通の利かないほど厳格にデータ監修をしていたのは、こうした「裏」が存在することを微かに勘づいていたからだ。だが、目の前に突きつけられた動画は、その噂された闇を容赦なく具現化していた。荒木は急いで端末の電源を落とし、データのコピーだけを小型メモリに保存すると、監視カメラの視線から逃れるように研究所を後にした。
荒木が向かった先はアレクサンドリアにある小さな薬局「モリオカ薬品」。以前から漢方に詳しい薬剤師として名が知れた店で、そこで働く森岡拓也という青年と荒木は研究データの交換をしたことがあった。夜中にも関わらず、店の灯りはついており、入り口にかけられたブラインドの隙間から人影が見える。ドアをノックすると、息を乱した森岡が姿を現した。
「すみません、閉店後ですが……荒木さん?」
彼の顔には重苦しい表情と、微かな恐怖が浮かんでいる。荒木は乱れた息を整えようとするように、小声で言った。
「重要な話があるの。貴方には前に助けてもらった恩があるから、嘘はつけない。実は……X-22ウィルスの死亡率に関する統計、偽装されている。しかも、バイタルグロウから脅迫を受け始めたわ。」
森岡は荒木を店の奥へ招き入れ、簡易ベッドが置かれた調合室に腰かけると自分のスマートフォンを操作して見せた。そこには、ある巨大なデータ改ざん現場を撮影した映像ファイルが保存されていた。
「実は俺、数日前にある倉庫の前で変な光景を見た。集まっていた男たちが話していた内容を盗撮したら……暗号化されたファイルができて。おそらくこれが公式に発表されている感染統計を改竄する瞬間を記録したものらしい。だけど、ネットにアップしようとすると検閲にひっかかってしまう。しかもさっき、変な咳が出て……」
そう言った直後、森岡は激しい喘息の発作に襲われた。苦しそうに胸を押さえる彼に、荒木は壁に立てかけてあった漢方薬の材料を見て瞬時に判断した。「麻黄、杏仁、甘草、石膏……まさか、これはX-22に効く可能性がある…」荒木は咄嗟に調合を手伝い、森岡に飲ませた。すると驚くほど早く彼の呼吸が落ち着いた。そのとき荒木の脳裏には、ある言葉が浮かぶ。「プロジェクト・フェニックス」。CDC内部で噂される特効薬候補計画のコードネームであり、漢方成分をベースにした新薬の開発が一部で行われているという話を思い出す。そしてそのコミュニティの裏には、アメリカ最大手の製薬企業バイタルグロウが絡んでいるのだ――。
翌朝、フロリダ州のデイトナではNASCARの公式レースが行われていた。最新型の電動NASCARマシンが爆発的なスピードで周回を重ねるなか、人気ドライバーのヴィンセント・ハーパーがトップ争いを繰り広げていた。会場の大型ビジョンには実況アナウンサーの映像が映し出され、観客たちは熱狂的に歓声を上げている。
だがレース終盤、ヴィンセントのマシンの安全装置が突然解除されてしまい、コントロールを失った車は壁に激突。車体が炎に包まれる。観客席から悲鳴がおこった。スタッフが消火作業を試みる中、ヴィンセントは奇跡的にもコックピットから自力で這い出した。それはまるで神業のような脱出で、実況画面にも彼の姿が大きく映し出される。だが、その映像を注意深く見ると、チームスタッフのような男たちが炎上するマシンの下から何かを回収しているのが一瞬映り込んだ。
「今のは……義眼の男がいた?」
メディア関係席でモニターを凝視していた若手ジャーナリストが小さく呟いた。そのとき、観客には見えない隅のほうで、黒いサングラスをかけたプロデューサー風の男が撤収の合図を出している。彼の名はミラン。映画界の大物プロデューサーとして表舞台には多額の出資を行う一方で、裏では巨大企業や闇市場の取引を仲介し、影響力を拡大していた。そして、今回の事故現場でも彼の部下が「車体を遠隔で制御するための安全装置を解除する装置」らしきものを回収しているのだ。ヴィンセントはレース中、燃料の異臭を感じていたが、気のせいだろうと集中を切らさなかった。その結果、死の淵から生還する大惨事となった。
この事故映像はすぐさま全米中を駆け巡り、「保険金絡みの内部工作」などの噂が乱れ飛んだ。だがミランの企みは別のところにあった。ヴィンセントのマシンには実験的な生体データ収集機が組み込まれており、それが稼働中に大破してしまったのだ。そのデータは彼のスポンサー会社「シルバーアロー」にとって極めて重要だった。シルバーアローのCEOでありヴィンセントのメンターでもあるケイトはこっそりとデータを吸い上げ、彼のフィジカルや精神状態を測定していた。その背後には、軍事転用や医療社会保障システムとの連携など、巨大な利権が絡んでいる。
カリフォルニア州、スタンフォード大学構内。白亜の建物に囲まれた先端研究エリアの一角に、エレナ教授のラボがある。彼女は若くしてウイルス学とナノバイオテクノロジーの両分野で博士号を取得した才媛だ。近頃、その名は「次世代の皮膚透過型ワクチンを開発した天才教授」として全米に知れ渡っていた。メディアでは「人類救済の切り札」とまで謳われるこのワクチンだが、教授自身はどこか浮かない顔をしていた。
「ここに記録されている被験者の脳波の数値…………確かにおかしい。」
そう声をかけたのは、元軍所属の警備員ジェイク。現在、大学のセキュリティを担当していた彼は、肉体的にも精神的にもタフな男で、ミリタリー経験を活かして研究施設の警戒にあたっている。もともとは民間軍事会社に在籍していたが、過激な作戦との折り合いが合わず、退職した経歴を持つ。そのジェイクが、エレナのラボに顔を出し、被験者データの閲覧を許されていたのは偶然ではなかった。彼は軍時代の友人から「政府のMINDRAIDプログラムを疑うべし」という警告を受け、秘密裏に調査を進めていたのである。
「そうなの。私がこっそり調べたところ、このワクチン接種後の被験者の脳波パターンが、政府の思考監視プログラム『MINDRAID』と酷似しているの。これじゃあ陽性判定が出るたびに、彼らの脳内まで監視される可能性がある。」
エレナは端末に映る波形を示しながら厳しい表情で言った。その会話を、入り口付近でメモを取りながら聞いていたのは女子学生の助手だった。コールセンターでのバイトを辞めて最近ここへ転がり込んだばかりの若い学生で、金色がかった髪を無造作に束ねている。道に迷ったのがきっかけでラボに迷い込むように採用された「不思議な縁」を持つ彼女は、端末のプログラムをいじっている最中、誤作動でMINDRAID関連のファイルを発見してしまったのだ。
「先生、このプログラムを作動させるには、特別なチップが要るみたいです。ワクチン内に微小なチップが混入されている可能性がありますね。」
怯えたように訴える助手に、ジェイクは厳かな口調で答えた。「やはり、ただの感染対策や救済措置なんかじゃなかったんだな。裏には誰がいるかはまだわからないが、絶対に足跡を残すはずだ。おれは探ってみる。」
マンハッタンの磨き上げられた高層ビル群の中でもひと際目立つ連邦政府ビル。その中で強大な権力を持つ男、ダリウスが皮肉めいた笑みを浮かべていた。彼は連邦政府の要職にありながら、公衆衛生管理の名目を借りて反体制や亡命者の情報を握り、不要と判断した者は「追放」する権限を与えられていた。その「追放」の実態が時に暗殺であることを知る者は少ない。
ダリウスが手にしていたのは、ある密売記録のコピー。最近、優秀な弁護士リサ・チェンが闇市場でのワクチン密売ルートを掴み、一部を証拠として提出しようとしている噂を耳にした。もしこの証拠が表に出れば、ワクチンの原材料に謎の宝石「黒いトパーズ」が使われていることが明るみに出かねない。それは過去にコンゴでミランが掘り尽くし、密輸した希少鉱物であり、「ワクチン内蔵マイクロチップ」の製造にも使われている。ダリウスは電話を取り、執務室の窓からニューヨークの街を見下ろしながら冷たく言い放つ。
「リサ・チェン弁護士は危険な女だ。彼女が握っているデータを消去するためにも、亡命者抹殺指令を発令する。国境封鎖を強化し、監視を強めろ。ついでに彼女が雇っているインターンの身元も洗うんだ、ナオミ・ウォンとかいう女……闇市育ちのハッカーと聞いた。要注意だ。」
リサと共に行動する若きハッカー、ナオミ・ウォンは闇市場生まれ故に、その世界に精通している。幼い頃から電子機器いじりを覚え、防犯カメラや監視ドローンが飛び交うスラムを巧みに移動する術を身につけた。弁護士事務所でインターンをするのは表向きの肩書きであり、実際はリサの情報収集を手助けする影の存在でもある。しかし、ダリウスの目が光る以上、そう長くは潜伏できないことを二人とも薄々感じていた。
ヴィンセントのメンターであるケイトがCEOを務めるシルバーアローは、もともとレース用マシンを開発する会社だった。しかし近年、大規模なバイオメトリックス研究に着手し、その技術をレーシングカーに応用する名目で開発費を溶かしこんでいる。実際には、走行中のドライバーの脳波や筋電位、ホルモン分泌などのデータを蓄積し、人間の限界やストレス状態を解析する機能を高次元で統合していた。これこそがシルバーアローの隠された事業の柱であり、軍事企業や大手製薬会社から莫大な資金が流れ込んでいる理由でもある。
「ヴィンセントの車が炎上した件、詳細を報告してちょうだい。」
ケイトは重々しい木製テーブルの向こう側、真っ白なスーツを纏って厳かに言った。テーブルの上には最新のホログラム端末があり、レーシングカーのデータログが立体映像で浮かび上がっている。シルバーアローの技術顧問らしい男が、端末を操作しながら口調を低くして答える。
「安全装置を解除する装置が外部から不正操作され、事故が起きました。ただ、組み込んでいた生体データ収集装置は辛うじて回収されました。ですが、部分的に破損し、解析が難しい状態です。補助記憶装置は欠落しており、回収したのはミランの部下たち……我々が直接手を下すより先に。」
ケイトは小さく息を吐く。「仕方ないわね。データが漏れないことを祈るしかない。それに、バイタルグロウと組んでプロジェクト・フェニックスの共同開発を進めるには、我々が持つこのデータがどうしても必要でしょう?」
そのとき、別の社員から報告が入る。バイタルグロウの方でX-22ウィルス感染の死亡データが大きく歪められている件が社内でも話題になっているらしい。ケイトは歯を食いしばり、「アメリカ社会が混乱すればするほど、シルバーアローには新たなチャンスが巡ってくる」とほくそ笑んだ。エネルギッシュさの裏に潜む冷酷さが、そのしなやかな姿からは想像できないほどに凝縮されている。
ダリウスの抹殺指令が出るなか、荒木と森岡は必死の思いでバイタルグロウ本社ビルへと潜入を試みた。場所はニューヨーク州北部の郊外にある巨大な研究施設ビル。入り口に設置されている顔認証システムと網の目のように張り巡らせた監視カメラをかいくぐるため、ナオミ・ウォンが遠隔からハッキングし、わずかな時間だけ認証システムに偽の身分データを送信する。森岡は喘息持ちとは思えない動きでセキュリティゲートを突破し、地下3階のラボへと進んだ。
そこで二人が目撃したのは、無数の冷凍カプセルの並ぶ異様な光景だった。しかもそれらはすべて小児用で、中には眠りとも死ともつかない静寂状態で子どもたちが収容されている。荒木は息をのんだ。ラベルには「臨床治験対象:フェニックス・プログラム」と書かれている。
「こんなことが……子どもたちを生体実験の材料にしているなんて……」
怒りと絶望が渦巻く中、そこへ足音が響いた。白衣姿のエレナが現れる。荒木と目が合った瞬間、エレナの目には涙が浮かんだ。
「私の父は、バイタルグロウの研究データを流用して、もっと人道的な手段でワクチンを普及させようと研究していた。でも、会社に逆らうことは許されなかったの……。たくさんの子どもたちを救うためには、どうしてもこの研究を止める必要がある。だから、ここを爆破するしかない。」
そう言うとエレナは震える手で拳銃を荒木たちに向けた。「あなたたちが来てくれるのを待ってた。警察や政府の機関は信用できない。もう時間がないの!」
そのとき、軍時代の仲間から離反してきたジェイクがC4爆薬のセットを完了させ、暗い声で伝える。「サーバールームと子どもたちの冷凍保存装置の制御部分だけは爆破対象から除外した。子どもたちを救う余地を残している。だけど早く行くぞ。ダリウス指揮の無人ドローン部隊が囲んでる。」
荒木と森岡、そしてエレナは慌ただしく建物の出口を目指す。しかしすぐにドローンの羽音が近づく。冷たく光るレンズがインフラレッドモードに切り替わり、一帯を探索する。まるで生きた檻のようだ。逃げ場を失いかけたその瞬間、凄まじいエンジン音がビルの外壁を砕いた。突如として改造レーシングカーが壁を突き破り、そこからヴィンセントが高揚した面持ちで運転席に乗ったまま現れる。
「ヒーローの登場だぜ!」
助手席から湧き出すように飛び込んできたのは、ミランの雇った傭兵たち。彼らが闇市で調達した電磁パルス兵器(EMP)を肩に担ぎ、ドローン群に照準を合わせる。けたたましい放電音とともにドローンが次々と墜落していく。まさにこの一瞬が、荒木たちにとっての最大のチャンスだった。ジェイクが仕掛けた爆薬が炸裂し、研究施設にあるサーバールームの中が光と衝撃で満たされる。ここにある「X-22ウィルス感染の真の統計データ」と、「子どもたちを犠牲にした治験の証拠」は、一部が世界にリークされようとしていた。
事態を把握したダリウスはヘリで現場周辺を監視していたが、この騒ぎとEMP干渉を前に次の手を打てない。そこへリサ・チェン弁護士がハッキング経由で収集した密売記録をライブ配信で世界中に公開する。ナオミが暗号化したファイル群を続々とアップロードし、アメリカの上層部との闇取引の証拠資料が一挙に暴露されていく。このとき同時に、ケイトが政治献金を行い取り込んでいた上院議員リストもさらけ出された。昼の陽光の下、アメリカ中が大混乱に陥ることは確実だった。
怒涛のような告発劇が終わり、一見平和を取り戻したように見えた街。バイタルグロウは社会から猛バッシングを受け、業務停止へ。シルバーアローは議会査問を受け、ケイト本人も逮捕こそ免れたが、政界との繋がりが公になり企業活動は表向きに縮小せざるを得なくなった。しかし「監視社会」の支配構造そのものが根底から崩れるわけではない。多くの市民は飢餓や暴動の恐怖から協調と秩序を求め、より厳密な統制を支持する者さえ増えていた。
そんな中でも、荒木は地下サイバーネットを介して森岡が作った漢方薬ベースの治療法を地道に拡散していた。薬局のホームページはいつの間にか閉鎖され、彼自身も表向きは行方不明だ。しかしネットの片隅に残された暗号フォーラムでは、彼が開発したという「フェニックス漢方」の情報を手にした人々がひそかに治療を試み始め、一定の効果を上げているという噂が広がっていく。「やはり自然由来の力は捨てたもんじゃない」――そんな励ましの声が、巧妙に隠されたサイトの書き込みでこぼれるようになっていた。
ある夜、荒木はワシントンD.C.の自宅で研究資料を眺めていたとき、「X-23」という言葉を発見する。X-22ウィルスのはるか上を行く変異株の存在を示すファイルを、ナオミから受け取ったのだ。政府公式にはまだ報告されていない、新たなフェーズのパンデミックが迫る予兆があった。パソコン画面には「感染率波形試算:X-23」と表示され、そのデータが瞬く間に消される。
「また同じことを繰り返すつもりなの……?」
荒木はスマートグラスを外して呟く。背後のキッチンからはパンを焼く香ばしい匂いが漂う。彼女はストレス解消のために天然酵母パン作りを日課としていた。その生地を発酵させようとボウルを覗き込むと、中に小さな黒い粒が光っていることに気づく。恐る恐る拾い上げ、それが微細なトラッカーであることを理解したとき、冷や汗が背を伝った。「こんなところに仕掛けていたの……誰が?」
その一方、軌道上を飛ぶ監視衛星の映像解析を受け持つミランは、義眼に特別なARモジュールを仕込んでいた。最後のシーンは、灰色の廃墟と化した街の映像を反射させながら、遠距離ライフルを構えたジェイクと女子学生が、巨大サーバ施設と思しき場所を狙撃する様子が映し出されている。MINDRAIDの中枢か、新生したバイタルグロウの陰謀の拠点かは不明だが、そのクロスヘアの先で何かが爆発的に閃光を放つ。未来はまだ混沌の中にある。
焦げた街並み、埃まみれのサーバラック、そしてそこに巣食う新たに生まれた監視システム。ミランの義眼には、破壊の光とともに映るジェイクたちの決意の姿が歪んで捉えられていた。誰もが大きな犠牲を払いながらも、なおも止まぬ闘いへの渦に巻き込まれていく――データの檻を出る日は来るのか。その答えは、いまだ閉ざされたままだった。
バイタルグロウ本社の爆破とリークされた証拠が引き金となり、政府と巨大企業の綻びが少しずつ露呈したものの、社会が根底から一変することはなかった。人々の関心は次の選挙や経済動向へと移り、怒りや不安は断続的なデモと暴動に形を変えながら散っていった。
そんな混乱渦巻く中、ジェイクは荒木と連携を続けながら、政府とシルバーアローの新たな動きを探っていた。バイオブロックと呼ばれる市街地の外れにある巨大な倉庫群。そこでは目撃情報が後を絶たない。夜毎、軍用トラックが出入りし、何やら黒い金属パーツを積み下ろししているという噂。ジェイクはミランの義眼が捉えた映像を手がかりに、危険を承知で内部に潜入した。
ディーゼルの匂い、鈍い金属音、そして倉庫内部に張り巡らされた無数のケーブル。壁にはバイタルグロウのロゴが塗りつぶされた跡があり、その横には「シルバーアロー」のステッカーが新たに貼られている。どうやらシルバーアローがバイタルグロウの研究設備を引き継ぎ、一部のプロジェクトを継続しているようだった。
「やはり新しいウィルス株の開発か?」
ジェイクは薄暗い倉庫の奥で空調設備の音に耳を澄ませる。X-23ウィルスに関するファイルがあれほど厳重に隠されていた以上、ここでまた人体実験が行われている可能性は高い。ふと身体が冷気を感じ、背筋が粟立つ。かつて軍時代に経験した極秘ミッションを思い出させる、あの張り詰めた空気。視線を巡らせると、通路の先に格子状の扉があり、そこから僅かに青白い光がもれていた。
扉をこじ開けて奥へ進むと、そこには真新しい培養タンクが幾つも並んでいた。そのタンクには白濁した液体と、かすかに動く人影。子どもとも大人とも判別しづらい年齢層の被験者が新型ワクチンの実験台にされていることは明らかだった。ジェイクはポケットから小型の撮影装置を取り出すと、慎重に記録を取り始める。だがそのとき、背後から低い男の声が響いた。
「そこまでだ。動くな。」
振り返ると、漆黒の防護服に身を包んだ複数の男たちが銃を構えていた。ヘルメットに映る企業ロゴはシルバーアロー。ジェイクは舌打ちした。「やはり、ここにも傭兵部隊を配置してやがるか……」
睨み合いが続く中、突然上方の配管から白い霧が吹き出した。ジェイクに銃を向けていた男たちが「まずい、漏れてるぞ!」と一斉に後ろを振り向く。どうやらバイタルグロウ時代の腐食した配管が新しい装置と合わずに暴走を起こしたらしい。灼熱のような化学刺激が広がり、敵の目と鼻を容赦なく襲う。ジェイクはこの一瞬を逃さず、狙撃用の麻酔弾を撃ち込み、突入隊を無力化した。
さらに奥へと進むと、半透明の防護ガラス越しに研究員らしき人影が忙しなくキーボードを叩いているのが見えた。背後には黒いパーカー姿の少女。ナオミが無線機越しにジェイクへ声をかけてくる。
「ジェイク、視戒システムを一時的にダウンさせるよ。今なら奥に侵入できるはず。」
またしてもミランの存在を感じたジェイクは、その影響力をかいくぐる形で動かなければならないと悟った。おそらくミランは、こちらの動きを全て見越しているかもしれない。だが、怯むわけにはいかなかった。X-23を封じ込める可能性がある特効薬の研究データ、そこには荒木が期待をかける「フェニックス漢方」の改良版も含まれている可能性がある。子どもたちを救う一筋の光を求め、ジェイクは研究エリアへ足を踏み入れた。
バイオブロック地区での潜入から数日後、荒木のもとにジェイクから無事帰還したとの連絡が入った。シルバーアローの研究拠点から回収したデータには、X-23ウィルスに対抗し得る新時代の漢方成分が組み込まれたワクチンの設計図が含まれていたという。その裏には、あのエレナ教授が長年にわたって隠し持っていた「フェニックス計画の試作データ」も組み込まれていた事実が判明する。エレナがなぜバイタルグロウ本社を爆破せざるを得なかったのか、その真意がこのデータの存在によってより鮮明になったのだ。
だが、手放しでは喜べない。新しいウィルス株を使った「人体の制御技術」も同じファイルに含まれ、すでに改良型MINDRAIDと結びつけられようとしていた。感染者の思考や行動を特定の条件下でコントロールする仕組み……。万が一、これが実用化されれば、権力者にとって比類なき監視社会の完成形が待っていることになる。
「でも、まだ希望はあるわ。私たちが見つけたデータは、同時にその支配から人々を解放する鍵にもなるはず。」
荒木はジェイクからのメッセージを読み終えると、研究机に突っ伏して眠っていた女子学生の助手の肩をそっと叩く。かすかに夢うつつの表情で起き上がった少女は、例のMINDRAIDのコードの一部を解析していた最中だった。
「先生、あともう少しです。X-23に対抗しつつ、チップを中和できるプログラムを作り出せそうで……。」
彼女の青い瞳には決意が宿っていた。ミランが衛星から監視しているかもしれない。ダリウスの意向を汲む政府上層部も黙ってはいない。だが、この研究と行動を止めるわけにはいかない。データの檻を打ち破るために必要な犠牲は十分すぎるほどに払われてきた。そして、まだ払わなければならない犠牲も多いだろう。
ナオミが闇サイトにアップした「フェニックス漢方」の改良レシピは世界中のハッカーコミュニティによって複製され始めていた。さらにファイルには、今後起こり得る大規模感染シナリオと予防策、そして監視社会を逃れるための独立型ネットワーク技術が含まれている。意識高い層からは「実現可能性は低い」と眉を顰められたが、貧困地区や隔離区域では「自分たちを救う道」として一気に火が付いた。SNS上では真偽不明の断片情報が拡散され、政府は再び強力な検閲を行おうとする。しかし、デモ隊はすでにバイオブロック地区から主要都市へ広がり始め、システムを止めることは不可能に近い。
朝焼けが差し込むラボの窓辺、荒木は静かに立ち上がった。最初はただのCDC調査官だった彼女が、今や世界の希望を繋ぎとめる一人となった。未完のパズルは、まだ多くの欠片が足りない。だがジェイクや森岡、ナオミ、リサ、そしてエレナらがそれぞれの場所からピースを送り合い、やがては一枚の大きな絵を完成させるかもしれない。
空には再びドローンが飛び交い、監視衛星のレーザーが曇った雲の合間をかいくぐるように地上をスキャンしていたが、どこかでそれを嘲笑うかのようにヴィンセントの改造レーシングカーが疾走している。壁を突き破り、規制をかいくぐるその姿は、守るべきものを守るため新たな戦いに挑む意志そのものだった。炎上サーキットから生还した彼は、人体最適化技術の先にある危険を知りながらも、同時にそれを善に向けたいと思っている。そこに生まれる矛盾こそが、人間社会そのものの本質でもあるのだ。
そして、街の片隅で明かりを消しながら開店準備をする小さな薬局。表向きは店を畳んだはずの「モリオカ薬品」には、新型のフェニックス漢方を求める人が次々と集まり出した。森岡は気管支の発作を抱えながらも、一人でも多くの人を救おうと懸命に調合に腕を振るう。かつてシルバーアローやバイタルグロウが追い求めた”利益”を、彼は純粋に”いのち”へと変えるために、その知識を惜しみなく注ぎ込んでいた。
やがて日が高く昇り、街の喧騒が戻ってくる。ヘリコプターの音が響くたびに人々は警戒して顔を上げる。しかし、朝の光は確かに射していた。見る者によっては、それはただの日常かもしれない。だが監視の網がいくら広がろうと、心ある者たちは電子の防壁を越え、病を治す力を結集し始めている。いまだゴールは遠いが、絶望の先にも夜明けはいつかやってくる。その時、データの檻を突き破る音が世界中へ響き渡るだろう。
この物語の終わりは、まだ誰にもわからない。X-22、X-23、そしてさらに先へと続く未知の脅威がある以上、闘いは途切れることを知らない。しかし絶望的な闇の中にも、人々が交わした数多の小さな誓いと行動が積み上げられている。いつの日かその総体が、新たな光を生み出すのだと信じて――。誰もが持つ未来への希求は、きっと監視政策や巨大権力の陰謀よりも強い。そう信じる者たちの歩みが、歴史に新たな一歩を刻むのだ。
だからこそ、どれほどの代償を払おうとも、荒木たちは前へ進む。漢方の自然治癒力と最先端テクノロジーの融合が、真の意味で人間を自由へ導く鍵となるかもしれない。あの廃墟のような街並みを飛び越えて、人間同士の連帯による夜明けが静かに訪れようとしていた。
誰もが、呪縛を解かれるその瞬間を待っている。かすかな希望を、胸に灯しながら。